楽園殺し0: リベンジャーズ・ハイ
呂暇 郁夫
Prologue
襲撃者
スカルデザインのマスクを被る男が、夜空を見上げていた。
今夜は快晴のため、都市は月光で白く照らされて、ともすれば昼と見まがう明るさだった。
海沿いに遠くを見渡せば、黒い巨大な建物がはっきりとした輪郭で浮かんでいる。
普段であれば、この時間に眺める十番街の食品工場の姿は、そのうるさい稼働音がなければ存在を認識できないほど、夜空にまみれているのが常だった。
月明りの強い夜は、誘拐を行わないのが鉄則である。
しかし、今晩に限っては事情が異なっていた。これより数時間後の丑三つ時、新興の誘拐業者である彼は、初めての大口の取引を控えていた。人身売買の斡旋者からの要望はシンプルで、「器量のいい女」あるいは「有用な砂塵能力者」で計十名の身柄だった。
取引相手の斡旋業者は、業界で最大手というわけではないが、広いコネクションを持つ。期日までに取り決め通りに商品を用意できなかった場合は、たちまち不都合な噂が尾ひれをつけて流布されるおそれがあった。
つまり今夜の取引は、この先まともに誘拐業を続けていくつもりならば、けっして反故にはできない契約といえた。
彼の背後、湾岸部である十番街の廃倉庫には、現在九名の誘拐被害者が軟禁されている。有能な、という頭につく砂塵能力者は、そう簡単に誘拐などできるものではなかった。そのため、商品の内訳は全員が美人の女だった。
いずれにせよ、必要数にひとり足りていないのはたしかだ。
「ちっ。まだか、あいつら……」
スカルマスクの下で苦い顔を浮かべて、彼はひとりごちる。
現在、部下たちがその最後のひとりを埋めるために外出していた。誘拐を完了し、戻ってくるはずの予定時刻はとっくにすぎている。
いらだちながら待つ男の眼前を、黒い砂のような粒の集合体が流れた。
神出鬼没の、砂塵粒子である。
この偉大都市に限らず、全世界を覆う神性の自然物質は、風に乗って気ままに舞い、サラサラと音を立ててスカルマスクにまとわりついた。
乱暴な仕草で、彼は砂塵粒子を払う。砂塵粒子が霧散して、どこかへ去っていく。
防塵マスク(Dust RESiSted Mask)、通称ドレスマスクを被っているとはいえ、有害物質である砂塵粒子に顔を覆われるのは、あまり気分のいいものではなかった。フィルターを通さずに吸引すれば、ひどい体調不良に襲われるからだ。
再三に渡り腕時計を確認し、彼の機嫌がますます悪くなった頃合いだった。
ブロロロ、とエンジンの唸る音がした。
コンテナのあいだを走る一台の小型トラックが見えた。廃倉庫の前で停車すると、運転席と助手席が同時に開いた。
降り立ったふたりの男は、同様のスカルマスクを着用していた。マスクの側面に彫られた数字は、首領である彼の一に続いて、二、三と番号が振ってある。
「おッせぇぞ、てめえらッ! どこほっつき歩いてやがったッ!」
怒号を浴びてふたりは身を竦めたが、すぐさま後部座席の扉を開いてなかを見せる。そうしながら、機嫌を取るように弁明した。
「ち、違うんだ、オージィ。上玉を見つけたから、絶対にこっちのがいいと思ってよ、土壇場で標的を変えたんだ」
その名前、OZ・イジーを縮めて、彼は周囲にオージィと呼ばれていた。
「女優だぜ! まあ、正確には女優の卵だけどよ、とにかくすげぇ美人だ。見てみろよ、ほら!」
片方の部下が、テストの出来を親に見せるかのような口調で言った。
オージィが車内を見ると、手足の縛られた女が、じたばたと暴れていた。
着用するのは、白いふわふわの毛で覆われた、デフォルメされた羊のマスクである。マスクの下、女は口元をテープかなにかで塞がれているらしく、悲鳴はくぐもっていた。
「見てみろもなにも、外じゃなにもわからねえだろうが。とっととなかに運べ」
怒気と安堵が入り混じった複雑な声で答えて、オージィは背後の扉を指した。
裏口を開けて、L字の狭い通路を進むと、内部がぶち抜かれた広い屋内に至った。もとは船舶用部品を保管する場所だったが、母体となる企業の倒産に伴い、今では完全に放置された廃倉庫だ。
倉庫の奥、排塵機の間近で、九人の人間がまとまって拘束されていた。銃を携えて監視するのは、またべつの二名の部下である。
総計五人のスカルマスクで、オージィの新設した誘拐組織は構成されていた。
誘拐被害者たちは、大柄なオージィの姿を見ると、身を震わせた。監禁体勢は整っているとはいえ無駄に抵抗されるとめんどうで、オージィが入念に脅して恐怖を植えつけておいたせいだった。
「オージィ、ほら、確認してくれよ!」
二人が倉庫内に戻ってきて、抵抗する羊マスクの女をマットの上に放った。
オージィは左手首に巻き付けてある、安物の
つまり、マスクをはずしても問題のない屋内環境ということだった。
「さて、どんなもんか……」
オージィは女の羊マスクをひと息に脱がせた。
長い金髪をした、美しい目鼻立ちの女が現れる。口元のテープを外すと、とっさに女は大声を出そうとしたが、オージィはその前に太い指で口を塞いで、
「――騒ぐと殺す。いいな?」
と、短く言い放った。女の瞳が、涙でじわりと滲んだ。
よく観察するために、オージィも自身のスカルマスクをはずした。
浅黒い肌をした、存外に若い青年の顔が露になる。
オージィは、欲望で濁った緑色の眼球で、じろじろと商品の価値を計った。
今回の取引のために用意した他の女たちは、それぞれ及第点はクリアしている自信はあったが、好みが分かれそうな部類だった。
それに比べると、この商品はいかにも万人受けしそうな容姿である。
首領の反応を気にして、固唾を呑んで見守っていた部下たちを振り返り、オージィは醜悪な笑みを浮かべた。
「よくやったな、お前ら。取り分には期待しておけよ」
その言葉に、部下たちはほっとしたような素振りを見せた。
それ以上に安心したのは、大事な取引に間に合う確信を得たオージィのほうだ。
女に羊のマスクを被せ直すと、オージィはようやく落ち着いた気分で椅子に腰かけた。
オージィは、とある小さな装置を手に取って眺めていた。半透明のガラスの内部では、黒色の砂塵粒子がさらさらと渦巻いているのが覗けた。
インジェクターと呼ばれる青色の装置は、現代人にとって必須の特殊な日用品だ。
砂塵粒子は、たしかに素顔を曝して経口吸引できない、人体を蝕む有害物質である。それに違いはないが、最大の特徴はそこではない。
この砂塵粒子という摩訶不思議な物質は、正しい摂取方法で採りこめば人類に無限の恩恵を与える。
それは砂塵粒子が、個々人によって異なる特殊な能力を発現させるからだった。
その通称を、砂塵能力といった。
とはいえ、だれもが砂塵粒子の恩恵をあずかれるわけではない。砂塵から能力を引き出せる者は限られており、この広大な偉大都市でいっても全体の三、四割に満たない。有用な砂塵能力という枠で括るならば、さらにその数はぐっと絞られた。
オージィは、自身の砂塵能力にプライドを持っている。砂塵能力の有用性は、生産面や商業面の他、戦闘面に使用できるかで判断されるが、どの枠で言っても自分は有能であるという自負があった。
だからこそ、もともと所属していた十七番街の犯罪組織を抜けて、こうして独立したのだった。所属組織の金庫の中身をそっくり奪い、姿をくらましたのはつい先月のことである。
人の組織に所属することで、自分よりも無価値な砂塵能力者や、まして何の能力も使えない
現状、オージィの組織の人手は明らかに足りていない。それどころか砂塵能力者も自分ひとりだけという状況だが、彼はそう悲観してはいなかった。
今夜の取引を踏み台に、大きく飛翔するつもりだったからだ。斡旋業者の信頼を買い、さらに取引の間口を広げて、構成員を集める。
そうすればおのずと組織は巨大化するはずであり、いずれ偉大都市の裏社会の重鎮に名を連ねるという人生計画が、オージィの頭のなかで形になりつつあった。
いつかの野望を胸に秘め、オージィはスカルマスクの下、だれにでもなくニヤリと笑った――そんなときだった。
廃倉庫の裏口付近から、ゴトリとたしかな物音が聴こえた。
オージィは怪訝な表情を浮かべる。大切な商品とはいえ多少ならばとオージィが許して、女の身体に触れて口々に品評していた部下連中も、互いに顔を見合わせた。
オージィは腕時計をたしかめた。斡旋業者が訪れるのは、まだしばらく先のはずだった。時間が前後する場合は、事前に連絡が来る話運びである。
もし今の音が第三者であれば、タイミング悪く廃倉庫の管理者が訪れたか、あるいはつい先ほど誘拐に及んだ部下が、なにかしら下手を踏んで追跡されたかだった。
「ち、ちげえよ、オージィ。何度も確認したんだ。だれにも尾けられちゃいねえ」
オージィが部下を睨むと、慌ててそう否定された。
つぎの瞬間だった。ゴウン、という音とともに、倉庫内の照明が一斉に消えた。
誘拐被害者たちの狼狽が伝わった。オージィは立ち上がると、いよいよもって不穏な雰囲気に身構えた。インジェクターをマスク後部の定位置に装着して、部下に指示を出す。
「おい、だれか。外のブレーカーを」
見てこい、と言い切る前だった。
今度はダンッ、ダンッ! と不審な音がした。頭上である。何者かが屋根を駆け抜ける音が響いたと思えば、天井中央部分の天窓が割れた。
「なにッ――?」
バラバラと砕け散るガラスの欠片。
それとともに、倉庫の中央に一人の人物が、すたっと着地した。まるでスポットライトを浴びるかのように、その人物は月明りを一身に受けて現れた。
猟犬のような、黒犬のマスクだった。闇に溶け込むような黒衣に、目の錯覚かというほどに長大なカタナを背負っている。随分と高所から着地したにも関わらず、なんの問題もない様子で、ゆらりと立ち上がった。
「なんだ、こいつ……。おい、何者だ、おまえ?」
部下のだれかがそう声をかけたが、オージィはそんな疑問には意味がないと直感した。どう見ても堅気ではなく、自分たちに友好的な雰囲気でもない。それどころか、明らかな襲来者然とした武装に身を固めていた。
その証拠に、黒犬マスクはなにも言わず、自身の全長に迫る程の長物を抜いた。
円を描くようにくるりと回し、前屈みにカタナを構えると、フン、と一度だけ鼻を鳴らした。
「――やれぇッ、てめえらッ!」
オージィが命令すると、部下のふたりが迫った。銃撃を避けてナイフを使用したのは、流れ弾や跳弾で、大事な商品に傷がつくことを恐れたためだった。
二人の近接格闘術には、目を見張るものがあった。たとえ非砂塵能力者だとしても、それなりの戦闘能力を持つことを部下の第一条件としたオージィの眼鏡にかなった二人である。
だから、鮮血が飛び散り、返り血がオージィのジャンバーを濡らしたときには、すでに謎の襲来者の撃退は終わったのだと思った。
だが――
次の瞬間にオージィが見たのは、部下二名の首が、ずるりと同時にスライドするところだった。
ついで、首のない死体と化した両名が、どさりと硬いコンクリートに倒れる。
血で濡れるカタナを構えて、無機質な黒犬マスクがこちらを見据えていた。
刀身からは真っ黒い血液がどろりと垂れている。オージィには、相手の剣捌きがほとんど視認できなかった。
ぞわりと、背筋に悪寒が走った。
オージィは懐から、MGC製の九ミリ口径を取り出した。首領が飛び道具を使おうとしていることに反応して、残りの部下二人も銃を構える。
もはや、商品のことを気にしている場合ではなかった。
こいつはやばい、と彼の脳内で警鐘が鳴る。
けたたましい銃声が、倉庫内に響き渡った。特殊な砂塵能力で加工して作られた、塵工製品の弾薬が弾ける度、暗い倉庫内に火花が散らす。
フィルム映画が流れるように、銃撃の一発一発の閃光のあいだに、黒犬マスクがすばやく移動して、すぐさま部下のふたりに詰め寄った。
最中、キィン、ギィンッ! と不可思議な音がしたのは、黒犬マスクがカタナを振るい、信じられないことに銃弾を空中で弾いているためだった。
異様な俊敏性で懐に潜りこむと、黒犬マスクはスカルマスクの横腹を蹴り飛ばした。片方を巻き込むようにして倒れたふたりの胸部に、カタナを深々と刺しこんで、まとめて串刺しにする。
もとの犯罪組織をともに抜けた、数年来の知り合いの断末魔が、オージィの耳をつんざいた。
銃声が止み、刹那の静寂が訪れた。
――瞬時にして、部下四人が始末されてしまった。
ひとりになったオージィは、苦悶の表情を浮かべた。銃や刃物などは、ほとんど通用しない相手である。とすれば、後は砂塵能力しかなく、オージィは手にしていた銃を放り投げた。
直後、オージィは自身の首元に手を伸ばした。カチリ、と音を鳴らし、インジェクターを起動する。
彼の頸部に針が突き刺さり、局所注射の慣れた痛みが走る。
インジェクター内のカプセルから、人体の首に宿る黒昌器官に向けて、さらさらと砂塵粒子が注入されていく。
直後、オージィの全身から、にび色の砂塵粒子がぼわっと散布された。オージィのDメーターが示す空中砂塵濃度が、みるみる内に上昇していく。
オージィが砂塵粒子が操る。
すると、傍らにあった四本のパイプがひとりでに浮き上がった。
オージィの砂塵粒子は、シンプルにして強力な効果を持つ。
操作の砂塵能力。自身の砂塵粒子をまとわせた物を自在に操る砂塵能力は、誘拐時であれ戦闘時であれ、非常に高い汎用性を有する。
黒犬マスクはほんの一、二秒ほど、オージィの砂塵能力を観察する。
それから、つまらなさそうにカタナを構え直した。
(こんなところで、んな意味のわからねえ野郎に殺されて、たまるか……ッ)
オージィの推測では、この襲撃する黒犬マスクは、砂塵能力者ではない。
インジェクターを起動すれば、砂塵粒子が周囲に立ち込めるのが道理だったが、黒犬マスクの周囲には砂塵粒子は見えない。
つまり、部下たちを一方的に斬り刻んだ剣術は、あくまで訓練に因るものであり、裏を返せば、非砂塵能力者の凡人ということだ。
(いくら鍛えようと、
オージィは、四本に及ぶ長大なアルミパイプを暗殺者に放った。精緻な操作には自信があり、避けようとすれば、その着地点に叩きつけるつもりだった。
黒犬マスクが転回する。
その素直な回避に、オージィは、マスクの下の大口をニヤリと歪ませた。
「――はっ、バカが!」
オージィは、くいっと掌の向きを変えて、空中に浮いたパイプを軌道修正する。
いかに尋常ではない身体能力を有していようと、空中で攻撃を避けることができる人間はいない。激突すれば、全身の複雑骨折は免れない高速だった。
黒犬マスクを、空気を裂く速さでパイプが襲った。
――が、人体が破壊される、鈍重な音は聴こえなかった。
代わりにオージィの耳が捉えたのは、鉱物が割かれるような、いびつで鋭利な響きだった。ついで、ガシャンガシャン、と倉庫内に反響する、乾いた金属の落下音。
顔をしかめると同時、埃と砂塵粒子が混じり合う暗幕の向こうから、カタナを一文字に構えた黒犬マスクが飛び出して、オージィのすぐ眼前に迫った。
「なっ――?」
瞬間、オージィは死を覚悟したが、そうはならなかった。ひゅん、ひゅんと二度振られたカタナが奪ったのは、彼の命ではなく、両手首である。
肘から先が丸ごと斬られる、想像すらしたことのない鋭い痛みに、オージィは自分の鼓膜が破れるかというほどの悲鳴を上げた。
「クソ、クソォッ、俺の、俺の……手が……ッ」
いったいどうやって、と確認する。自分が放った四本のパイプが、八本に増えて転がっている様子が目に入り、オージィは絶句した。常識外れのカタナ捌きである。
「まさか、全部、斬ったっていうのか……? んな、バカな……ッ」
「OZ・イジー、通称オージィだな。お前に、ひとつ聞きたいことがある」
黒犬マスクが、初めて口を開いた。
その不気味な音声に、オージィは思わず眉をひそめた。
異様な、機械音声だった。男とも女とも取れない、無機質な機械音に変換された声。
黒犬マスクがカタナを振ると、刀身に付着していた血が飛散して、床に赤色の線を引いた。
金属を斬り、銃弾を防いでも傷ひとつ見えない武器に、オージィは息を呑む。
それもインジェクターすら起動していない、ただの非砂塵能力者が扱っているとは、到底信じられなかった。
オージィが顔を上げると、真正面に立つ黒犬マスクの、幽鬼のような雰囲気が凍えて伝い、思わず「ひッ」と怯えた。
「ば、化物が……! なんだってんだ、クソォ。いきなり、なんなんだよ。てめえ、粛清官か……?」
オージィは、偉大都市内の犯罪者を問答無用に排除する、暴君たちの名称を口にする。
「粛清官ではない」
カチンと納刀して、黒犬マスクは答える。
「な、なら、いったい……」
「答える義務があるのか? 対場が逆だろう」
オージィは、聞きたいことがある、という今しがたの相手の言葉を思い出した。黒犬マスクは腰に差したダガーナイフを抜くと、膝をつくオージィの首筋に添えた。
「質問する。正直に答えれば拷問の手間が省けて、俺にもお前にも都合がいいが……」
「お、俺にわかることなら、なんでも答えるッ。だから、そいつを離せッ」
そのままの姿勢で、黒犬マスクが聞いた。
「おまえ。スマイルマークのマスクをした男を、知っているか」
「は……?」
「痩身の男で、スマイリーと呼ばれている。知らないか?」
まるで知らない人物である。手がかりとなるドレスマスクも、聞くだけならばありふれたデザインだった。逆上するかのように、オージィは声を張り上げた。
「それだけで、わかるわけがねぇだろ! 今、この偉大都市には、何百万もの人間が住んでいるんだぞ……!」
「誘拐業者なのだろう。やつと契約を結んでいるわけではないのか?」
黒犬マスクは、望んだ答えが返ってこなかったことに、わずかに落胆した様子だった。それから、もうオージィに用がないことを悟ったらしい。
一拍の後、カタナの柄に手をかける。
「ま、待て! ほかに、なにか特徴はねえのか。そいつは、犯罪者なのかよ? もう少し説明しろ。忘れちまってるだけで、思い出すかもしれねえだろうッ」
引き留めようとするオージィの言葉に、黒犬マスクは静かに答えた。
「やつの、うすら寒い笑い声が……俺の耳から、離れない」
「は……?」
「自分が笑い続けるためなら、どんな行為も厭わない男だ。いちどでもかかわれば、そう簡単に忘れられるようなやつじゃない……」
相手は、それ以上詳しく話すつもりはないようだった。
場に沈黙が満ちれば、オージィはその分だけ自分の寿命が縮まって、足音を立てて近づいてくる気がした。
このままみすみす殺されるわけにもいかずに、オージィは無理やり言葉を投げかけた。
「なんだよ、おい。お前は……なぜ、そいつのことを捜しているんだ?」
「……なぜ、だと?」
黒犬マスクは自身の両肘に触れた。それから、慈しむか、あるいは憐れむかのように、黒いボディスーツ越しにみずからの肌を撫ぜた。
「なぜって……俺は、必ず見つけ出して、そいつを……」
独白するような言葉とともに、黒犬マスクの身に漂う雰囲気がどこか一変する。張り詰めていた殺気が失せて、それまでオージィに払っていた注意が薄れた。
オージィは、スカルマスクの下の目の色を変えた。
チャンスだ――と思った。先ほどと違い、相手に隙が生まれていた。
オージィは、黒犬マスクの後方に散らばるパイプに注意を向ける。すると、オージィのにび色の砂塵粒子がさらさらと流れて、パイプが宙に浮かんだ。
カタナに寸断された切り口が鋭利に尖り、天窓から差す月光を反射して煌めいた。
「そいつを……なんだっていうんだよ?」
注意を自分に引きつけながら、オージィはパイプの高さを調節する。
「俺は、そいつを……」
虚空を見つめて答える黒犬マスクに、オージィが殺意を向ける。
キッと睨むと、アルミパイプが猛スピードで宙を走った。
(てめえのミスは、とっととトドメを刺さなかったことだ……! 臓物、ブチ撒けやがれッ!)
しかし――切っ先が、相手の背中に刺さる寸前。
黒犬マスクは瞬時に右に踏み込むと、オージィの後ろ首を掴んで起こした。
ぐい、と身体を持ち上げられる。ほかならぬ自身の操作で迫った凶器が風を切り、次の瞬間には、オージィの腹を深々と貫いていた。
「俺は、そいつを、どこまでも追いつめて……必ず、この手で殺す……」
「が、は……ッ」
ごぼり、とオージィはマスクの下に大量の血を吐いた。その勢いに、砂塵粒子の吸引を防ぐ、ドレスマスクの防塵フィルターがはずれて、ぼたぼたと床に溢れ落ちた。
黒犬マスクが、今度こそカタナの柄を静かに握った。目の前に構えられた大仰な武器に、オージィは振り絞るように声を発した。
「お、おまえァ、何、者、だ……?」
「俺か? 俺はチューミー・リベンジャー。これから死ぬお前が覚える必要も、意味もない通称だ」
流れるような抜刀の後、今度こそ、オージィの視界が暗黒に染まった。
あたりに漂う砂塵粒子が、彼の絶命に呼応するかのように、音もなく消失した。
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