【芽生えたモノ-1】
「望美、望美!」
そう言われながら、体を覆っていた布団を剥ぎとられた望美はパチリと目を開けた。
「望美、起きなさい!」
「ん? あ、ああ……おはようお母さん」
眠たそうに目を擦りながら上半身を起こして言った。
「早くしないと学校に遅刻するわよ。さっさと起きて朝ごはん食べちゃいなさい」
「うん。わかった」
望美は貧血気味で低血圧な患者のようにクラクラとしながらベットから出て軽い背伸びをした。
「どうしたの? いつもと違って疲れてる感じじゃないの」
母親は心配した面持ちで言った。
「ちょっとね。ほら、昨日は学校で嫌な出来事があったし」
「そうだったわね……」
そう言って母親は顔を曇らせた。
「心配しなくていいよ。全然大丈夫だから」
「ごめんなさいね。別にそのことを忘れてたわけじゃないの」
「お母さんは仕事とか家事で毎日大変なんだから仕方ないよ。私のことだけに構ってられないんだから」
「そうなんだけど。望美、今日は学校を休みたかったら無理せずに休んでもいいのよ」
「どうして? 私は元気だし無理してないよ」
「だって、いつもはちゃんと時間通りに起きてくるのに今日は寝てたじゃない。色々と疲れてるのかなって」
「それは昨日寝るのが遅かったからだよ。帰ってくるのも遅かったし」
「部活で学校に残ってたの? 私が寝たあとに家に帰ってきたんでしょ」
「うん。そんな感じ」
望美は本当のことを言わなかった。言えば母親を心配させるだけで、そんなことはしたくはなかった。
望美の家は母子家庭で、望美が幼稚園の頃に両親は離婚していて父親はいなかった。安アパートに住みながら女手一つでここまで育ててくれた母親には最近になって感謝の気持ちが芽生えてきていた。そんな仕事に家事と大変な母親には必要以上の心配をかけたくなかった。
「とりあえず、私は大丈夫だから心配しないで」
「そう。でも、あまり無理はしないのよ」
「わかってる。今は部活を一生懸命に頑張るから応援してね」
「もちろんよ。夏のコンクールを楽しみにしてるわ」
「期待しててね。さて、話したら目も覚めたし、そろそろ学校に行くね」
「朝ごはんを食べないで行くの?」
「うん。てか、時間がないもの。遅刻したくないし」
そう言って、望美はそそくさとパジャマを脱ぎ制服に着替え始めた。
「気をつけて行きなさいよ」
「うん、大丈夫」
「悪い子達にも気をつけてね……」
「うん。心配しないで……」
望美はクシで髪をとかしながら言った。
「本当に気をつけてね。今が青春なんだからね」
「もう大丈夫だって。それじゃ、行ってきます」
母親の心配性に少しばかりのしつこさを感じながら望美は部屋の扉を開いた。
「あ、待って望美! 今日は夕方から雨が降るらしいから傘を持ってね」
「うん、わかった」
扉を閉め、望美はドタドタと玄関へと向かい、靴を履いてから母親に言われた通りに傘を手に持ち家を出ていった。
それから自転車をかっ飛ばし、なんとか遅刻はせずに学校へと到着した望美は、敷地内にある指定の自転車置き場に自転車を置いてから校内の玄関口に向かった。
(あぶない、あぶない。遅刻するかと思った)
ハアハアと軽く息を切らしながら持ってきた傘を傘立てに入れて、自分の下駄箱の前で靴を脱いだ。
(あれ? 私の上履きがない……)
一度、下駄箱を閉めて戸に貼られている自分の生徒番号のシールを確認した。
(私のに間違いないもの。なんで私の上履きがないの?)
その時、わけのわからないままに困惑している望美の耳に朝礼開始五分前のチャイムが聞こえてきた。
(あ、ヤバ! 早く教室に行かないと)
とりあえず望美は下駄箱に靴を入れてから靴下のままで職員室に向かい、仕方なく事情を職員に説明して職員用のスリッパを借りた。
それから階段を駆け上がり、廊下を走り抜け、二階にある二年生の自分の教室の前へと着いた。
(まだ朝礼は始まってないわよね)
望美は恐る恐る教室の扉を開き、中を覗き込むようにして静かに入った。
(ふう……なんとか大丈夫みたい)
安堵の気持ちを携えながら、忍び足のような足取りで自分の机へと向かう。途中、望美はいつもとはどこか違う、なにか変な違和感を感じた。
人見知りで人の目を気にする望美にしてみれば、朝礼直前で静まりかえっている教室に足を踏み入れることは小さな勇気がいる。その後に自分に向けられるクラスメートの視線が気になるのは当然だった。
感じた違和感はクラスメートの視線に原因があると望美はわかっていたのだが、その原因の正体まではわからなかった。
それから、軽く挙動不審な動作をしながらも望美は自分の机に座り、鞄から教科書類と筆記用具類を取り出して机の中に入れてから朝礼が始まるのを待った。
(なにはともあれ一安心ね)
軽く息を吐き、頭の中で呟いてから周りをキョロキョロと見回す。
(やっぱり変な感じ。なにかがいつもと違う)
人目を気にする望美だからこそ、些細な違和感を見つけることが出来た。
(なんなのこの感じ? なにか敵意を感じる)
机に座り気分が落ち着いてきたからか、望美はその正体がわかりかけてきた。
(どうして私をそんなにチラチラ見るの?)
時折、クラスの女子の三、四人が望美を睨みつけるような目で見ていた。
(私の顔になにか付いてるのかな?)
ろくに身だしなみもせずに家を飛び出してきたことを思い出し、手で髪を撫で、顔に触れて変なところはないか調べる。しかし、なにも変なところはなく、望美にはわけがわからなかった。
(なんなのよ一体)
少しイライラしながら、何度も女子達と視線が合う中で、その女子達の顔に異変があるのに気づく。
(アザ? 顔が腫れてる)
三、四人の女子達の顔には青アザがあり、痛々しい見た目をしていた。
(どうしたの、なにがあったの?)
心配そうな顔で女子達に視線を返した時、その中の一人が口元を軽く尖らせて望美に向けて舌打ちをしてきた。
違和感の正体がその視線に込められた敵意であると望美は理解した。
(私……なにかした?)
声に出すことのないまま、頭の中で疑問文を書きつづるが答えは出ない。
そうこうしている間に朝礼開始のチャイムが鳴り、ほぼ同時のタイミングで担任の教師が扉をガラリと開けて入ってきた。
放課後のチャイムが鳴った。結局、望美は自分に向けられた敵意の理由もわからないまま放課後までの時間を過ごした。
授業中、休み時間、昼休み、常に気がかりになりながら今日の一日を過ごし、なに一つ掴めないまま望美は部活へと向かうべく演劇部の部室へと続く校内の廊下を歩いていた。
(はぁ、本当に気が滅入るな。意味がわからないわ。それにただでさえ上履きが消えて嫌なのに)
少しの気持ちの落ち込みがあるが、しかし、職員用のスリッパでパタパタと廊下を歩く望美の足取りはどこか軽やかである。スグに部室の前まで到着し、それから望美は心のモヤモヤを振り払おうと野球のバッターの素振りのように頭を左右にブンブンと強く振った。
(よし。いくら考えてもしょうがないわ。今日も部活を頑張らないとね)
自分の上履きが下駄箱から消えた謎。自分に向けられていた敵意の込められたクラスメートの視線の謎。それらを頭に残しながら、望美は演劇部の部室の扉を開いた。
望美はいつものように軽い挨拶を既に部室に来ている部員にし、早速、制服を着替えるためにロッカールームに向かう。今日も部活を頑張ろうと意気揚々に歩を進める望美であるが、しかしその途中、朝礼前に教室で感じたのと同じ違和感が望美の後頭部を撫でる。
視線に気がついた望美は後ろを振り向き部員たちを見た。
(え? なに?)
クラスメートと同じく敵意の込められた視線を望美に送っているのは後輩部員の熊田であった。
(どうしたの? どうして私を睨むの?)
明らかな敵意。それを確かなモノとして感じずにはいられないほどの視線が熊田から向けられている。
(どうして顔にアザがあるの? どうしてクラスの女子達と同じように……)
不安に似た感情に引き寄せられるままに踵を返し、熊田のもとに歩み寄る。
「千佳子ちゃん、どうしたの? その顔のアザ」
そっと静かに訊いた望美であったが、その返事は大きな声で返ってきた。
「なんでもないです!」
思いもよらない態度に、望美は一歩後ずさりしてしまう。
「な、なにがあったの。機嫌が悪いみたいだけど」
「なんでもないです!」
「そ、そう……わかったわ」
なにがあったのかわからない他の部員達は目を丸くして二人のやり取りを傍観している。しかし、わからないのは望美にとっても同じことで、いつもと全然違う熊田の態度に戸惑うばかりである。ましてや学校で友達や仲のいい同級生などがいない望美にとって、部活の後輩の熊田が数少ない話し相手、その熊田の敵意の込められた視線と態度に望美はショックだった。
「なんだかよくわからないけど、機嫌よくなってね」
「はぁ? なに言ってんの! あんたが原因じゃん!」
熊田は虎の「フリーメン状態」のような表情で怒りをあらわにして言った。
「え? なにを言ってるのかわからないよ。私が原因ってどういう意味?」
「うるさい! もう話かけないで!」
「そんな……千佳子ちゃん」
「先輩とか後輩とか、もう関係ないから」
「私はなにも」
「もうあっちに行って!」
望美は今はなにを話しても会話にならないだろうと思い、熊田に言われるがままに離れ、ロッカールームへと姿を消した。
(なんで? どうして? 意味がわかんないよ)
わけのわからない出来事。ショックな熊田の態度。それらが望美をイラつかせた。
上履きが無くなったことから始まる今日一日の嫌な出来事で、望美のストレスは募るばかりである。
(なにがどうなっているの? 私はなにもしてない!)
そこで、自分が感情的になっていることに気づき、一度深く深呼吸をしてから、ここ最近の学校生活を振り返った。だが、なにも周りに敵意を抱かせるような原因が見つからなかった。
(もう一体なんなのよ)
色々と混乱したままの胸中の望美だが、部活を頑張るべく頭を空にしてから着替えを始めていった。
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