第59話
汎用ハンガーにかけられた衣服が、クルードの空調装置の排気を受けて揺れていた。
騒音が近づいては遠のいて、この場所はとても温かい。
あれは、地上のどの住居にも標準装備されているボディドライヤーの規模を大きくした物だろう。何かを思い出した身体はすぐに飛び起きそうになって、それを拒絶したのも同じ身体であった。辛うじて瞼だけが動く。
「まだ大丈夫よ?みんなそろそろ眠ったころかしらね?」
「レト」
「なあに?」
「今は何ページ目だ?」
「59ページよ」
「そうか」
さっき聞いた時、彼女が開いていたページは57ページと58ページだった。
つまり、地上の一晩よりずっと長く感じられた意識混濁と、その後に決まって訪れる脅迫的な目覚めはレトがわずか1ページ読み進める間に起きた出来事という訳だ。ここクルードでは時間の流れが地上よりもずっと緩やかなのかもしれない、刺激的で、ありえない仮説だ。しかし、もしそうであるなら、少ない食糧でも彼等が生き延びられている事の説明が付くような気がした。
「レト」
「なあに?」
「今は何ページ目だ?」
「59ページよ」
「誰かが来るかもしれない」
「誰も来ないわよ」
「そうか」
ヨナはすっかり汚れた普段着を遥か下方から見上げていた。見上げると言っても、ヨナはそれらを正面で捉えることが出来ていた。
クリーニングが施されていない服は皺だらけで、所々に汚れが沁みつき、あれらは乾いても元には戻らないだろう。最後の抵抗むなしく奪い取られた肌着はその薄さゆえ、既に乾いているようだったが、身重のレトが苦労して作動させた『物干し紐』だ。せっかくならば手間は少ない方がきっといい。
「・・・生物は」
唐突に吐き出された声に僅かに二人は驚いた。
レトがページを一枚めくる。ヨナの脳裏に無かったことにしてしまおうというやましい感情がやってきて、再び意識も遠のいた。そう、全て夢なのだ。
「生物は?なあに?ヨナ」
レトが夢からヨナを引き戻す。残酷に、強引なまでに。ヨナは短い間だったが時を旅する感覚を味わった。彼のすぐ隣で、レトの腹がひとりでに蠢いてこちらに手を伸ばしているような気がしたのだ。無論、それらは全て極度の疲労が見せる幻覚であり、レトの腹にそのような変化は見受けられない。彼はすぐに目を覚ました。
「ああ、こうしていたと思うか?」
「ふふ、どうかしら」
レトはそう言って、持っていた紙束を素早く閉じた。
それから、ヨナの額に触れて顔を覗き込む。日頃の労働によって荒れた肌がひたいを引っ掻いたが触れているところはとても温かい。
「さぁヨナそろそろ起きなさい」
彼女は大変にひどい人物だ。
「もう少しこうしていたい。それに、服だってまだ乾いていないはずだ」
「ダメよ。もう100ページも読んじゃったんだから」
「まさか?本当なのか?」
「本当よ?でも、そうね、もう少しだけこうしていましょうか?」
彼女に対する認識を改めなければならない。と、彼は思った。
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