3

『そうかい。それで分かったわい。確かにあのテンジン草の実は、約束したことや過去のことを、忘れないという効果はあるがの、一時的に約束したひとと引き離してしまう。と、いう副作用があるんじゃよ。しかし、それも幻覚の一種じゃからの、心配はいらん。もし、お前さんがもう一度、そのお祖母さんに逢いたいのなら、お前さんが寝ていたという場所に戻り、改めて眠ることじゃよ。そうしたら、眠りから醒めた時はお祖母さんのところに、戻ることができるじゃろうて…。さあ、これからすぐにでも戻りなされ』 

『はい。じゃ、ぼくはこれからすぐ戻ります。どうもありがとう、おじいさん』

『ああ、達者でな。お若いの…』

『はい、おじいさんもお元気で…』

 老人に別れを告げると、伸介は来た道を帰って行った。歩きながら「早くたどり着け、早くたどり着けつけ…」と、心の中で念じ続けた。来た時は何十時間もかかった道程も、伸介の祈りが通じたのかわずかな時間で、どうにか元の場所まで辿り着くことができた。

 伸介が寝ていた場所は起き上がった時、そのままの形で草が倒れこんでいた。老人に言われたとおり、すぐさまそこに横たわると、伸介は間もなく深い眠りについた。

 どれくらいの時間を眠っていたのか、伸介にはわからなかったが、やがて眠りから醒めた。伸介が眼を開くと、自分をやさしく見つめている信子の顔があった。

『ずいぶんぐっすりと眠っていたわ。やっぱり相当疲れていたのね。伸介くんは…』

『あ、信子ちゃん…、逢いたかったよ…』

 伸介はとっさに信子にしがみついた。伸介の頬が信子の柔らかい乳房に触れた。

『あら、あら、どうしたのよ…。伸介くん、よほど怖い夢でも見たのね。可哀そうに…。さあ、あたしのおっぱいでも呑んで、もう一度ゆっくりお休みなさい』

 そういって信子は自分の乳首を伸介の口に含ませた。

『さあ、そうやってゆっくり休みなさいね。伸介くん』

『うん、そうするよ。でも、ぼくの手をしっかりと握っていてくれないかな…。もう信子ちゃんと、離れ離れになるのはいやだから…、頼むよ…』

『わかったわよ。しょうがない子ね。これでいい…』

 信子が手を握りしめてやると、伸介は安心したようにゆっくりと、眠りの中に落ちて行った。そして、また夢を見ていた。今度は信子と一緒の夢だった。ふたりして、あの草原の中を歩いている夢だった。すると、またあの町が見えてきた。ふたりでしばらく歩いて行くと、どこからともなくあの老人が現れた。

『よお、お若いの、また逢えたのう。おや、今回はお祖母さんと一緒かの…。これはまた、えらいべっぴんさんのお祖母さんだのう…』

『あ、おじいさん、この前はありがとうございました。お陰でお祖母ちゃんのところに、戻ることができました』

『ほう、それはよかったのう。それにしても、本当にべっぴんさんじゃのう。こちらのお方は…』

『孫がすっかりお世話になったそうで、ありがとうございました』

 信子は老人に礼をいうと深々と頭を下げた。

『そんなことは気にせんでくだされ。お前さん…、もしや浅丘信子という名だった精神体と違いますかいのう…』

『ええ、そうですけど、どうしてあたしの名を……』

『おお、やっぱりそうか。あんたのことは、あんたの亭主だった伸之介から、しょっちゅう聞かされとるからのう』

『まあ、あのひとがあたしのことを、どんな風に言っているんですの…』

『おお、やはり気になりますかいのう…。伸之介はの。それはもう、いまでも信子さん、あんたにベタ惚れなんじゃと、奴が言うには若い時分に初めて逢った時から、惚れて惚れて惚れぬいていたんだと、そして親の反対を押し切ってまでして、所帯を持ったとか言っとったな。いやはや、聞いているこっちのほうが、恥ずかしくなるような、熱烈な恋愛だったそうだな。あんた方は』

『まあ、あのひとがそんなことを…。それでしたら、どうしてあたしに逢いに来て、くれないのかしらね…』

『それはじゃのう。ここはみんな、わしらのような再生の道を拒んだ者だけが、住んでいるところだからなんじゃよ』

『え、どうして…、どうしてですの。どうして再生されるのを拒んだりするのですか。せっかく、生まれ変われるというのに…』

『わしらはのう。もう、これでいいと思っている者ばかりなんじゃよ。それに何回再生されようとも、人間の人生なんてものは、それほど自分の都合のいいようには、ならないからのう。だから、わしらはここにいる限りは、死んだ時のままの姿を維持できるから、ここにいることに決めたんじゃよ。精神体には人間や動物と違って、寿命というものがないからのう』

『いいえ、そんなことはないと思いますよ。もしも、生まれ変わることができるのなら、それなりの違った人生が待っていると思いますよ。あたしは…』

『あんたは、おそらく初めて再生されるのだろうのう…。わしも最初の頃は、あんたと同じようなことを考えとったものじゃよ。自分から再生しようと、思っている時には解からなかったがのう。いざ、再生を止めてみたら、はっきりと見えてきたんじゃ。その時初めて、再生を繰り返すことの、虚しさをしみじみと知ったんじゃよ。

だから、ここに住んでいる者はみんな、再生する虚しさから解放されて、安楽な暮らしを送っているんじゃ。まあ、あんたが再生を望まれているのなら仕方がないが、そのうちにわかると思うがのう。再生を繰り返すことの虚しさを…。さて、わしはそろそろ行ってみるかのう…。どっこいしょ…』

『おじいさん、元気でね…』

 伸介は老人に別れを告げたところで眼が醒めた。

『いまのおじいさんは、伸介くんを通してあたしにメッセージをくれたのね。きっと…』

『え、信子ちゃんには、ぼくがみた夢がわかったの…』

『それはわかるわよ。なんて、言ったって、伸介くんはあたしの孫だもの。それにここは迷界よ。あなたは、まだ来たばかりだから解らないのよね。もう少し時間が経つと慣れるわよ。そうだ。これから伸介くんを、人間界に連れてってあげるわ』

『え、そんなことか出来るの…』

『できるわよ。あなたはまだ完全に死んだわけじゃないから、様子を見せてあげるわ。さあ、ついていらっしゃい』

 信子はそういうと、伸介と手をつなぐと何かを念じたようだった。すると次の瞬間、ふたりの姿は太陽の光が、まばゆく降りそそぐ地上に立っていた。ふたりが現れたのを、誰も気づく様子もないのをみて、不思議に思って伸介は信子に訊いた。

『ねえ、ぼくたちがいきなり現れたのに、誰も気がつかないみたいなんだけど、どうしたんだろう…』

『バカねぇ。あなたは、あたしたちはすでに精神体になって、この世界に存在していないのよ。見えるはずがないでしょう』

『え、それじゃ、ぼくたちはつまり…、幽霊ってことなのかい……』

『バカだねぇ。まったく、どうしてそういう、非科学的なことばかりいうのかしら。いい、よくお聞きなさいよ。そもそも、幽霊とかお化けなんてものは、人間が勝手に創りあげたものなのよ。あたしたちには、まったく関係がないのよ。あたしたちは精神体だってことを、もっとしっかり自覚しなさいよ。伸介くん、その証拠に自分の足元を、見てごらんなさい、影が見えないでしょう』

『あ、ほんとだ。影がない…。これじゃあ、やっぱり幽霊と一緒じゃないか…』

『だから、違うって言っているでしょう。幽霊というのは人間が生み出した産物で、この世で受けた恨みとか辛みとかが積み重なった、怨霊という形で出てくるものだわ。あたしたちとは無縁のものなのよ。それとも、伸介くんには何か人を、恨んだりするようなことでもあるの…』

『いや、そんなものはないけどさ…。現にぼくたちがここにいるのに、誰にも見えないんだよ。それって、やっぱり幽霊と同じじゃないのかなぁ…』

『だから、違うって言ってるでしょう。いいわ、そのうちわかると思うから。さあ、早くいらっしゃい。ここよ、あなたが運び込まれた病院は』

 信子は伸介の手を、引くようにして病院に入って行った。

『二階の二〇八号室だったわね。こっちよ。いらっしゃい』

 そのまま、病院の玄関先から信子と伸介の姿は消え、次の瞬間伸介が入院している、病室の中で実体化していた。

『あ、ぼくが寝ている…。でも、何だか自分が寝ている姿を自分で見るのって、変な気分だよな…。あれ、母さんがいない…。どうしたんだろう…』

『おおかた、おトイレにでも行っているんでしょう。でも、ごらんなさい。あなたの顔、もうすぐ死ぬような人の顔には見えないでしょう。きっと蘇えると思うわ。安心なさい。でも、まだもうすこし時間がかかりそうだけどね……』

 そこへドアが開いて、白衣を着た医者らしい男と、伸介の母親が入ってきた。

『あ、母さん……』

「先生。この子ったら、もう丸二日も経っているというのに、未だに気がつきませんのよ。本当に助かるんでしょうか…」

「お母さんにもお見せしましたが、レントゲン写真では骨や内臓にも、異常は見られませんでしたから、ほぼ間違いなく回復すると思いますよ。それにしても、今回の事故は本当に奇跡に近いんですよ。普通ならあれほどの事故でしたら、まず頭を強打しますから、頭蓋骨はいうまでもなく、体中の骨が砕けて内蔵なんかも、やられて当然なのですが、お宅の息子さんはまさに、強運の持ち主とでも言いますか、私なんかも今回のような例は初めてでして、少し驚いているくらいなんです」

「それでは、本当に助かるんですね。この子は…」

「大丈夫ですよ。お母さん。あと一日か二日の辛抱ですから、それまで待っていてください。それから、何かありましたら、そこのナースコールで読んでください。それでは私はこれで…」

「先生にそう言っていただいてホッとしました。本当にありがとうございます」

「では、お大事に、私はこれで…」

「どうも、ありがとうございました。どうも…」

 伸介の母は何度も何度も、主治医の医師に頭を下げて見送った。

『これではっきりしたわね。あなたは死なないのよ。生きているんだわ。安心したでしょ。さあ、帰りましょう。伸介くん、迷界へ…』

 担当の医師から、伸介が回復すると聞かされた母は、安堵の色を見せながら伸介の看病に当っていた。

 ふたたび迷界に戻ってきた伸介は、信子にふとこんなことを聞いた。

『ねえ、信子ちゃん、やっぱり死んでなくても精神体って、人には見えないし幽霊みたいなものなんだろうなぁ…。きっと』

『だから、なんべん言えばわかるのよ。あたしたちは精神体なのよ。もっともあなたは、まだ完全な精神体にはなっていないからだけどね。それに幽霊なんていうのは、人間が自分たちで勝手に創りあげた想像の産物だって、何回言えばわかるのかしらね。あなたは…』

『うん。そりゃあ、頭の中ではわかっているんだけど、ぼくたちのことは他の人には見えないし、それに影だって地面に映らないだろう。だから、妙な気分がしているんだよ…』

『もういいわ。そのうち、あなたにもハッキリとした、イメージで解かる時がくるわよ』

『そうかなぁ…、でも、なんかこう妙な気分なんだよ。自分で自分の姿を眺めているのっていうのは……』

『人間ってね、誰だって死んだら一度は、自分の死んでいる姿を見るものなのよ。あなたの場合は、死んだわけでもないから特別なのよ。だから、不思議に思うのね。きっと…』

『ふーん…、そうなのか…。でも、何だかまだスッキリしないんだよなぁ…』

『そうだ。いいことがあるわ。あたしのお友だちの娘さんを紹介してあげるわ。とってもいい娘よ。きっとあなたの気分も変わると思うの。さあ、一緒にいらっしゃい、紹介してあげるから…』

 信子は伸介の手を握ると、一瞬にして見慣れない家の前に立っていた。

『ほら、ここよ。ちょっと待っていてね。いま呼んでくるから…』

 家のドアを開けて信子は中へ入って行ったが、間もなくひとりのブロンドの髪の少女を連れてもどってきた。

『紹介するわ。これがあたしの孫の伸介よ。伸介くん、こちらあたしのお友だちのお孫さんでキャッシー・エルベルト。仲良くしてあげてね』

『ぼく、困るよ…。信子ちゃん…。英語なんてぜんぜん話せないし、会話とかどうすればいいか、わかんないよ…』

『まだ、そんなこと言っているの。伸介くんは、ここは迷界だってことを忘れているようね。ここでは言語も国も人種もすべて、何もかもが隔たりなく解放されているのよ。だから、伸介くんだってここに来た時、山羊のモクさんと話ができたから、ここまで連れてきてもらったんじゃないの。もう、忘れてしまったの…』

 信子に言われて伸介は、何となくわかったような気がした。

『それじゃ、このキャッシーとも自由に話せるんだね』

『オー、イエス、そのとおりよ。伸介、よろしくね』

『さあ、伸介くんも納得したようだし、ふたりで、どこかに行ってくるといいわ』

『うん、そうするよ。行こうか。キャッシー』

『ええ、行きましょう。どこ行こうか…』

 信子は満足そうにふたりを見つめていたが、何を思ったのかキャッシーを呼び止めた。

『あ、ちょっと待って、キャッシー。この子はね。伸介くんはね、まだ精神体が不安定なままなの…。交通事故に遇ったらしくて、伸介の精神体が生体との間で、彷徨っている状態だと思うのよ。本来なら、まだここへはやってくる存在ではないはずなのに、何かの手違いでシンシナさんのところに、通知が入ったから伸介くんもつい迷界に、迷い込んできたというところなのよ。だから、キャッシーもその辺のところを、頭の中に入れておいて付き合ってほしいのよ。お願いね』

『ええ、わかったわ。そうします。行きましょう、伸介』

 信子に見送られて、キャッシーの家を後にしたふたりだった。

『ねえ、これから、どこに連れて行ってくれるんだい。キャッシー』

『そうねえ、どこ行こうかしら…、そうそう、いいところがあるわ。ついていらっしゃい、こっちよ。伸介』

 キャッシーは先に立つと、どんどん歩いて行く。伸介もそのあとに、続くようについて行くより仕方なく、キャッシーの後に付いてどこまでも歩いて行った。

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