3.願いがあれば申せ

 この子にすぐ必要なのは、温かく栄養のある食事、休息、風呂と清潔な衣服、それから名前だ。衰弱している痩せた手足は、まともな扱いをされてこなかったことを匂わせる。変色した痣が、肌を所狭しと埋め尽くしていた。


 我らゲーティアの悪魔に怯える者は多く見てきたが、この子は単に人そのものが怖いらしい。大人が近づけば暴力を振るう、そう認識していた。伸ばした手に怯える姿は哀れだ。


「陛下、契約印は仮にでも必要です」


 アガレスの忠告に頷く。悪魔との契約を済ませた者は、体に契約印を持つ。もし持たない人間がふらふら出歩けば、たちまち食われるだろう。安全を確保するには、見える場所に印をつけるしかなかった。目立つ場所にあるほど、効力も繋がりも強くなる。


「名をつけて正式に契約を済ませる。先に風呂の支度をせよ」


「かしこまりました。食事も手配いたします」


 恭しく頭を下げて消えたアガレスを見送る幼児を抱き上げる。手が触れる瞬間に体を竦めるが、抵抗はしなかった。それほどまでに心を折られたのか。本能が命じる防衛すら我慢するほどに、この子は傷つけられた。


「名前が必要だな」


「おい、はダメ?」


「そなたに相応しい名を探そう。仮に契約を済ませるが、痛みはない。我慢できるか?」


 こくんと頷く子どもの薄汚れた灰色の髪を撫でた。触り心地もよくないのに、ほわりと頬を緩める姿に心が満たされた。


「願いがあれば申せ。ひとつ叶えてやろう」


「ひとつ」


 繰り返した子どもは真剣に悩む。そのまま抱き上げて、歩き出した。我が居室に接する浴室へと運ぶ。湯気が満ちた温かな部屋で、ボロ布のような服を脱がせた。それでも考え込んでいる。それでいい。心からの望みをひとつだけだ。それ以外は保留にしてやろう。


「治療をする前に洗う。沁みるかも知れぬが」


「僕、我慢できる」


 覚悟を決めた様子で頷くから、余計に気をつけようと思った。この子は痛くても悲鳴を飲み込んでしまう。ぬるい湯を掛けて、表情を窺った。平気そうだ。


「陛下? ご自分でなさるのですか」


 驚いた様子のアガレスは、後ろに侍女を連れていた。それを睨んで追い払う。この子は我が契約者だ。誰にも渡さぬ、見せぬ、奪わせぬぞ。


「当然だ」


「では私も失礼いたします」


 独占欲をむき出しで威嚇したため、アガレスは肩を竦めて出て行った。いちいち仕草の大袈裟な奴だ。きょとんとした顔で見つめる幼子を丁寧に洗うが、髪を洗った経験がなかったらしい。開いた目に泡が染みたようで、体を強張らせた。抱き上げてあやし、目に入った泡を流す。


 泡が消えるので、数回繰り返し洗った。徐々に色が抜けていき、銀の髪が現れる。なるほど、灰色はくすんでいたせいか。体は強く擦らず、汚れのみをさっと落とした。傷が治ってから改めて洗えば良い。


 ふと思いつきで、額と頬を撫でた。


「どこが良いか」


 額は髪で隠れる。頬か、または耳の下の首筋。どうしたものか。風呂で悩んでいる間に、幼子は上せたようだ。こてりと首を傾けた直後、全身から力が抜けた。慌てて水気を飛ばし、乾かしてから柔らかな毛布で包む。冷たい水をゆっくり飲ませた。


 柔らかく笑う頬に傷を残すのは忍びない、それならば……鎖骨の間に指を滑らせた。なぞる指先が契約印を刻んでいく。大きめに描き込んだ印に魔力を流し、仮契約を済ませた。


「ここ、あったかい」


 笑う子どもを抱いたまま、用意させた食事の前に座る。困惑した顔の子どもは、何を考えているのか。嫌な予感がした。

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