枝は腐っちゃただの土か

おくとりょう

土から生まれた黄の

後日譚(つまり、世界はハッピーエンド)

それは神経衰弱のように

「いらっしゃいませー!」


 爛々々らんらんらん♫と輝く夜の街。

 その片隅に僕がバイトしてるお店はある。ちょっとした居酒屋さんなんだけど、料理も冷凍や既製品じゃなくて、ちゃんと作ったものを出す。昼間は定食屋さんみたいだし、小料理屋という方が適切なのかもしれない。


「でも、この店のこの雰囲気は居酒屋だろ?」

 嬉しそうにそう言う店長は、いつも顔をしわくちゃにして笑う。ここは、先日亡くなられた彼のお母さんが始めたお店らしい。お客さんはその頃からの常連さんばかりなので、店長とも気心が知れた方が多くて優しいし、穏やかですごく居心地の良い職場だ。…なんだけど。


「おーい、もうちょっと詰めてー」

「すいませーん、灰皿くださーい」

「うおぉい、やめろって…おん🖤」


 今夜は少し雰囲気が違う。ガラガラとした酔っぱらいの声が響く店内には、知らない銘柄のキツい煙草の香りと、古い油みたいな芳しいベタついた香りが漂っていた。後で店長に聞くと、一瞬変な顔をして「それは多分加齢臭だね。ごめんね」と苦笑いしてた。


「悪いね、急にシフトをお願いしちゃって」

 振り向くと、申し訳なさそうな顔の店長。いつもよりほんのり紅い頬で微笑んでいた。いつの間にか、ちゃんと割烹着に着替えている。


「いえ、僕も今日は暇だったので!

 むしろ時給多めにしてもらえるのがありがたいくらいです!」


 そう言うと、ありがとうと呟いて、困り眉のまま厨房へと戻っていった。

 今夜は、店長の同窓会の三次会として、急遽貸し切りなのだ。


******************************


「お兄ちゃーん、熱燗あつかん二つー」

「はぁーい!少々お待ちくださぁーい」

 煙草と料理の香りでいっぱいの店内を僕は踊るようにクルクル回る。比喩ではなく、ホントに“目の回る”ような忙しさ。


 夜勤&急なシフトということで、時給は割りにしてもらう約束になってはいるのだが、それでも、あまり割りのいい仕事とは言えなかった。なんせ、すべての席の給仕を店長と僕の二人でやっているのだ。僕以外のメンバーは都合がつかなかったらしい…。

 店長は料理の準備もしなくちゃいけないので、実質的には一人でやっているのにも等しい。


「はい!生二つです!」

(…これが、"てんてこ舞い"ってヤツか)

 心の中で黄昏ながら、ビールジョッキを差し出すと、近くに座っていた男性が目をくりくりさせて、見つめてきた。


「…今、大学生?何の勉強してるの?」

 店長と同級生なので、おじいさん…ということはないと思うのだけど、綺麗な白髪。赤い顔の上にちょこんと乗っているそれが、話すときに身体を揺らすために、ふわふわ揺れる。その上、ひょっとこみたいに口を尖らせて話すくせのある人で、つい僕は吹き出しそうになりつつ応えた。


「…っ。神学です。

 宗教、神様の神学です」


 突然、さぁーっと店内は静まり返った。何か聴きたくない言葉を聴いてしまったかのように。

 時が止まったような店内を静かに紫煙が漂う。

「…その中で、アラビア語とかヘブライ語とかもやってます」

 ドキドしながらそう続けると、さっきの静寂から目をそらすかのように、場はどよめいた。

「何か喋ってみてくれるか?」

 少し赤みの抜けたひょっとこさんに言われて、先日の小テストのために覚えた例文をそらんじてみせると、側に座っていたおばさんが叩き倒さん勢いでバシバシと褒め称えてくれた。


「やっぱり、これからの時代は英語だけじゃダメねぇ!」


 会釈を返して立ち上がると、店内の煙が少し薄れたような、視界がすっきりしたような変な感じがした。


******************************


 草木も眠る丑三つ時…なんて、嘘ばっかり。店長の同級生たちの体力は底無しなのかもしれない。

 結局、三次会は夜明けまで続いた。おじさんおばさん軍団は、最後まで呑んではしゃいでの大騒ぎ。さっき、ようやく朝日に照らされながら、すごく満足げに帰っていった。徹夜してこの元気とは。みなさん僕の倍以上の年齢だなんて信じられない…。


「…ありがとね。お賃金は予定の倍くらいは出さないと労働に見合わないね」

 座敷席にへたりこんだ僕に、店長はホットコーヒーとイチジクのタルトを出してくれた。わぁ♪僕のお気に入りのメニューだ!


「これはサービスね」

 陽気に片目を閉じる店長に、思わず歓声をあげる。鼻腔をくすぐる芳醇な香りに、眠気も疲れも吹っ飛んだ。


******************************


「……そういえば、専攻のことを聞かれたときなんですけど」

 ほどよいタルトの甘味に頬鼓ほおつづみを打ちながら、ふと沸いてきた疑問を洩らした。

「何でか分かんないですけど、一瞬、しぃーんっとなったんですよ。

『宗教』っていうと『新興宗教』を連想して警戒されることはありましたけど、それとはちょっと違ったような…」

 僕は無意識にフォークを噛んでいた。店長はそれを「お行儀悪いよ」と静かに指摘してから、ひとくち自分の分のコーヒーを飲んだ。まだ目元がほんのり赤い。

 眠ってしまったのかと思うような沈黙のあと、店長はゆっくり口を開いた。


「…神様って、ホントにいるのかね」


 店長は深く息を吐くように煙を吐き出した。モヤモヤとした空気の中で、まだ長い煙草から立ち上る煙。それは小刻みに揺れていた。


「自由研究でね、それについて調べた子がいたんだよ…。死んじゃったんだけどね。

 まぁ、そうでなくても、この年まで生きていると、いろいろ考えちゃうんだよね。特に、嫌なことがあったときにとかね」

 彼は伏し目がちにそう言った。眼鏡には薄く店内の景色が映っていた。


 …何と言えば、いいのだろう。

 だって、神学を勉強してるとは言っても、僕は宣教師じゃないし、そもそもキリスト教徒じゃない。…ここで何と言うのがのか分からなくて、フォークをぎゅっと握りしめる。コーヒーの香りも嗅いじゃいけない気がして、ぐっと息を止める。


 伏し目がちに微笑む店長と息を止める僕。店内では時計の秒針だけが、いつも通り動いていた。


 …でも、ここで何か言うことが僕の役目な気がして。唾を飲み込んで、乾いた口を開く。冷たい空気が喉を抜ける。


「…その、これは僕の考えなんですけど…。

 …神ははじめに『光あれ』と言うんです。…けど、人間が科学で照らした世界に、神はいませんでした。

 人を作って、その成長を見守っていたはずの神様は側にいなかったんです」

 かすれる喉から絞り出した声は、少し裏返っていた。


「遠くから見ていたってこと?」


「かもしれません。

 ただ僕は神様が人間から逃げているんじゃないかと思っています」


「…逃げる?」


 カラカラカラと、店の外を空き缶が転がっていく音がした。人の気配はまだ少ない。


「えぇ、それは僕たちのことが嫌いだからではなくて、追いかけさせるため。成長させるためなのかなって。

 人間は神様を追いかけることで、…神様に近づこうとすることで、成長してきたんじゃないかと僕は思うんです」

 ギリシャ文化も西欧社会も、日本だって、歴史の側に神様の姿があった。神様や楽園を目指したことで、文化や社会が発展してきたように、僕は思う。


「…じゃあ、バベルの塔は?」


 うつむいたまま、店長は呟いた。

「あれは何だったの?

 せっかくみんなで仲良く塔づくりをしていたのに、それを壊したうえに、ひとつだった言語をバラバラして、相互理解まで妨げた。

 これでも、神は人の繁栄を祈っているのかい?」

「…それは」


「人間の方が何か間違っていたのかもねぇ…」


 アルトくらいの少し低くて落ち着いた声が僕の代わりに言葉を続けた。振り向くと、入り口にはひとりの女性。

「ちょっと忘れ物しちゃってさ」

 店長の同級生のひとりみたいだ。コツ、コツ、コツと、カウンターの側まで来ると、白い花の生けられた花瓶を覗き込んだ。シュッと四方に伸びた枝に無数の可愛い花をつけたそれに、慈しむように微笑みかけながら、彼女は再び口を開く。

「神の視点だと、足りないものが見えた。…だから、その塔の先へと続く未来を伏せたっていうのはどう?」

「足りないもの…ですか?」


「そう、そのままだと人類の発展は行き止まりだったの」

「…じゃあ、もし今も間違えた道を選べば、また世界を壊されてしまうかもしれないってことですか?」

 女の人は黙って背を向けたまま、身体を起こす。その綺麗な黒い長髪は何を考えているのか、分からなかった。


「…だから、過去を振り返るんだよ」

 少しため息混じりに、店長が横から言葉を続けた。

「未来は今の先にあるんだから、そのヒントは今に繋がる過去にあるさ。そういうことだよね?」


 女性はパッと顔をあげて、店長を見る。その表情は、胸から喜びが湧き出したように明るかった。

「うふふふ、そうね。そうよ。そうかもね」

 歌うようにそう言うと、くるくるっと踊るように踵を返すと、来たときのままで出ていった。白い花がそよそよ揺れた。


「忘れ物は気のせいね。…楽しい夜だった。

 …いつも生けてくれて、ありがとね」

 長い髪をたなびかせて。白い朝日を背景に。


 …彼女の出ていった引き戸を見つめて、ふと考えた。昨晩、あんな女性は居ただろうか。いや、違う。そうじゃない。今の彼女がどんな顔をしていたのか、もう思い出せない…。


「――…あーぁ」

 店長のため息が聴こえた。振り返ると、呆れているような、哀しそうな、嬉しそうなおかしな顔をしていた。


「…やっぱりコーヒーには甘いもの要るね。僕の分のタルトも取って来ようかな」

 気分を切り替えるようにそう言って、彼はコーヒーをぐっとあおった。そして、いつものしわくちゃな笑顔で厨房へ向かった。

 灰皿に残された煙草からは、細い紫煙がまっすぐに立ち上っている。…もしかしたら、少し泣いていたのかもしれないなと何故か僕は思った。


 まだ外は人気が少ない。射し込む朝の日差しはいつもより何だか優しい気がした。…すべて、僕の気のせいかもしれないけど。

 明るいというより優しい気がして、僕はそぉっと青空を仰いでみた。

 この空を忘れないでおこう。いつかの僕の答えになるように。

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