1-8

 一体どれくらいの時間気を失っていたのか、マシロの意識はゆっくりと、極めてゆっくりと覚醒した。


 まず知覚したのは、右頬に当たる柔らかい布の感触だった。どうやら自分は布団の上に寝かされているらしい。


 首、腕、腰、足をそれぞれ揺すってみたが、拘束されてはいないようだ。周囲の状況を確認するため、マシロは少しだけ眼を開いた。


 最初に見えたのは赤黒い甲殻。ザリガニ男がこちらに背中を向けて座っていた。黒目だけを動かして部屋の中を確認すると、ザリガニ男以外に誰か居るようだ。


 ザリガニ男の左側には、真っ黒な人のような何かが鎮座していた。それはあまりにも黒すぎて、そこだけ空間が切り取られているように見える。そして、人間でいうところの眼が存在する箇所に、豆電球の様な白くて丸い光が灯っていた。


 ザリガニ男の右側には、三匹のタヌキが鎮座していた。見た目や大きさは普通のタヌキであるが、お尻を床にペンタと着き、後ろ足を折って胡坐をかいて座っていた。背筋をピンと伸ばしている様は、威風堂々としている。幼少期に絵本で見た化け狸のようだなとマシロは思った。


 ちゃぶ台を挟んでザリガニ男と向かい合って座っているのは、ハンチング帽を被った初老の男性だ。魑魅魍魎の博覧会のような席にあって、見た目だけはその男性だけが唯一の人類だった。


 男性は眉間に皺を寄せ、ザリガニ男たちを見渡していた。


「何度も言うが、本隊からの支援できない。それでもやるんだな?」


 男性の物言いは静かだが、その全身からはただならぬ気配が発せられていた。男性がちゃぶ台に着いた怪人達に目線を合わせると、彼らはしっかりと頷いてみせた。深い溜息が男性の口から漏れる。


「覚悟はとうに決まってる、そういう面構えだな」


 わかった、と言って男性は立ち上がった。


「本隊には俺から説明しておく。お前らの邪魔はさせねぇ」


 ハンチング帽のツバを指でなぞり、男性は部屋を後にした。玄関扉を閉める時に一度だけ振り返り、「しっかりな」と言葉を残していった。


 部屋には怪人が二人と、怪人然としたタヌキが三匹とマシロが残された。


「おやっさんは優しいな」


 黒い怪人は溜息混じりにそう言った。


「本隊からすれば、俺達は和を乱す厄介者どもさ」


 ザリガニ男が返した。


「俺達が騒ぎを起こせばギャラティカルセブンは必ず動く。そして、奴らが本腰を入れて捜査をすれば、必ず自分たちの存在に辿り着く、それを恐れているのさ」


「ふん、軟弱者どもめ」


 忌々しいと吐き捨てると、黒い怪人の輪郭がウゴウゴと波打った。


「構わないさ、元より俺達だけでも実行するつもりだったんだ。本隊が何するものぞ。肩身寄せ合って穴倉に籠ってる連中の、度肝を抜いてやるさ」


 そう言って、ザリガニ男はわはははと豪快に笑った。


 どうやらこの怪人達は、ギャリティカルセブンに対して何かしらの行動を起こすらしい。彼らは怪人、相手はヒーロー。両者は対立し、衝突するものというのが理かと、マシロは思った。


「さて」と、前置きしてザリガニ男はぐるりと後ろを振り返った。黒くて丸い目と、薄目を開けていたマシロの視線がばっちりとかち合った。慌てて、マシロは目を閉じた。


「おうおう、目が覚めたようだな。で、どこからどこまで聞いていた?」


 二人の怪人と三匹のたぬきに睨まれ、マシロの全身に緊張が走る。アパートの一室で催された怪しい会合、その内容を図らずも聞いてしまった一般人。


 これがサスペンスドラマであれば、殺害されて山中深くに埋められるというのが定番である。なんとか誤魔化さなければならない。マシロは苦肉の策を講じた。


「ぐ……。グーグー」


「いや、それは無理があるだろ」


 渾身の奇策は脆くも破られた。さすがは怪人と言うべきか。マシロは布団の上に正座をし、居住まいを正した。ザリガニ男は体ごと向き直り、胡坐をかいてマシロと相対した。


「それで、どこからどこまで聞いていた?」


「あの、本隊がどうとか、支援がどうとか……」


「なんだ、ほとんど聞こえてなかったのか」


 ザリガニ男はハサミで頭をボリボリと掻いた。


「分かっていると思うが、ここで見聞きしたことは他言無用だ。アンタが沈黙を貫いている内は危害は加えない」


 危害は加えない、と怪人に言われてもすんなりとは納得できない。マシロは怪訝な表情で部屋を見渡した。


「なんだ、信じられないって顔しているな」


「えぇ、いやそんな事ないですよ」


 首を横にブンブン振って否定するマシロだったが、怪人達は納得のいってないご様子だ。


「まあ、俺達みたいなのに危害を加えないと言われて『分かりました、それなら安心ですね』とはならないわな。いいか、よく聞け」


 ザリガニ男はハサミの先をマシロの顔の前に突きつけた。


「勘づいていると思うが、俺達にはとある計画があり、それは秘密裏に行わなければならない。特に、ギャラティカルセブンに嗅ぎ付けられてはならない。もしアンタに危害を加え、最悪殺してしまったとして、どんなに巧妙に隠したところでいずれ足が着いてしまう。警察をはじめとした公的機関は、軒並みギャラティカルセブンと情報共有をしている。捜査線上に俺達怪人の影がチラつけば、エージェントがすっ飛んでくるって訳よ」


 顔に似合わぬ理路整然としたザリガニ男の説明に、マシロは図らずも頷いていた。


「俺達にとっては、アンタをここで始末するメリットよりも、エージェントに計画を察知されるデメリットの方が大きい。故に、アンタが大人しくしている内は危害を加えない。納得したか? 納得してもらわないと困るがな」


 納得するかしないか、マシロには選択肢がない。


 ここで納得できないと反抗の意思を見せれば、一体何をされるか分からない。かと言ってザリガニ男の提案を受け入れたとしても、身の安全が完全に保証される訳ではない。だが、少なくとも後者を選べば命は繋がる。


 マシロは首を縦にガクガクと振って、納得する意思を見せた。その表情を見て、ザリガニ男も首を縦に振った。


「よし、いい子だ。だが、このままでアンタを帰すわけにはいかない、悪いが監視をつけさせてもらうぞ」


 言いながら、ザリガニ男は後ろを振り返り、三匹のタヌキに視線を送った。タヌキ達はマシロの前に並び、正座をした。


「手前は信州から参りました、十三代目ポン吉郎と申します」


 三匹の内、一番大きなタヌキが名乗った。


「手前は弟のポン三郎と申します」


 中くらいのタヌキが名乗り、


「手前は末弟のポン四郎と申します」


 最後に一番小さいタヌキが名乗った。三匹は「以後、お見知りおきを」と声を揃えて言い、三つ指をついて頭を下げた。その丁寧な所作につられて、「ああ、ご丁寧にどうも」とマシロも頭を下げた。


「不肖ながら弟のポン四郎が、お嬢さんの監視役を務めます。ポン四郎」


「はい」


 ポン四郎が小さい前足を合わせると、ドロンと白い煙が上がりその姿がスマートフォンに変化した。「おお」と感嘆の声を上げるマシロの目の前で、スマートフォンが大学ノートに、大学ノートがハンドバックにと、次々と姿を変えていった。


「手前どもは所謂化け狸でございます。よほど巨大な物でない限りは、体積を無視してありとあらゆる物に化ける事ができます」


「つまりアンタが部屋に居ようが、屋外に居ようが周囲に不信に思われずに監視が出来るってことだ」


 確かに、ここまで精巧に化ける事が出来れば周囲の人間はおろか、当のマシロですらどこから監視されているのか見当もつかない。ポン四郎が化けたハンドバックを手に取り、マシロはしげしげと眺めた。手触りは完全に革製品のそれである。


「アンタはそのポン四郎が化けたバックを持ち帰り、そして普段通りの生活を送るんだ。事が済めばポン四郎は監視を止め、引き上げる。簡単だろう?」


 先ほどまで最悪の場合殺されると思っていたマシロにとって、ザリガニ男の提案は決して悪い物ではなかった。危害を加えないと言った根拠も筋が通っている。監視を付ける事についても、マシロが約束を反故にする可能性がある以上、当然のことであると得心する。


 四六時中見張られているのは居心地が悪いが、相手はタヌキである。ペットを飼っているのだと思えば我慢できる。


 マシロは、


「わ、分かりました」


 と返答した。


「よし良いだろう。お帰りはあちらだ」


 そう言ってザリガニ男はハサミで玄関を指し示した。


 マシロはハンドバッグを抱え、部屋を後にした。マシロはたどたどしい足取りで自室に戻った。


 タヌキが化けたハンドバッグを座卓の上に置き、そのままベッドの上に仰向きに倒れた。瞬間、全身を疲労感が駆け巡った。つい先ほどまで壁の向こうで怪人達に囲まれていたのだから当然である。今日一日あったことを思い返し、脳の処理が追いつかずに急激な眠気に襲われた。


 薄れゆく意識の中で、マシロは自分の心臓がドクドクと音を立てていることに気が付いた。


 最初それは極度の緊張状態から解放されたからなのだと思ったが、どうやら違うらしい。その感覚は緊張や恐怖ではなかった。しいて言うなら、興奮である。


「どうしてだろう、私……ワクワクしてる」


 自分自身の心臓の高鳴りに、マシロは戸惑った。

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