【生まれ育つ感情-2】


 一年位前、偶然この店の前を通りかかった望美は、オシャレでレトロな独特の雰囲気を放つ外観に興味を抱き入り口の扉を開いた。


 その時もビートルズの曲は垂れ流しのように流れていて、現在となにも変わらない空間を作り上げていた。


 テレビなどでビートルズの曲を部分的にも聴いたことのあった望美だが、それぞれの曲を始めから最後まで聴いたのは初めての経験だった。


 現代を生きる若者である望美には今までにない新しい発見で、見たこともない新世界に足を踏み入れたような、かつての古き良き時代に入り込んだような、そんな心を揺さぶる感動があった。


 普段、買い物に出掛けたりの外出時にはいつも他人を意識してソワソワと落ち着かない望美であったが、この店の空間に溶け込むには時間は掛からなかった。店主の渋谷ともスグに仲良くなり、高校時代にイジメを経験してから他人と上手に接することが出来なくなっていた望美にとっては大きな喜びであった。


 毎日のように店を訪れるようになっていった望美は、次第に渋谷に惹かれていき、いつしか恋心を抱くようになっていた。渋谷の見た目に惚れ込んだのではなく、一人の人間としての人間性に惹かれたのだ。店主と客の関係でしかないが、渋谷と一緒にいる間の望美は、まるで「望んだ美しい舞台」に立っているような気持ちにさせられていた。


 渋谷とは様々な話をしたが、ほとんどの会話の内容はビートルズに関係する話。店名に込められた意味。店の入り口に置かれている木製のカブトムシはビートルズを意識しての置物。それから自分の愛車がビートルなのも、ビートルズがドイツの「フォルクスワーゲン社」のビートルをバンド名の由来にしていたからだと聞かされた。


 無邪気な子供のようにそんな話をする渋谷を見ているのが、望美は好きでたまらなかった。徐々に望美もビートルズに興味をそそられていき、渋谷にすすめられるがままレンタルショップでアルバムを借りたりもした。


 望美にとっては、あくまでも渋谷との話の種でしかないビートルズだったけれども、なにか一つの繋がりが生まれたような気がして嬉しかった。


 いつか愛が芽吹くのではないか、そんな淡い期待に心を踊らせながら「想い」という水を毎日注いだ望美の花だったが、その花は見事に摘み取られる結果になってしまう。


 過程は単純なものであった。今から約二ヶ月ほど前、この店に望美が憎しみを抱く相手が訪れたことが始まりで、それは望美にとって驚くべき出来事でもあり、その女と望美が再会したのは高校時代以来であった。


 驚愕に立ち尽くす望美を傍らに、女は渋谷にアプローチを仕掛けた。


 その女はイケメンの店主が営業している古着屋の噂を耳にし、さっそく足を運んだのだ。 渋谷ほどの魅力があれば、女性たちが放っておかないのは当たり前だったのかもしれない。そんなことは望美の中でも想定内だったが、まさか「この女が」といった現実は望美の中で想定外のことだった。


 決してチャライ男ではないのだが、その女の社交性のある性格と綺麗な容姿に渋谷は惹かれていった。自分にはない魅力に、望美は舞台からおろされた女優のように惨めな存在になってしまう。


 日が経つにつれ渋谷は女に魅了されていき、二人は恋人同士となり、望美の育んだ花は高校時代から憎み続けた相手に摘み取られてしまう結果になった。


 その時に憎しみがさらに芽生え、殺意を咲かせ、それはドンドン成長していくばかり。


 高校時代以来の顔合わせで、最初にお互いが交わしたのは懐かしみのない挨拶だけであったが、何度か店で会ううちに女の方から望美の連絡先を訊いてきた。


 当然、望美は拒否しようとした。しかし、その女にうけた過去のイジメの経験が心に根強く残っていたからか、縮こまり反することが出来ないため、望美は流れに乗るしかなく、スマホのアドレスと番号を教えてしまった。


 結局、望美は会いたくもない相手と再会し、好きな男性を奪われ、イジメによる憎しみを殺意に生まれ変わらせただけだった。


 舞台からおろされた望美は舞台袖で殺意を抱きながら見ているだけ、自分にスポットライトは当たらないと諦めた。


 そして今、渋谷のビートルズ話を聞きながら、望美は頭の中でそんな店での思い出や出来事に浸っている。


 先程から心ここにあらずといった感じに言葉を返す望美に、渋谷は顔を覗き込むようにして言った。


「あの……望美ちゃん聞いてる?」


「え? あ、ああ聞いてますよ」


 飼い主に名前を呼ばれた猫のようにピクリと望美は反応し、キョトンとしている渋谷に軽く言葉を詰まらせながら返した。


「本当かなぁ? なにか考えごとでもしてた感じじゃん」


「そんなことないですよ。ビートルズの魅力が凄く伝わってきました」


「ふーん。ならいいんだけどさ」


「私もますます好きになりそうです」


「好きになってよ。最高なんだからさ」


「家に帰ったら寝る前に聴きます」


「望美ちゃんってどの曲が一番好きなの?」


 渋谷の問いに一拍置いて、望美は答える。


「私は『レット・イット・ビー』が一番ですね」


「なるほどねぇ。『なすがままに』かぁ」


「それが……今の私には合ってるんだと思うんです」


「え? どんな意味で?」


「そんな意味です……」


 そう言って望美は答えをはぐらかし、下を向き顔を歪めた。


 そんな望美の表情を見て、渋谷は再び顔を覗き込み言う。


「どうしたの望美ちゃん? さっきもそうだったけど恐い顔なんかして……」


「え? そうですか?」


「ああ。まるで般若のお面みたいだよ」


「般若?」


「そう、般若。悲しんでるのか怒ってるのか、その二つが合わさった感じの顔」


 それを聞き、望美は顔を左右に振ってから両手で自分の頬を叩く。


「戻りました?」


「あ、ああ……そうだね」


 渋谷は不思議なものを見るような目をしながら言った。


「渋谷さんの前でそんな顔をするなんて私……」


「きっと望美ちゃん疲れてるんだよ。今日は仕事が終わってから来たんでしょ?」


「はい。色々と疲れました」


「それじゃ、そろそろ帰ってゆっくり休みなよ」


「どうしようかな……。でも、今日は渋谷さんに会いに来ただけだし」


「ハハ、そうなんだ。けど帰ったほうがいいよ。実は彼女がそろそろ来るんだ」


 それを聞いて、望美の全身が冷えて固まった氷のように硬直する。


「あの女が……?」


「そうそう……って、あの女とか言わないでよなぁ。聞こえが悪いぜ」


「美那子さん……」


「いや、まあ、正直どうでもいいんだけどさ」


 渋谷はそう言って頭をポリポリ掻いた。


「ここに来るんですね?」


「ああ。ん? 望美ちゃん……」


「はい?」


「いや、また般若みたいな顔になってるよ。どうしたの? 大丈夫かい?」


 望美はまた顔を左右に振って、頬を両手で叩いた。


「だ、大丈夫です。戻りましたか?」


「ああ……戻ったけど頬っぺた赤いよ。てか、別に叩かなくても」


「こうでもしないとおさまりが利かなくなるんです」


「そ、そうなんだ。よくわからないけどさ」


「それでいいんです」


「なんであれ、疲れてるのさ。今日は帰って寝たほうがいいね。寝るにはまだ早いかもしれないけどさ」


「いえ、渋谷さんの言う通りにします」


 疲弊した遭難者みたいに疲れた表情を浮かべて、望美は後ろを振り向いた。


「あ、そうだ! あの猫ちゃんは元気にしてるの? ほら、望美ちゃんの働く店で一度だけ会わせてもらった猫ちゃん」


「ノンちゃんですか? それなら元気にしてますよ」


「そっか。でも名前は変えたほうがいいんじゃない?」


「どうしてですか?」


「いやさぁ、望美ちゃんの名前をもじってノンちゃんって名前にしたんだろうけど、俺は絶対に『レリピー』がいいって思うよ」


「どういう意味ですか?」


「望美ちゃんの好きな『レット・イット・ビー』のサビの部分ってそう聞こえない?」


「まあ、確かに……」


「ノンちゃんを『レリピー』って呼んだら反応したんだよ」


「反応くらいしますよ」


「いやいや、呼ぶ度に反応が強くなってさ。多分、気に入ったんじゃないかな」


 渋谷はニコニコと爽やかに笑みを浮かべ、新しい名前をオススメした。


「わかりました。考えてみます。でも、今さらな気もするんですけどね」


「大事なのはノンちゃんの気持ちだぜ」


「とりあえず、そういうことにしときます。それじゃ、私はこれで失礼します」


「ああ、お疲れ。今日は久しぶりに話が出来て楽しかったよ。だって『美那子みなこ』はビートルズの話題に興味ないからさ」


 その名前を聞いて焦りを感じ、ドアを勢いよく開いて望美は店の外に飛び出した。


「お、おい、気をつけて帰りなよ」


「はい」


 望美は小さく頷いて足早に歩き出す。


「寝る前にビートルズ聴きなよ」


「はい……」


 後方で見送る渋谷に振り向かぬまま、望美は暗くなった夜道を進んでいった。片手をバッグに突っ込み、アイスピックを固く握り締めたまま。

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