第10話 劇団日常

 私は駅の改札口を入り、ホームへ降りる階段の手前で友人と待ち合わせをしていた。階段の横には沿うようにホームから上るエスカレータが一基ついている。この駅は常日頃から多くの人々が利用しているので、平日の昼間と言えど、それなりの人々がエスカレータを上っている姿が見えた。


 私は手持ち無沙汰に彼らを観察することにした。スーツケースを持ったサラリーマン……流行りの服装に身を包んだ女子大生……小さな子と手を繋いでいる若い母親……仲良さそうに互いの手を取る老夫婦……気難しい顔をした浪人生……早帰りなのか幾人かの中学生が楽しそうにしている……。


 皆々、エスカレータを歩いたり、歩かなかったり、全容が見えるまでの速さはどうであれ、各々の速度で段々とその姿を現した。髪が見え……顔が見え……肩に腹……腰に足……と私は何故だか奈落からゆっくりと持ち上がる舞台俳優を見ている気になった。と、言うより私には彼らが舞台俳優にしか見えなかった。次々に姿を表す人々というものは、実は私の知らない間にそういう役へ割り振られ、私の視界に入るまでに仕草や、台詞の練習をしていると思うと、どうにも何とも言えない……恍惚とした……私にだけ見ることの許された舞台を見ているような気がしてきた。そうして、彼らは奈落が上がりきると、私の前を完璧な演技で以て通りすぎていくのだ。


 私は観客だ。彼らの演技に舌を巻き賛辞を送る一人の観客に過ぎなかった。たった一人の観客……見物料はタダときた。


 そのとき、私はあえて役者たちを目で追うようなことはしなかった。彼らの名誉ある演技を祝福して、役を終える瞬間を努めて見ないようにした。すると、私の横に酷く場違いな風貌の、サーカスの団長のような格好をした男が、私と同じように誰かを待っているらしく立ちぼうけていた。


 この男がいつ私の隣に来たのか、そして私と同じようにいつから舞台俳優たちを見ていたのかは知らない。ただ、私と同じくらいの背の高さのこの男は、この舞台を非常に熱心に見ていた。それこそ……この舞台を指揮する監督めいた気迫……彼らの足りないところを見抜く眼力……をびりびりと私に感じさせた。


 暫くそうしていただろうか……私が舞台よりもこの男のことが気になって観察していると、男が私の方に向き直りにっこりと会釈した。私は大変驚いて思わず目を逸らしてしまった。


「やや! これは失礼。私はこの劇団の座長をしております常日五郎――と申します……どうぞお見知りおきを」


 五郎氏は真っ黒に染め上げたシルクハットを脱いで、もう一度丁寧に挨拶をした。相変わらず私は驚いたままで、しどろもどろになりつつも……。


「こちらこそよろしくお願いします。私は――」


「――大丈夫です。あなた様のお名前は存じております」


「……そうですか。ならばいいのですが……」


 はて……? 私はこの人物と会うのは初めてなんだがなあ――いつのまに面識を持っていたのだろうか? だが、私の名前を知っているということは何らかの形で私と接点のある人物なんだろう……。私はまったくと言っていいほど彼のことを思い出せなかった。しかし、私は彼に不信感を抱かなかった。寧ろどこか懐かしいような……何とも言えない親近感を感じたのだった。


「どうです?」


「何がですか?」


「私の劇団員たちは――見事なものでしょう。とても役とは思えない迫力があるとは思いませんか?」


「あなたは彼らが演劇をしているとお思いなのですか?」


「ええ!? 逆にあなたは彼らが演技をしていないと?」


「いえ……そうではなくてですね……彼らはどう見ても普通の人ではないですか。劇団員にはとても見えませんよ」


 私は嘘を吐いた。


「だとすればそれは驚異的なことです。彼らの演技が演技でないとなると……それはもう演劇界きっての素晴らしい俳優ということですよ。私の団員をそれほど高く買ってくれるとは……私は感激の至りで涙が出そうです」


 五郎氏はそういって目頭を押さえるものの肝心の涙とやらは出る様子はなかった。劇団の団長らしく演技をしたということなのだろう。だが、私としてはそのようなことはどうでもよく、ひたすらにこの不可解な状況の説明を求めたかった。


「本当に彼らは劇団員なのですか?」


「勿論ですとも」


「一体何人いらっしゃるので? 先程から大変な人数がこの奈落から出ていきましたけれど……」


「彼らは一度上がったら別のところから舞台の裏手に回り、衣装を変えて再びこの奈落に登場するので実際の人数は……五十人くらいですね」


「結構いるのですね。ここでは何をしているのですか?」


「リアリティの追求です。演劇というものはどうしても表現が誇張気味なったりしますからね……このような日々の生活の一場面で、何処まで誇張をなくすことが出来るのか練習している所なのです。無論ここだけではありませんよ。様々な場所でこの練習を行っています」


「ははあ……なるほど」


 私は暫く奈落から定期的に上がってくる人々を眺めていた。ふと、私はあることに気が付いた。団長の言う通り、何度か見たことのあるような顔がちらほら見えた気がした。


「……彼らは飽きないのでしょうか?」


 私はぼそりと呟いた。それは、五郎氏を大層驚かせた。


「飽きるですって?」


「ええ、同じところをぐるぐるとしていてはまるで……何と言ったらいいか……」


「ハムスターだと? 一見そう思うかもしれません。しかし、よく見てください。彼らの表情に演技らしさを見いだせますか?」


「それは……」


「出来ないでしょう」


 私は再び嘘を吐いた。何度も見れば見るほど彼らの所作は演技臭く、大根役者になっていく。


「私は別に誇張があってもいい気がしますけど……」


「ほほう……それはまたどうして?」


「誇張があってこその演劇……役ではありあせんか?」


「と言いますと?」


 五郎氏は含みのある顔をした。


「いえ、何もあなたと議論をしようと考えているわけではありません。私はただ誇張があってこそ光る何かがあると思うのです」


「……。なるほど……確かに一理あります。悲劇や喜劇は誇張なくしては成り立たない……。ですが、それはあくまで悲劇、喜劇の場合です。我々の目指す演劇には悲劇も喜劇もない……」


 五郎氏の瞳の奥がキラリと光った。皺だらけの顔に厚ぼったい瞼のこの老人は、ただの老人とは思えない異様な眼光を以て私を眼差した。


「……と言いますと?」


 今度は私が聞く番だった。


「エミール・ゾラを知っていますか?」


「ええ、自然主義文学の代表作家ですよね」


「彼は自然主義を演劇にも取り入れようとしました。彼の小説『テレーズ・ラカン』が上演され、以後ハウプトマンやゴールズワージーらが様々な傑作を残しています。我々はその意思を受け継ぐ者たちなのです」


「自然体に……ありのままに……と」


「ええ、しかし……彼らは一番肝心な部分で誇張をしてしまっているのです……これは演劇である以上仕方のないことなのかもしれません。これを取ってしまったら演劇の存在そのものを疑わねばならないのですから……」


 私は彼の言いたいことが何とはなしに理解できそうだった。注意深く相槌を打っていると、五郎氏の弁舌は力の入ったものになっていった。


「しかし、疑わねばなりません――演劇に於ける最大限の誇張とは――言ってしまえば、それが演劇だとわかる瞬間が存在することです。つまり、演劇を見ている観客はどんなに現実を模写した作品を鑑賞しても、その根底に『まるで本物のようだ』という言葉の切れ端が覗いているのです。それを取り払うにはどうすればいいのか……我々は大変悩みました。そして気が付いたのです――! 我々はこれ以上ない誇張である劇場を取り払う必要がある……と!」


 五郎氏の瞳は鬼気迫る勢いがあった。私はそれに気圧されて二三歩後ろに後退りしたが、彼はそれにも気が付かず、口を引き結び私を深く眼差した。


「言うなれば超自然主義……と言ったところでしょうか」


「一言で言ってしまえばそうかもしません……ははは」


 五郎氏は快活に笑うと、その眼差しを劇団員たちの方に向けた。私もつられて目を向けた。


 私は演劇に詳しいとは言い難い。大学でシェイクスピアやユゴーを読んだくらいである。しかし、彼らの言うことは存分に理解できた。先程まで大根役者に見えていた劇団員たちも、役者感が消え失せ、日々を流れる日常にすっぽりと収まり、区別がつかなくなった。


「そういうことだったのですね。やっと理解できました。何となくですが、区別が無くなってきたように思えます」


「ご理解頂き誠にありがとうございます……欲を言えばもっと劇団員と観客の均質化を図りたいのですが……何分最近の世の中は、現実にも誇張を認めようという動きが出てきています故、この活動も難しくなってきているのです……」


「それはお気の毒です……」


 私は都心を思い浮かべた。流行りとも違う奇抜な服装をした若者や、様々な国籍の人間が行き交うあそこでの活動は難しそうだと思った。


 見たところ劇団員に外国籍の人間はいなさそうだ。アジア圏ならわからないが兎も角、一目見てそれとわかるような人物は団員たちの中にはいなかった。もし、この活動を今後も続けていくには外国人の劇団員も必要になっていくのではないだろうか。近頃は外国人旅行者や留学生も増えてきている。その世の中で、この空間だけ日本人だけでは却って不自然に見えないだろうか。


「ところで……あなたは我々の主義に一番遠い演劇のジャンルをご存じですか?」


「何でしょう……やはり悲劇、喜劇でしょうか?」


「それは勿論入るのですが、一番遠いのは英雄譚です」


「英雄の存在が非現実的ということですね?」


「ええ、その通りです。ああいうものの存在は我々の目指す演劇と方向性がまるで正反対なのです。日常に英雄はいません。魔王もいません。いるのは我々のみです」


「…………」


「逆に――我々が演じるのは日々の日常を過ごす、一市民の毎日です。朝起きて顔を洗って朝食を食べて仕事に出掛ける――ありふれた毎日を演じるのです。そこに非日常はふくまれません。ありのままの現実を完全に再現することが我々の目的なのです」


「…………」


「とまれ、よく気が付かれましたね。これでも日本各地でこの練習を行って参りましたが、気が付かれたのはもう何年振りでしょうか?」


「……それほどやってらしたのですか? ……よくメディアに取り上げられませんでしたね」


 五郎は待ってました言わんばかりに目を輝かせた。


「実はバレないようにするためにはある秘策がありましてね……それというのは秘策なだけあってあなた様にも教えるわけにはいかないのですが……今回は私たちの演技に気が付いたということで特別にお教えしましょう」


「……え? いいのですか、そのように簡単に教えてしまっても――」


「――いいのです、いいのです。あなた様でしたら、我々が何処で練習をしていても気が付いてしまうでしょうから……」


 私にそのような力があったとは驚きだ。まあ、確かに見れば見るほど違和感がない……と言えばいいのか、逆にそれが不自然な点として、私の中で沸き上がってきたのだから、確かに再びこの練習に気が付くのも容易いだろう。


 私は日頃の記憶を掘り起こして考えてみた。家の前の小学校から上がる子供たちの楽しそうな声も、思い出せば思い出すほど演技のように聞こえてくる。交差点で向かいに立っていた老婆や、駅前でティッシュを配るアルバイトをしていた若い女性も皆、演技しているように思えた……なるほどこれならば私に隠し通すことは出来まい。私ならばいつでも見破ることが可能だ。


「それで? どうやって隠しているので?」


「ええ、簡単な話です。気が付いた人を劇団員にスカウトするのです。そうすれば……ほら――誰からも漏れることはありません」


「スカウト……ですか」


「ええ」


 私の背中を一匹の蜘蛛が走り抜けた。


「……すみません。私はこれから人と待ち合わせをしていて――だから劇団に入るということはちょっと……」


 私はその場から離れようとした。しかし、足を縫い付けられたかのように動かない。奈落から上がってくる俳優たちの演技は素晴らしく、とても舞台俳優には見えなかった。


「それでしたらご心配に預かりませんよ。あなた様のご友人はとっくに劇団員になっていますので……」


「ど、どういうことですか?」


 あいつが? いつのまに劇団に興味を持ったというのだろう。私の前ではそのような素振りは一つも見せなかったというのに……。私は唾を飲んだ。


「ほら……来ましたよ。あなたの友人です」


 やって来たのは――――。

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