4ー3 跡形もなく(3)
教官の遠野は、教場の黒板にチョークを走らせた。
〝秘密の暴露〟
黒板に大きく書かれたその文字。遠野は書いた自身の文字の出来に満足したのか、振り返って歯を見せて笑った。そして、背筋を伸ばし自分を見つめるたくさんの新人警察官を見渡す。
「刑事事件において、真犯人にしか知り得ない事実を取り調べの最中に自白すること。それを『秘密の暴露』という」
声を張った遠野の第一声。それと同時に、教場に整然と並んだ小さな机が急に騒がしくなった。机の上にある小六法が、パラパラと紙の乾いた音を一斉に響かせる。
「裏付けのある捜査結果において、事実に間違いない確証を得ることができれば、たとえ物的証拠や目撃証言が無くても、『秘密の暴露』のある自白は非常に有力な証拠となる。ただ、秘密の暴露は迫真性や具体性によって判断するのではなく、事件との関連性においての自白となるかが問われる」
遠野は一呼吸おいて、教場をもう一度見渡した。
「将来、被疑者の取り調べをする時、お前たちが故意に自白を誘導したりすると冤罪につながったり、せっかく有効な『秘密の暴露』が無効になる可能性がある。いいか? 取り調べはテレビドラマみたいな派手なことは絶対にない。地味で駆け引きが必要な、極めて重要な捜査の一つだ」
刑事訴訟法は事件を立件する上で、重要な法律であることは明白である、はずなのだが。難しく意味不明な言葉の羅列に、半分以上の新人警察官が俯いて硬直しているか、白目をむいて天を仰いでいるかの状態にあった。
実際、事件事故に対応し経験しなければ、どの法律のどの条文が当てはまるのか、ピンとこないだろう。かつて遠野自身が、全くもってそうだった。
(ま、こんなもんだろ。正直、分からんでもないしな)
と、初々しい新人警察官の様子に笑顔を浮かべた遠野は、小六法のページをパラリとめくる。
「遠野教官、質問してもいいですか?」
よく通る声を発して、霜村が手をあげた。おおよそ教場内でこのような状況下になった場合。必ずといっていほど、霜村は一番に行動する。遠野は霜村に向き直った。
「霜村巡査。なんだ?」
「自分たちがもし秘密を知ってしまって、それを故意とは言わずに漏らした場合。刑法第百三十四条の秘密漏示罪にあたりますか?」
いい反応だ、と言わんばかりに。遠野は思わずニヤリと笑う。
「おしい!」
遠野の一声に、霜村はバツの悪そうな顔をした。
「近いけど、まず法律が違うな。霜村巡査が言った秘密漏示罪は、医師や弁護士などに適用される条文だ。俺たち警察官若しくは地方公務員が、知り得た秘密を漏らした場合。地方公務員法第三十四条第一項の『職務上知り得た秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後も、また、同様とする』の条文が適用されるんだよ」
遠野の回答に、霜村は苦笑いしながら隣の席に座る市川に目配せをした。
「でも、目の付け所がいいぞ、霜村巡査。よく勉強してるな」
霜村と目を合わせていた市川が、少し恥ずかしそうにしていた霜村に、にこりと笑って反応している姿が目に入る。初々しくも頼もしい二人の姿が、教官であった遠野の胸に眩しく鮮やかに刻まれた。
その瞬間、かつての教え子であった霜村と市川の姿が、スッと遠野の視界から消える。同時に、目の前には薄暗い灯りにぼんやりと照らされたソファーが現れた。明るく希望に溢れていた過去から、色味が一気に無くなった現実に引き戻される。フッと息を短く吐いた遠野は、手にした缶コーヒーを苦い表情で飲み干した。
「なんで、今……。こんなの思い出すんだかなぁ」
霜村が殉職して、もうあんなに苦しい思いはしたくない、と心底思った。そして、市川が生きていてくれたことに、泣きたくなるほど嬉しかったのを鮮明に覚えている。そして今。またその市川に犯人の魔の手が及んでいる。手塩にかけ、仲間となった若い警察官を一人失った喪失感を二度と味わうことはしたくない。その思いは、言葉じゃ言い表せないほど重く遠野にのしかかった。
(市川に、もしものことがあったら……俺は)
行き場のない怒りや悔しさが、遠野の左手に過分な力が集中する。
グシャッ--!!
「遠野係長?」
空になった缶を力任せに潰したと同時に。リフレッシュコーナーを覗くように現れた勇刀と目が合った。愚直なほど真っ直ぐな勇刀の眼差しに、遠野は気の抜けた笑顔を浮かべる。
「すごい音しましたけど。手……大丈夫っすか?」
「たいしたことねぇよ、これくらい」
「公用車の手配ができました。どうしますか? 俺だけ言っても構いませんけど、遠野補佐も行かれますか?」
「おう」
遠野はソファーから立ち上がると、大きく伸びをした。そして、潰れた空き缶をゴミ箱へと投げ込んだ。
「緒方。車、表に回しとけ」
「はい!」
短く気持ちの良い返事を残し、勇刀はバタバタッと足音を鳴らして姿を消した。地下駐車場へと続く階段から、勇刀の小気味いい足音が響き渡る。その音を、遠野は寂寞として聞いていた。市川にも霜村にも、何もできなかった。何もしてあげられなかった。自分は自分が思っているより、無力である、と感じざるを得ないのだ。
遠野はため息を一つ大きく飲み込んだ。そして、消えた勇刀の足音を辿るように、階段を駆け降りた。
(揺れ……てる?)
暗闇の中で、感じる振動。意識を取り戻した市川は、ゆっくりと目を開けた。
(ここはどこだ? 車、の中なのか?)
身動きが取れないほど狭い空間であることは、市川自体すぐ認識していた。緊張と室温で、額が汗ばむ。それとは対照的に、手足は異常なほど冷たく感じる。床から直に体へと伝わる振動には耳も傾けず。僅かに感じる外の音を拾おうと、市川は床に耳を擦りつけた。
繁華街なら歩行者信号の音や、すれ違う自動車の音が幾多にも聴こえるはずだ。逆ならば閑静な住宅街を通り抜ける道か、ひとけの無い山道か。市川は目を閉じ、耳の感覚に全神経を集中させる。
「市川さーん、起きてんでしょー?」
その時、記憶の奥底で市川をずっと支配していた、あの声が市川を呼んだ。反射的に体がビクッと大きく震えて、たまらず頭を上げ周囲を見渡す。
(まさか、ヤツも車内に……いるのか!?)
車外へと研ぎ澄ましていた聴覚が、プツンと切れた。市川の意識は、あの声で一気に目に見えぬ車内の人物へと向けられる。
ガタン、ガタン--と、石でも踏んだのか。車が大きく上下に揺れ、トランクに詰め込まれた市川の体が反動で上下に動いた。
「っ!!」
押し込められた狭い金属の
「あぁ、ごめんごめん。運転、荒いねー」
市川が苦しんでいるのを、まるで見ているかのように。軽く小馬鹿にするような声が、くぐもってトランクに響く。
「ま、せっかくだから。楽しんでいこうよー」
「……!!」
厚く深い土中に埋もれていた記憶。この声が濁流となり、記憶の周りの土を削り取り全容を露わにした。ドクドクッ--と。血液が沸騰したかのように頭が熱を帯び、全身の毛穴が泡立つ。市川は、トランクの中を全力で蹴り上げた。
「おっと、暴れないでよー。また酸欠になっちゃうよ、市川さん」
「!?」
「暴れて興奮するほど、会いたかった?」
「んーッ!!」
「焦んないでよ、まだまだ時間はたっぷりあるんだから」
膜を帯びたようにぼんやりとした声であるにも拘らず。暗闇で音の感覚しかない市川の耳に、何故か鮮明に反響する。恐怖と焦りと。その声に耳が囚われて、心まで浸透し支配されそうになる。市川は暴れて抵抗して、その声から逃れる術がなかった。
そんな市川を見透かすように。トランクの向こう側にいる人物は、楽しそうに笑い声を上げた。
「あの時は邪魔が入ったからね。今度はちゃんと
最後まで遊ぼーよ、市川さん」
『やまびこ亭』という定食屋を営む女主人は、遠野と勇刀と鋭い目つきで一瞥した。
旧三級品と言われる古い銘柄の煙草の煙をふかすと。機嫌が悪そうに、まだ長いままの煙草を灰皿にグッと押しつけた。アルミの薄く丸い灰皿に、遠野はどことなく懐かしさを覚える。瞬間、煙を吸い込んだであろう、勇刀がゲホゲホッと荒い咳をした。
「すいません。煙草、慣れてなくて……」
「そうかい、悪かったね」
そういうと女主人はまた、煙草に火をつける。女性のふかした煙草の煙が、再び勇刀の目の前にフワーッと漂った。その白い煙に、困ったように勇刀は眉を
「何度いっても、何いっても答えは一緒だよ」
深く顔に刻まれた皺と、ずっと働いてきたことがわかるゴツゴツとした腕に白い頭髪。女主人から漂う雰囲気は、今まで幾多の試練や困難を乗り越えてきたと推測するには十分だった。勇刀は、じっと女主人の言葉に耳を傾ける。
「あたしが、店の前で車におかもちを積み込んでたら、声かけられたんだよ。〝手伝います〟ってさ」
「流石にさ。簡単に『はい、お願いします』って、見ず知らずの人には頼まんでしょ」
女主人の言い分に、遠野が困った顔をして答えた。
「人の好意は無駄にしないが、あたしの信条なんでね。手伝ってくれんなら、誰でもいいよ」
「おばちゃん、そういうの危ないよ?」
「危ないかどうかは、あたしが決めることだ。あんたじゃない」
「じゃあ、名前くらいは、聞いた?」
「だから、何度いっても、何いっても答えは一緒だよ。名前なんて知らない」
「またまたぁ」
「単なる通りすがりの人。こんな老ぼれを手伝ってくれた、善意の塊のような人だよ」
先ほどから繰り返される、遠野と女主人の会話。
「横からすみません。あの……その人、何か、言ってませんでしたか?」
二人がおりなす生産性のない会話に、勇刀はゆっくりと間合いをとりながら声を発した。その声に、女主人が動きを止め、鋭い目つきで勇刀を見つめる。
「何かって?」
「あ、いや。何でもいいんです。どんな食べ物が好きとか。大学生とか。或いは家族の話とか。何でもいいんです。警察本部に行く道中、何か言ってませんでしたか? その人」
市川に繋がる、せっかく掴んだ糸口をこのまま潰したくない。僅かなきっかけでもいい。どの糸が答えに繋がるかは分からない。それでも!! 鋭く冷たい女主人の視線から逸らすことなく、勇刀は真っ直ぐに見つめ返した。
「……知り合いがいるって」
「え?」
「〝中に知り合いがいるから、ちょっと顔なんて見せようかな〟って言ってたね、そう言えば」
「それ、本当ですか!?」
「中の様子も詳しそうだったからね。だから、その子に五階と六階の出前をお願いしたんだよ」
「そうなんですね」
「ちゃんとお釣りのお金もくすねずに渡してくれたし、悪い子には見えなかったね」
「それって……女の人、ですか?」
勇刀ははやる気持ちを抑えて、ゆっくりと女主人に聞いた。女主人は灰皿に再び煙草を落ち着けると、茶色い煙草のケースに手を伸ばす。そして、首を横に振った。
「華奢だけど、男の子だったよ」
「そうですか! それだけでもすごく貴重な情報です! ありがとうございました」
勇刀は遠野と目配せをした。再び口に煙草を咥え、その先に火をつけた女主人が、深く呼吸をして白い煙を漂わせる。
「昔の話だけど。まだあたしが、小さい頃。終戦後でこの辺はゴタゴタしててね」
女主人が徐に語り出した昔話。早く帰りたいのは山々だったが、勇刀は近くにあった丸椅子に腰を下ろして、その話に静かに耳を傾けた。
「この裏におなかが大きな若い奥さんと、まだ乳飲児の子が住んでたんだよ。旦那さんは出兵していて、母一人子一人でね。皆一様に生活も苦しかったんだが、その親子だけは、あたしにはやたら眩しくうつってたね」
「仲、良かったんですか? その人と」
「まぁね、当時は皆助け合って生きてたから。ある日、あたしはその奥さんが、雨ん中ぼんやりと庭先に突っ立ってんのを見たんだ。いつもニコニコしていて、愛想がよく眩しかったその人が。表情もなく佇んでいて。小さかったあたしは、まるでその人が鬼かなんかに見えてしまって。なんだか怖くなってさ。声がかけられなかったんだよ」
女主人は煙草を一つふかす。
「それから暫くは奥さんの姿を見ることはなかったんだけど。そうしているうちに、出兵していた旦那さんが戻ってきたんだ」
「ホッとしたでしょうね……生きて、戻られたんだから」
勇刀の言葉に、女主人は目を伏せて煙草をまた一つふかした。
「でもね。その旦那さんを迎えたのは奥さん一人。いつも抱っこされていたかわいい乳飲児も、大きなおなかにいたはずの子も。旦那さんが帰ると同時にいつの間にかいなくなっていた」
「……」
「大人は、誰も何も言わないんだよ。誰もね。夢だったんじゃないかってくらい、ね。ひょっとしたらあたししか見えてなかったんじゃないか、って。ひょっとしたら、初めからあの乳飲児も、おなかの子も夢だったんじゃないかってくらい。でも、いたんだよ、確かに。今でも覚えてる。抱っこさせてもらった、あの子の柔らかな暖かさ。精一杯生きてるって泣くあの子の声を。でも、なんの跡も残っちゃいない。サッと目の前からいなくなっちまった。あたしだけは、思い出す度に、今でもここんとこがモヤモヤして気持ちが悪くなる」
女主人は胸をおさえるとハァと息を吐いて、まだ長い煙草を再び灰皿に押しつける。立ちのぼる一筋の煙。勇刀は女主人が長い間抱えていたモヤモヤをその煙と重ねていた。
「今なら、跡形もなく消えたあの乳飲児たちをどうにかできたんじゃないかって思うけどさ。あたしは思うんだよ。今も昔も、何も知らなかった方がよかったってことがあるだってね」
「……でも、何もスッキリしない、ですよね」
勇刀は真っ直ぐに女主人を見つめて、言葉を返す。
「知らなかった方がいい、とは思います。その方が楽だし……。でも、跡形なく消えたものを……。俺はそのままにできません」
女主人は、勇刀を一瞥した。
「散らばって埋もれたパーツを集めて、積み上げて。またその痕跡を作ってあげたいって。生きていた、存在しているっていう事実を残してあげたいと、俺は思います」
女主人は勇刀から視線を逸らすと、ハハッと軽く笑って「詭弁だね」と漏らす。その言葉に「あ、よく言われます」と頭を掻いて明るく答える勇刀に、女主人はさらに声を出して笑った。
「そういや、だいぶ遅かったね」
「え?」
「五階と六階の出前なんて、五分もありゃ終わるんだけど。あの子は十分くらいかかって、待ち合わせした二階に降りてきたんだ」
「それ……本当、ですか?」
勇刀と遠野の視線が、交錯する。
「知り合いに会ったか、迷子にでもなったんだろうって気にも止めちゃいなかったんだけど……。これ、あんたのいう埋もれたパーツになるかい?」
「な、なりますッ!! すごく、なります!! ありがとうございます!! 助かりました!!」
勇刀は丸椅子から飛び上がるように立つと、女主人に深々と頭を下げた。
(糸口が僅かながら、繋がった……!)
僅かなきっかけがあれば、無限に可能性は広がる。掴んだ可能性に、嬉しさが込み上げた。握った拳が、震えてしまうほど、勇刀は気持ちが昂るのを覚えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます