第8話 場違いな衣装 その8

 なるべく、気配を消したまま、靴音を少しも立てずに、周囲の誰とも無関係を装いながら、私の足は動き出した。彼女が何らかの気配を察知して、不意に振り向いたとしても、その視界の中には、こちらの身体がなるべく中央には入らない位置につけた。危険人物はすぐ真後ろにいるのに、相手はまだこちらに気づいていない。間抜けな話にも思えるが、親に頬を叩かれたこともない、あんな小娘に後方からの殺気を感じ取る能力など、備わっているはずもないのだろう。そのうち、不穏な空気に脅えて、何の脈絡もなしに振り向くのかもしれないが、万が一、視線が合ってしまったとしても、今夜はそれこそ雑多な種類の人間が街を歩いている。ぼろをまとい、あてどなくぶらぶらと徘徊している、明日をも知れぬ浮浪者から、旅慣れない東アジアからの団体旅行客、それから、プログラムを片手にイベント会場へと向かう、富裕層の著名人たちまで……。どれも疑いを持つべき存在とは思えず、彼らが何らかの拍子に振り返って、私の姿を見たとしても、買い物帰りのただの通行人だと思うに決まっている。ほとんどの人間は、ただならぬ嫌な予感を感じていたとしても、自分の良い方にしか解釈できないものだ。ただの傀儡である。私個人としては彼女の人生自体に重要な用事があるわけで、向こうの素性のほとんどを興味をもって調べているのだが、そもそも、遥か昔にすれ違っただけの二人であり、面識など、ほとんどないに等しいのだから……。


 ただ、誰が見ているかも知れないこの大通りで、下手な動きは出来ない。ポケットの中の武器を取り出してみせるなど、もってのほかだ。十階をゆうに越えるビル群が周囲にひしめいており、その手に望遠鏡という存在ひとつさえあれば、地上の路上の隅を歩いている人間をも、その視界に捉えることは容易にできる。当然、一つひとつの動作には、十分な警戒が必要になる。この世界には、暗殺者を見張るための専門の密偵だって存在する。彼らは不審者の密告も、手に負えない残虐な事件の後始末も、警察の手の回らないことなら、何でも引き受けるという。


 この広い道の前方のどこかで、何かに驚いたような、大きな歓声が上がったような気がした。著名人がステージに上がったのか、それとも、開幕を告げる花火が打ち上がったのかは、この位置からでは判断がつかなかった。開場の時刻まで、あと一時間を切った。そろそろ、会場の前に入場券を手にした人の列ができる。数人のスタッフではその処理ができず、人通りがさらに多くなる。この様子では、まだ標的には近づけない。不用意に接近してしまい、このタイミングで危険を察知され、大声でも出されてしまうと、あらゆる不測の事態に襲われるだろう。私は十五メートルほどの距離を取って、なるべく、自然な振る舞いで後を付けていくことにした。慎重に獲物の動きを伺っていたが、あくまで一人の女性としての動きであり、自分の身に迫る何かを警戒しているようには、まったく見えない。そもそも、行き過ぎる人に顔を見られて困るのは、本来であれば、私などよりも、向こうのヒロインのはずなのだが……。彼女は一度も顔を上げたりはしない。うつむき加減に歩みながら、最初の街灯の下まで来ると、何の迷いもなく、右手に進路を変えた。人の目につく広い通りはあえて使わず、出来るだけ近道となる、細く暗い路地を抜けて、狭いマンション通りを抜けて、向こう側の大通りにショートカットをして、そこで、劇場へと案内してくれる送迎車に乗り込むつもりなのだろう。こちらのスタッフの事前の調査によると、その判断が採用されるのは、およそ80%程度の確率らしい。今夜もおそらくは、同じような移動手段を取るだろう、と上役からは聞かされていた。幸運にも、それが的中したようだ。当然、向こうの通りに抜けてしまうまでの、ひと気のない細い路地を歩んでいる際の、ごくわずかな時間帯が勝負となる。この路地を抜ける前に、ごく自然に近づいていき、向こうに気配を悟られないうちに、背後から声をかけられればいいのだが……。


 しかし、私が後を追って路地に入った刹那、前を歩いていた標的は、明らかな意図を持って、こちらの方を振り返った。日頃から、自分の動きが常に他人の目に晒されている、有名女優としての『慣れ』なのかもしれない。意外なことだが、誰かが後をついてきていることを薄々と感知していたようだ。彼女の脅えた目は、私が明らかに悪意を持った他人であり、確実に追ってきていることを確信した。こちらの右手は、まだ、コートのポケットに入れたまま。そして、左腕には薔薇の束を抱えたままである。大女優は自分の方へと速足で近づいてくる、こちらの姿をはっきりと見たはずだ。どんなに鈍感で間抜けな人間でも、熱烈なファンが今夜の出番を祝福するためにわざわざ来てくれたのだ、とは思わないだろう。標的の顔色がはっきりと変わったところを確認できた。もう、存在すら疑わしい一般人を装うような、余計な演技などをする必要はない。


「ちょっと、待って、待ちなさい」


 無理だとは分かっていても、少しでも相手を安心させようと発せられる、こういったセリフは、道徳や法律に対して、真正面から歯向かうような、禍々しい仕事を長いこと勤めているうちに、自然と喉の奥から出てくるようになった。買い物かごを片手に持った、近隣の住民と思われる通行人が、何らかの不測の事態が出来していることを察知して、その場で歩みを止めて、真っ青な顔をした若い女性を追っていく私の姿や、その動きの一部始終を記憶に留めようとしている。標的は未来の通報者の目の前を全力で走り抜けていく。こちらとしても、今さら、一人ひとりの目撃者の細かい動向などを気にしていたら、こんな危うい仕事はやってられないのだ。事の成否も明らかになっていないのに、余計な犠牲者を出すのはまずいだろう。家庭生活においても、大掃除のときに目についた害虫や汚れたネズミたちを、すべて処理していけるほど、神経の行き届いた主婦はなかなかいないはずだ。しかしながら、何も危害を加えてもいないうちに、あちこちに通報されてしまい、真っ先に容疑者にされてしまうのも困る。ポケットにもバッグにも、当然、凶器は入っているし、警察から職務質問を受けたら、司法試験に通ってしまうほどに口が回る、知的な殺し屋でも、もはや、誤魔化すことは出来ないのだ。そこで、なるべく余裕の態度を装って、それらの疑惑を少しでも払拭しておかなくてはならなかった。私はこれから会場へと向かう有名ダンサー、いや、舞台女優なのだから……。


 この細い路地の四方を取り囲む古い建物たちは、貧しい数家族が同居するような、安っぽい賃貸アパートばかりなのだが、右前方にそびえるアパートメントの三階の窓がふいに開かれて私の視線を誘った。騒音や光線などにより、この事態の何かがバレてしまったわけではなく、それは、ほんの偶然であった。部屋の内部からは、呆けた表情をした中年の女性が、ほとんど何の目的もなく、呑気に顔を出した。外の空気を吸いたかっただけの中年女は、今のところ、これから、大変な事件が起きようとしていることなど、予感すらできていない。その行動をあと五分ほど後ろにずらしてくれれば良かったのに……。よりにもよって、まったく、こんな時に! 私は再び息を整えて、自然と視線を地面へと伏せる。


『夕飯前にちょっと部屋の中の澱んだ空気を入れ替えようと思っただけなんです。私は何も考えずに、自然な仕草で窓を開いたんです……。そうしたら、まあ! あんな凶悪な事件を、この目にしてしまうなんて……』


 翌日の大衆新聞において、そんな有力情報が載ってしまうと、こちらとしては大いに困る。多くの善良で暇な庶民は、殺害事件の現場に居合わせたい、などとは露ほども思っていないものだ。ただ、何の気なしに一大事の起こる前の現場へと近づいていく、図太い嗅覚だけは貧民の誰もが持っている。大事件の唯一の目撃者という肩書に何らかの魅力を感じるのか、それとも、自分の恵まれない人生に箔をつけたいのか、警察官に根掘り葉掘り尋ねられるのが、とにかくお好みの様子である。その上で、第一発見者の自分が、もし、容疑者にされてしまうとなると、これはもう、まさにサスペンス映画さながらであり、余計にスリルを感じたりもするらしい。警察署の面会室で安いお茶などを出されると、聞かれもしていないのに、あることないことぶちまけ始める。今の私のような、犯人側からすれば、これ以上迷惑な話はない。犯した罪については償う必要があるのだろうが、関わってもいないはずの事件のことまで、罪に問われる可能性が出て来る。どんなにあどけない人間に見えても、警戒は欠かせない。


 こちらとしては、それほど慌ててはいけないのだが、鏡の前でせっかく整えてきた、その長い美しい髪を振り乱して、懸命に逃げていく舞台女優との間合いが、まったく開いていないことを、上目遣いで確認しながら後を追った。そして、コートの内ポケットから、チタン製のサイレンサーを取り出して、拳銃の銃口の内側のねじ切りに、静かに落ち着いて、指先には少しの震えもなく……、ゆっくりと廻して取り付けた。前を行く女優は、この局面において、不審者に追われているということが、どの程度危険な状況なのかは、すでに理解できている。ただ、追われている二つの要因を確実に理解しているのかどうかは甚だ疑問であるが……。おそらく、本番直前に護衛も付けずに、徒歩でこの暗い路地を抜けていくという選択には、多少の不安は感じていたのだろう。だから、今の最悪の状況に対して、事後の努力において、何とか苦境を脱してみせようと、ムキになるのはよくわかる。だが、それならば、なぜ、あんなに高くて走りづらい、まるでフラミンゴのような目立つハイヒールを履いてきたのだろうか? 


 彼女との間合いは、ほぼ十メートル。完全に錯乱している標的の身体は、疾走しながらも、右へ左へと大きくぶれていく。ただ、この暗がりや住民の視線など、不確定要因はまだ多く、容易に引き金は引けない。この周囲には路地裏の暗がりを、上半身Tシャツ姿で、平然とうろつくことが出来る、恥を知らない貧困層の住民どもが多く居住している。ということは、一発たりとも外すことは出来ないわけだ。高性能の静音機はすでに取り付けてあるが、すべての住居の窓と、この狭い路地のあらゆる十字路との間合いが、これほどまでに密着していると、ほんの少しの偶然によって、殺害の際の銃声を誰かに聞かれてしまう可能性は十分にある。それに、その柔い身体に撃ち込んだと思った瞬間に、わき道から自転車に乗った、空気の読めない邪魔者が突然飛び出して来て、本人すら望んでいない生贄にならないとも限らない。事実、そのようなきわめて不幸な手違いにより、暗殺者本人の落ち度は一切なかったにも関わらず、警察の手に落ちる羽目になってしまった同志も少なからずいるのだ。


 碁盤の目のような、この細い路地は、緩くカーブしながらも、あと七十メートルほどは続く。そこを抜けた先の広い路地には、おそらく、迎えのハイヤーや警備員が万全の態勢で待ち構えているのだろう。そのことを考えると、仕事を成功させるには、もう、あと十数秒がリミットとなる。私はここが勝負所と読んで、最大限歩みを速めて距離を詰めていく。もう、第三者の目は気にしなくてもいい。少しずつ、獲物との差は着実に詰まっていく。必死に走るヒロインは、仄暗い路地の先に、微かな光を見つけたようで、そこに命が助かる可能性をわずかに見出したようだ。光の方向に向けて、一刻も後ろを見ずに懸命に駆けていく。しかし、錯乱状態の身体の動きによって、器用にゴールまで走り切れるほど、数か月前から練りに練られた、この舞台は甘くはない。貴女がこちらの世界の動きをまるで知らなかっただけで、今夜のシナリオの行く末は、冷酷な運命によって、すでにがんじがらめに塗り固められていたのだ。


 獲物の身体は、右壁沿いに意味もなく放置されたゴミバケツを、何とか避けようと、足がもつれて、大きくよれて、こちらとの距離がまた少し縮まった。私はこれまでずっとコートの内に隠していた右手を、ゆっくりとポケットから出した。『さあ、こっちを見なさい』と標的に宣告したいわけだが、もう、大通りはすぐそこに迫っている。絶対に声は出せない。標的となった、可哀そうなヒロインは、死が間近に迫る恐怖には到底勝てず、最大限の哀願の眼差しによって、最期にもう一度、こちらを振り向いた。


「お久しぶりです。でも、どうせ、覚えてないんでしょう?」


 当然、私の手に握られた漆黒の拳銃を、その美しい瞳に捉えたはずだ。そして、その銃口が間違いなく自分の心臓に向けられていることも。


『ねえ、この作業、面白いからやらせてあげるよ』


 まだ、学生の時分、たしか、クリスマスイブの夜だと思ったが、友人に鶏の丸焼きを特殊な形態のテーブルナイフを使うことで、人数分に切り分けていく作業を手伝わせてもらった記憶(こと)がある。元々、肉屋を経営していた両親から譲り受けたものらしいのだが、その切れ味の凄さには、とにかく驚かされた。硬くて分厚い肉の筋に、サァー、サァーと刃先が入っていく。その特殊ナイフを自慢げに紹介したくて、敢えて私にやらせてくれたのかも知れない。その作業が余りにも楽しくて、誰にも食べきれない量の鶏肉が、すでに、お客全員の皿の上に配られていたにも関わらず、肉を割くことをやめられなくなってしまった。


 暗殺者という、この不幸な仕事に就いてから、すでに四年にもなる。的に向けて拳銃を撃つときも、あの時と同じような感覚があった。


『貴方がたはレストランに行けば、何を出されても、ムシャムシャと食べるようだが、牛も豚も鶏も、命の重さとしては、我々人間とまったく同じはずだ』


 それが正論だと主張する、偏向した無神論者もこの広い世の中には、数多くいるらしい。なかなか人を食った思い込みで、素晴らしいとは思うのだが、ただ、それと少し近い思いつきで、自分が考えたことは、ナイフで鶏肉を躊躇なしに切り刻める程度の度胸がある人ならば、おそらく、目の前に高くうず高く積まれた大金のためなら、拳銃で標的の胸板を貫くのも比較的容易であろう。つまり、自分に最低限必要な程度の金額さえ、確実に手に入るのであれば、人はどんなことでもやれるわけだ。斜めに35℃くらい、左目から一番よく見える位置に、その細い身体の中心が達したとき、人差し指の先が自分の脳が合図をする暇もなく、自然と引き金を引いていた。パーティー会場で、子供たちが控えめにクラッカーを鳴らしたかのような、乾いた音が二回耳に届いた。的中した位置は、想定していた場所よりも、若干離れていたように思う。しかし、仕事としてはまったく問題はなかった。彼女の身体がクルクルっとダンスのように頼りなく二回転してから、何とか生きようと、壁に縋りつこうとした。しかし、体勢を保つ力など、すでに残っているはずもなく、まるで、電源が切れたおもちゃのロボットのように、静かに地面の上に崩れ落ちたのだった。


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