第32話 滅びの唄


「に……人間の、分際で――ッ!」


 セイレーンは、上へ、上へ、上へ……と逃げていく。

 逃げることしかできない。


 しかし、すぐに人間も空中を蹴って追いつき、剣を振るってくる。

 自分の独壇場であるはずの空で――翼を持たない最弱にんげんに押される。


 セイレーンの体にどんどん生傷が増えていく。

 美しかった羽根がぼろぼろにちぎれ飛んでいく。

 あきらかな劣勢。


 このままでは――狩られる。



「…………勝って」



 そのとき、ふいに地上から音が聞こえてきた。

 セイレーンには、一瞬、なんの音かわからなかった。

 今までに聞いたことがない音。


 少し遅れて、それが市民の声だと気づく。

 ひとつの雫のような声は、やがて市民全体へと波紋のように広がっていき――。


「負けるなッ!」「いけぇッ!」「勝てェェッ!」


 市民たちが人間を応援する。

 セイレーンを恐れて声を出さなかった市民たちが、声を張り上げて叫んでいる。


 家畜にんげんが魔物に挑みかかり――圧倒している。

 その光景が、市民たちの希望となったのだろう。


「――“黙れ”! “黙れ”! “黙れ”ェェェ――ッ!」


 雑音、雑音、雑音、雑音、雑音――――。

 自分にまとわりつくような嫌な音を振り払うように、セイレーンは絶叫する。


 しかし、そのセイレーンの声も……届かない。

 片肺が欠損しているせいで声量が出ないのもあるが。

 なにより、1万の市民たちの声にあっさりとかき消されてしまう。

 命令が届かなければ、セイレーンに従う者なんていない。


(なぜ……!? なぜ、どいつもこいつも、思い通りにならないッ!)


 さらに追撃しようとしてくる人間を睨みつける。

 もはや、この人間が鳥かごに入るような器ではないことはわかった。

 こうなればもう、全身全声で……殺すしかない。


(…………仕方ない)


 本当は、“あの歌”だけは使いたくなかった。

 あまりにも醜悪で、惨めで、自分すらも破壊する危険な歌。

 しかし、もうそれしか手段はない。

 だから。


「――――ッ!!」


 セイレーンは静かに口を開き――口を裂いた。

 がばぁっ! と、口が耳元まで一気に裂ける。

 その開け放たれた口を中心に、びきびきびき……とセイレーンの肌に亀裂が広がっていく。


「……ッ! 水塊ミルズ……」


 人間がなにかを察知したらしい。

 今まで緩めなかった追撃の手を止めて、とっさになにかの魔法を発動する。

 ずいぶんと勘がいいことだ。いったい、この人間はどれほどの実戦経験を積んでいるのだろうか。


 しかし……全てはもう遅い。

 セイレーンの歌からは、逃れられない。


「…………ふぅぅぅ……」


 セイレーンは大きく息を吸い、そして――。


 ………………歌が、始まった。




「――……――――……――――……―――――ッ!!」




 それは、もはや音というより衝撃波だった。

 あらゆる物質を破壊する音がつらなり、ひとつの旋律となる。


 ――――滅びのうた


 それは、生命の終止符。

 声をつかさどる女王の鉄槌。

 これから踏み潰される聴衆たみへの葬送歌。


 その歌声は――。

 肉を、骨を、血管を、神経を、眼球を、内臓を、精神を……。


 そして、なにより――脳を破壊する。


 不可視にして音速。

 実体のない歌声の前では、いかなる回避や防御も意味をなさない。


「――……――――」


 ぱきん――ッ! と。

 セイレーンに迫っていた剣が、ガラスのように粉々に砕け散った。


「――――……――」


 ずん――ッ! と。

 人間が戦鎚の一撃でも食らったかのように大きくのけぞった。


「――……――――」


 人間が歌に合わせて踊るように、びくびくと体を跳ねさせる。

 人間の肉が裂け、骨がひしゃげ、血飛沫が舞い、そして――。



 ………………終演だ。



 静寂の幕が下りる。

 音が止まった世界で、ぼろぼろに壊れた人間が落ちていく。


(……全ての声を出し尽くした)


 セイレーンの声帯は完全に壊れた。もはや彼女の喉からは、音と呼ばれるものすら出すこともままならない。

 そんな自らをも破壊する一撃を、この人間は至近距離で食らったのだ。セイレーンの片肺に欠損があったとはいえ、充分に致命傷を与えられたはず。


 もはや、生きているということはないだろう。

 人間には人狼ワーウルフ不死鳥フェニックスのような再生能力はないのだから……。


(…………?)


 と、そのとき。

 セイレーンの視界の端に、なにかきらきらと輝くものが映った。

 その光の粒子のようなものは、人間の体から舞っているらしい。

 セイレーンはその光の正体に気づいた。

 あれは、そう……。



(…………水?)



 人間の頭の辺りで、大量の水が弾けるように舞っていた。

 先ほどまではなかったはずの水。

 よく見れば、その水は人間の頭を包み込んでいる。

 そして、その水飛沫の隙間で、人間の目が――。


 ……ぎょろり、と。


 セイレーンに、向けられた。

 人間の口がわずかに動いて、言葉をつむぎ出す。



「――――風王脚フゥゼ・デルタ



 ……反応は、できなかった。

 できたところで、まともに体が動かなかっただろう。


 気づけば、人間はすぐ目の前まで接近し――。

 その潰れた拳を、セイレーンの開け放たれた口へと突き刺していた。


「が……ッ!?」


 歯をへし折り、口蓋をえぐり、喉の奥にまで侵入する拳。

 セイレーンは混乱する。


(なぜ……? なぜだ……?)


 なぜ、この人間が生きているのか……わからない。

 今までこの必殺の一撃で、必ず殺せなかったことなどなかった。

 答えを求めるように人間の顔を見ると、彼はにやりと凶悪な笑みを浮かべる。


「……誰が……お前なんかの言いなりに……なってやるかよ」


 血を吐きながら人間は笑う。セイレーンを嘲笑う。

 その濡れた頭を見て、セイレーンはようやく理解した。


 この人間は――魔法で水の塊を作り出し、頭を覆ったのだ。


 音は水面で反射する性質を持つ。水中に届くのはごく一部だけ。

 海で生きてきたセイレーンにとって、それは痛いほど心当たりがあった。声が届かなくなる海中からの攻撃こそがセイレーンの弱点だったからだ。


 だからこそ、セイレーンは陸へと上がった。

 だというのに、その弱点をあっさり看破された。


(よりにもよって、最弱にんげんなどに……!)


 あの一瞬で、この人間は致命傷を回避するための対策をした。

 それはまさしく、魔物を倒すための知恵。

 この人間は、魔物の倒し方を知っているのだ。


(……なぜ? ……なぜだ?)


 心の中で何度も呟く。

 その『なぜ?』が、なにに対してのものなのかすら判然としない。

 それぐらい、目の前にいる人間の――全てがわからない。


 ただ、ひとつわかることは……。

 セイレーンの口に刺さった拳に、魔力が集まっていくことだけだ。


(や、やめ……ッ!)


 とっさになにか命令を下そうとしても、もはや声は出すことさえできない。

 声帯が潰れたうえに、人間の拳のせいで唇も舌も動かせない。

 命令しなければ、この人間を止められないというのに。


 ――止められない。


 人間の刃のような眼光が、セイレーンを射抜く。

 その燃えさかる瞳の灼熱色は、セイレーンを焼き尽くさんばかりに輝いた。


「お前ごときに【輪廻炎生コンティニュー】は必要ない――」


 そして、言う。



「――――爆ぜろ……風操フゥゼッ!」



 その言葉と同時に――ぱんっ、と。

 セイレーンの肉体は破裂したのだった――――。


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