第13話 見知らぬ明日 Part3
煌輔の執務室を出ると一気に疲労感に襲われた。それでも極力態度には出さずに衛門の鬼士の前を通り過ぎ1階下の事務フロアへ降りた。4200m2の吹き抜け無柱のワンフロアで300名ほどの本部スタッフがてきぱきと仕事をこなしていた。この機会に経費処理を済ませようと経理部のエリアに向かっているといきなり罵声を浴びせられた。「おい、こら、ハンパモンがこんなところでナニやってんだ。ここは百鬼の総本山。テメェのようなコギタネェ奴の来るところじゃねぇんだよ。」20代後半の光時より少し小柄だが精悍な男が、普段であれば端正で上品とさえ言えるであろう表情を醜く歪め喚きちらしていた。「これは能登先生、お久しぶりです。お変わりなくお元気そうで何よりです。大津卿と福原卿もお変わりありませんか。今日は錬所の講義はないのですか。」「テメェには関係ねぇんだよ。ちょっと四罪を倒したからって良い気になってんじゃねえぞ。おめぇ煌輔様に具申書を出して面会を求めたんだってなぁ。何様のつもりだ。あぁ、禁忌の白鬼、暴虐の龍鬼様だったか。その上転身できねぇ半端者だったな。全く、テメェなんざ鬼士の面汚しなんだよ。さっさと辞めちまえよ。」「能登卿。周りは皆執務中だ。少し静かにしてもらえるか。」肉の壁が光時と能登の間に割って入る。ほれぼれするような筋肉の持ち主だった。光時より二回りは大きく、存在するだけで威圧感を放っていた。顔は存外に愛らしく全体に地上最大の肉食獣ホッキョクグマを彷彿させた。「日向公、ご無沙汰しております。」「おぉ、光時、お前も元気そうで何よりだ。なぁ能登卿、光時はお前の教え子なのだろ。こいつを鍛えたのは卿なのだからもう少し温かい目で見守ってやったらどうだ。」「チッ、日向公失礼します。あんま調子に乗ってんじゃねえぞ」すれ違いざまに捨て台詞を残して能登が二人から離れていく。「光時昼飯一緒にいかないか。少し離れるが神保町のジローはどうだ。」「よく覚えていて下さったのですね。ここに来たときはジローかカロリーだってことを。」「俺もあそこが好きだからな。じゃ、11時半に直接店で落ち合おう。」「はい。」光時にとっては有難い申し入れだった。まるで今からの光時の行動を知ってサポートしてくれているようにも思えた。経理部で経費処理を終えると10時半を少し回ったところであったが静乃に挨拶をして桃花流水会本部を後にした。雲は重く垂れこめていたが朝方の小雨はすっかり止んでいた。10分ほど歩き、三省堂の神保町本店へと足を運んだ。5階の医学書コーナーの一番奥に探していた人物を認めるとそっと近づいていった。「本郷先生」光時が呼びかけると神経外科の専門書を熱心に読みふけっていた初老の男が少し驚いたように振り返った。「光時君か。脅かさんでくれ。ここは本部に近すぎはしないかね。誰かにつけられたりはしていないだろうね。」「大丈夫です。丁度神保町のジローで昼食に誘われたので私がこちら方向に向かっても誰も怪しみませんでしたよ。尾行も私が三省堂に入ったところで引き返していきました。」「久しぶりだね。君が庸に入る直前の健康診断で会って以来だね。」「わざわざ一鬼士の徴庸前診断に本郷先生が当たってくださるとは思ってもみませんでした。」「君の父上から受けた恩義に少しでも報いたかったからね。この話は何度か君にしたことがあるかもしれないが日比谷事件の日、ちょうど私は厚労省の部会に呼ばれていてね、新年度開始のごたごたがやっと落ち着いた5月の中ごろだった。会議が3時ごろに終わってそのまま大学に帰っても良かったのだけれども日比谷公園のバラが見ごろかと思いちょっと寄ってみようと思ったのだよ。厚労省の入っている中央合同庁舎5号館の真正面だったしね。第二花壇の周りをゆっくりと歩いていたんだ。屈んで低い位置からバラを見ると、五月晴れの空と美しいコントラストを描いていて東京にもこんな風景があるのかと少し感動したのを覚えているよ。私以外にも数人の人たちが花壇の周りを散策していたんだ。公会堂の方から花壇越しに大噴水を見ると空中に灰色の穴が見えてね。最初は噴水の水に光が反射しているのかと思ったんだが・・・、何が起こったかは君なら分かるよね。怪物があふれてきて周りにいた人たちが次々と殺されていった。まるで黒い津波に飲み込まれていくようだった。私の所にも怪物の津波が届こうとしたその時に、空から漆黒の鎧をまとった武者たちが私と怪物たちの間に舞い降りてきて、一列横隊を組むと胸からまばゆい光を放ったんだ。光で目がくらんだ私の視界が戻ると、怪物どもはその数を半減させ、怪物が出てきた穴も吹き飛ばされていた。そして少し細身の鎧武者たちが光の剣と兜から放つ光線で残りの怪物たちを駆逐していた。門外漢の私にも自由に空を飛び、ビーム兵器を操る者たちが人ではない者だとすぐにわかったよ。そのことがあって私は秋津会に誘われたのだが、その後日比谷事件の背景を聞き、君の父上武庫泰時大公には私のみならず、この国の多くの人間が救われたと知ったんだ。それなのに私は泰時様が幽閉された時に何もできなかった。それどころか煌輔に命じられて君を封鬼してしまった。武蔵大公が恐ろしかった。今も恐ろしい。日本政府に要求をのませるため霞が関のまん前に現れた現出点に対処せず穢が漏出するに任せるなど、人命がどれほど失われるか、社会がどれほど混乱するか分かっていてそれを行える武蔵大公が恐ろしい。今君と二人で会っているところを彼に知られたら、私の叛意を悟られたら彼は躊躇なく私を排除するだろう。彼が一度私の排除を決めれば例え陰陽課の捜査官でもその意思を挫くことはできない。唯一鬼士だけがそれに抗することができようが、煌鬼(すめらのおに)桂閤下(こうか)はお飾りだし、陸奥大公や鳥羽大公もかつての力を失い、武庫大連は存在すらなくし、君は未だ力不足だ。」本郷は少し間を置いて言葉をつないだ。「再来年で東大を定年退官なんだ。学部長にまでなれたのだから私としては学内でこれ以上望むものはない。南九州医科大学の学長にと声をかけてもらっていてね、退官後は故郷の鹿児島に帰るつもりだ。本来なら自らの生き死により大事なものを見極め、行動できる歳なのだが未だそこに至れてはいない。これが私にできる精一杯だ。」本郷は力なく自虐的な笑みを浮かべながら昔ながらのマチ紐つき封筒を差し出した。「封鬼手術の記録一式と徴庸前診断の時に高分解能CTで撮像した頸部画像、それに私が調べた限り全ての封鬼子に関する資料だ。封鬼子は軸椎(第二頸椎)と第三頸椎の間、頭板状筋と僧帽筋の間に埋め込んでいる。表面を生体適合材料処理し組織と癒着するように作られていたが手術室でテフロンコーティングしておいた。」「待ってください。そんな浅い位置に埋め込まれているのですか。本来封鬼子は脊椎管内、髄膜の内側に脊髄神経線維に接触するよう挿入されるものではないのですか。・・・・。」
「先生、こんなところで思いのほか長時間立ち話をしてしまいました。正直に言うと先生に封鬼手術をされたことを恨んでいましたが今はその気持ちも晴れました。むしろ密かに行って下さった抵抗に感謝さえしています。」「いや、私には過ぎた言葉だ。君の父上から受け取った物のほんの一部しか返せてはいない。それと、封鬼子には発信機能が付いていて定期的に封鬼子が機能していることを外部に伝達するらしい。もし君が封鬼子を破壊することが出来たとしてもその事実が武蔵大公には直ぐに知られると考えた方がいい。」「知っています。」「もう一点。直接会うのは極力控えてもらえるかね。連絡は手紙で。連絡先は封筒に入っている。信頼できる同僚の研究室なんだ。」「承知しました。私への連絡はここに。学校の住所と担任の教諭です。私宛の郵便物は手渡してもらうように話は付けています。その人も信頼できる方です。」光時は予め用意したメモ用紙を本郷に手渡した。「忘れないでくれ、君は決して一人ではない。私はほとんど役立たずだが、決して諦めたわけではない。いつか君の父上から受けた恩義に絶対に報いる。この思いを抱くものは私一人ではない。また人だけではなく、百鬼にもその思いを密かに抱くものは多い。ただ、今は煌輔が恐ろしくて口を噤んでいるだけだ。だから、どうか生き延びと欲しい。君自身のためだけではない。君もまた多くの人にとっての希望なのだよ。」毎年10月になるとノーベル賞候補と取り上げられる人類の叡智がまだ10代の少年の手を取って深々と頭を下げた。光時も手を握り返す。「えぇ、簡単には死にませんよ。先生もお体にはお気を付けください。死んだらノーベル賞は受けられませんよ。」「有難う。」そう言って読みかけていた本を手に後ろ向きに手を振りながら一階へと降りて行った。光時は少し店内をブラツキ、時間をずらして店を後にした。
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