第21話 トイレ

1.


 廊下を歩き、トイレの出入り口の前にポツンと置かれた灯りを目指す。

  たかだか二十メートルくらいの距離なのに、果てしない時間、迷宮のような場所をさまよっているかのような感覚に囚われた。


 ようやくトイレの前にたどり着くと、夕貴は急いで廊下に置かれたランタン型の灯りを取り上げ、僕に手渡した。


 そうして懐中電灯で「男子手洗い」と書かれた札を照らす。


 

 僕たちは凍りついたようにしばらく、その見慣れているはずの札を眺めていた。


 耳を澄ましてもトイレの中からは、何も聞こえない。

 そのことが恐ろしかった。

 そして僕以外の他の二人も、それを恐ろしいと感じていることが伝わってきた。


 夕貴はドアについているすりガラスに懐中電灯の灯りを当てた。

 しかし、もちろんそんなことをしても漆黒の闇が映るだけで、中の様子はまるでわからない。


 夕貴は少しだけ、扉を押して隙間を作った。

 扉を支える手は、小刻みに震えていた。



「黒須……?」



 夕貴は隙間を覗き込むように、首を僅かに傾けて黒須の名前を呼んだ。

 しかし辺りはシンとして、何の音も聞こえてこない。

 お互いの乱れた息遣いだけが、耳に届く。


 夕貴は思いきったように、ドアをもう少し押し開けて首を中に入れた。



「黒須、いないのか?」



 トイレの中は、廊下以上に濃い闇だった。

 その闇の中に、夕貴の首から先だけが吸い込まれたように見える。


 夕貴は懐中電灯を中に入れ、トイレの中に光を当てた。


 夕貴の体の陰から顔を覗かせた璃奈が、小さく高い鼻に皺を寄せて顔を背ける。


「変な臭い……」

「それは」


 トイレだからだろ。

 そう言いかけたが、その時、僕の鼻孔に臭いが忍び込んできた。

 

 思わず鼻を押さえる。

 これはトイレの臭いではない。

 

 大量の魚が腐って浮いている池のような、そんな臭いだ。

 そしてこれは……。


「……っ!」


 夕貴が声にならない声を上げ、体を大きく震わせた。

 その後も夕貴の体は、ガタガタと震え続ける。


「どうしたんだよ……?」


 夕貴は僕の問いに答えず、端整な顔を闇の中でも浮かび上がるくらい蒼白にし、食い入るように電灯で照らされたトイレの床の一点を凝視していた。


 電灯に照らし出されたのは、鮮やかな紅だった。

 暗闇の中に流れる、おびただしい大量の血。


 璃奈が悲鳴を上げた。

 動物が絞め殺される寸前のような、つんざくようなけたたましい悲鳴が二回、三回と耳に響く。


 それは本来であればひどくうるさく耳障りなものであるはずだが、僕の耳にはまるで遠い世界で響くもののように聞こえた。


 狂ったように金切り声を上げ続ける璃奈には構わず、僕と夕貴はぼんやりとただ電灯の中の紅色を見つめ続ける。


「……なあ……黒須……」


 夕貴は一縷の望みを込めて黒須の名前を呼ぶ。

 まるで誰かに聞かれることを恐れるかのような、小さな囁きだった。



 震えながら一番奥の個室に向かう夕貴の後に、僕もついて行く。


 床に流れ出す血を無意識のうちにまたぎ、僕たちは一番奥の個室の前に立ち、中を覗いた。



 黒須がいた。



 個室の壁に寄りかかるようにして、床に座り込んでいる。

 これ以上はないというくらい大きく見開かれた瞳には、驚愕だけが浮かんでいた。

 ぽかんと開いた口からは、わずかにベロが突き出て、その端からとめどなく血が溢れている。


 体は血まみれで、まるで赤い服に着替えたように見えた。


 

 すさまじい音が耳をつんざいた。

 その音が夕貴と僕自身の口からほとばしっていると、少し経ってから気付いた。


 僕たちは意味をなさない言葉を上げながら、我先にと外に飛び出た。


 

 そのまま立ち止まらず、凄い勢いで廊下を走り階段を駆け下り、三階の一番奥の五年二組の教室を目指した。




2.


 僕たちは何かから追い立てられるように、狂ったような勢いで五年二組の教室に飛び込んだ。


 バンと勢いよく教室の扉を閉める。


 そうして扉を押さえた姿勢のまま、僕は腰が抜けたようにその場に座りこんだ。



 瞼の裏に浮かぶ光景が信じられなかった。


 目を見開き舌を突き出した、蝋のように青白い黒須の顔。

 体を一面に染めた赤黒い液体。


 その記憶を振り払いたく、僕は激しく首を振り続けた。


 夢だ、夢に違いない。

 何もかも悪い夢なんだ。

 これは夢だ。

 夢の中だ。

 何とかして、どうにかして、どんな方法を使ってもここから出なければならない。


 そうでなければ。


 

 目の前に黒須の姿が浮かんできて、僕は再び獣じみたつんざくような悲鳴を上げた。


 恐怖にその場で転がり回り、悲鳴を上げ続ける僕の耳が、夕貴の震える小さな声をやけにはっきりと捉えた。


「……璃奈は……?」


 僕たちは、その時になって初めて、一緒にいたはずの璃奈がいないことに気付いた。




 




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