5.大丈夫、僕は辛くないよ

 名前は「おい」ではダメみたい。僕が知ってるのは、そのくらいなのに。名前を新しく探すの? 契約は分からないけど、痛くないならいい。この人は僕を抱っこしてくれるから。僕を包む腕が温かくて、触れても怒鳴ったり殴らなかった。すごく優しい人だ。


 頭の上に角があるの。黒い髪の上でキラキラする銀の角は、とても綺麗だった。僕にも生えていたらいいのに。少しでも仲間の部分があれば、一緒にいてくれるかも知れないな。


「願いがあれば申せ。ひとつ叶えてやろう」


 ひとつ? 繰り返してから迷う。僕は汚い醜い子だから、いっぱい欲しい。抱っこも、温もりも、優しい目も、僕にいっぱい向けて欲しい。でも選ばないといけないの? どれを選んだら僕は殴られずに、この綺麗な人と一緒にいられるのかな。


 表現する方法が分からなくて、全部声に出したら僕の汚さに嫌われると思う。僕は生まれてはいけなかったんだ。がそう言った。奥様は僕のお母さんだったけど、今は違う。


 お風呂は暖かい場所だと初めて知った。いつも冷たい水を掛けられて終わりだったから。いい匂いのする泡で髪を洗ってもらう。目に沁みて、傷にも沁みたけど、すぐに洗い流された。沁みるって先に教えてもらったから我慢する。


 動物の人が来たけど、外へ出て行った。服を脱いだ僕はさっきより醜いから、触りたくないんだよね。僕があの人だったらそう思う。なのに綺麗な人は僕を洗った。その手で優しく撫でられると嬉しくなる。大切な人にするみたいだ。僕、この人の大切な人になりたい。


 汚くて痒い髪を何度も洗うと、泡が消えなくなった。しゅわしゅわと音を立てて泡立つ。指先で掬ったら、柔らかくていい匂いがした。僕もこの泡があれば、臭くないかな。この泡の匂いは好きだ。泡を指で弄ってる間に、洗うのは終わった。


 僕を抱っこしたまま、綺麗な人が頬や額を撫でる。気持ちよくて嬉しくて笑う。今の僕は臭くない。汚くないから触って。ぼうっとして、浮いてる感じがした。気持ちよくなりすぎて壊れちゃったのかな? 首を傾げたら力が抜けた。どうしよう、動けない。


 大慌てで僕を外へ出して乾かしたみたい。よく見えないから、わからなかったけど。濡れた髪がふわっとした。動物の人の毛みたいで、近づけた気がして嬉しい。頬を緩ませたら、冷たいお水をくれた。喉を通ると、お腹の中に落ちるのがわかる。美味しい。


 濁ってなくて臭くないお水なんて、初めて飲んだよ。お水って美味しかったんだね。綺麗な人が僕の喉の下にある骨を指でなぞった。温かい指が通った場所がじわじわと熱を帯びる。


「ここ、あったかい」


 すごく気持ちがいい。ほわほわした気持ちのまま抱っこされていたら、綺麗な人は机の前に座った。いい匂いがする。見たことがないご馳走があって、僕は悟った。この優しい時間は終わりなんだ。僕はいつもと同じにしないといけない。


 すっと頭が冷えて、するりと床に降りた。綺麗な人はそれを黙って見ているから、覚えた通りに床に座って頭を下げた。ちゃんと出来ないと残り物も貰えないし、殴ったり蹴ったりされる。ご飯がないと動けなくなるんだ。だから頑張る。大丈夫、僕は辛くないよ。


 ――餌をおめぐみ、ください。

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