第22話 .Lily

 午前中、ほとんどの人が仕事をしている時間ということもあって、中庭には人がほとんどいなかった。太陽の光がまわりの壁に遮られていて、この時間は大部分に影が落ちている。それでも昼頃になると気温も高くなってくるので、リリーたちはできるだけ涼しい場所を見つけて、テーブルを挟んで向かい合うベンチに座った。濡れた木のベンチはひんやりと冷たく、不快さと快さの両方をもたらした。


「さっきも言ったように」サラがリリーを正面に見据え、慎重に口を開く。「彼女、ヘイリーさんは森のなかで倒れているところを発見されたそうです。見ての通り、体調が悪いというふうにも見えませんし、目立った怪我もありません」


 サラの言うとおり、多少の疲れは見られるものの、彼女は至って健康であるようだった。もうリリーに慣れたのか、さっきよりも落ち着いた様子で二人の会話に耳を傾けていた。サラの言葉に耳を傾けながら、リリーは手持ち無沙汰な両手で芝生に生えるシロツメクサを一本ずつ摘んで、編んでいく。


「不可解なのは、この子がどうやってここに来たのかということです。彼女自身も、それを覚えていないみたいで――。なんでも昨晩の記憶が……なんて言いますか、すっぽりと、抜けてしまっているらしいのです」


「覚えてない?」リリーは動かしていた手を止めてサラを見る。「どう覚えていないんですか?」


 サラがヘイリーを見ると、リリーの手元を関心そうに見ていたヘイリーが、やがて二人に見られていることに気がつき、サラの話を引き継いだ。その表情には色んな感情が入り混じり、強張っていた。


「――気付いたらベッドで寝ていました。起きて周りを見て、なにかの薬品や道具があるのを見て、医務室のような場所だと気が付きましたが、それ以外にはなにもわかりませんでした。横には女の人がいて、その人はマクナイルの女王様で、森のなかで倒れていた私を運んできたって、説明されました。……私は、マクナイルの国民じゃないんです。両親がミカフィエル教徒なのと、住んでいた場所がちょうどいまのミカフィエルだったので、マクナイルには一度も来たことがありません。なのに、今日目が覚めたらマクナイルにいました。なにが起こったのか、分かりません」


 声変わりの途中のような少女然とした声色が、必死に説明を施した。


「目覚める前、最後に見た光景は思い出せる?」


 リリーは落ち着きを払っているが、いまにも身を乗り出して彼女を問い質したかった。怖がらせてしまうことになるかもしれないからすんでで気持ちを押さえつけている。質問に対して、ヘイリーは考え込んでしまった。


「正直、どこからどこまでの記憶がないのかも分かりません。もう目が覚めてしばらく経ちますけど、まだ少しぼんやりしています。思い出せる出来事が直前のことなのか、それともそうでないのか、少しも分かりません……」


 リリーは話すヘイリーの目を見つめる。それに対して少女はたじろいだが、リリーは気にせず目を凝らす。


「ヘイリー、泣いてた?」


 瞼が少し腫れぼったく見えた。彼は困ったように俯く。


「……覚えて、ないです」

「痛みとか痒みは?」


 ヘイリーは首を横に振った。


けして目立つほどではなく、気にしてみてようやく分かる程度の腫れである。もし違和感がないのだとしたら、涙で腫らしたというのは有り得る。そしてあんなものは二日も持たないだろうから、近くて昨晩。遠くて昨日の朝には涙で腫らしていたということになる。そしてそれを、彼は覚えていないと言う。では、一昨日の朝から昨晩までになにかが原因で泣いたのかもしれず、もしそれを覚えていないのだとしたら、消えている記憶は比較的最近のものだ。


 ……一緒かもしれない。自分やアリスと同じように、彼はおそらく記憶を失っている。そしてその消失が、一体どの記憶であるかも定かではないというところさえ、我々に似ていた。自分たちは食事がきっかけで食事をどう調達していたかということを覚えていないことに気がついたけれど、本当にそれだけなのかどうかは分からない。気づかないところで失っている記憶だってあるかもしれないのだ。


「あ、もしかして、わたしとアリスの役に立ちそうな話ってこの?」


 ふと合点がいって、手のひらを打つ。サラは自信なさげに耳を肩に近づけた。


「アリスから聞いたのです。余計なお世話でなければいいのですが……。むしろ混乱させてしまったかもしれません」

「いえ、とんでもないです。助かります」


 リリーは顔の前で両手を振って否定する。アリスから記憶がないという話を聞いていて、その上でヘイリーに出会い、記憶がないことを知ったから気を利かせて教えてくれたのだろう。


 実際のところ、ずっと考えに詰まっていたのだ。ここに新たな判断材料を与えてくれたことには感謝しかない。ただアリスのいうように、混乱が強くなっているのも事実だった。


 自分やアリスと同じように、彼――ヘイリーも記憶を失っている。それは自分たちと同じ症状かもしれない。そこで気になってくるのはやはり、自分たちがなぜこうなってしまったのだろうという疑問だ。なにか事故にあって、その衝撃でいつからいつまでの記憶を失ってしまったとかであれば理解できる。


 しかし、ヘイリーのことは分からないが、リリーもアリスも大きな事故に巻き込まれたことはない。記憶を失う伝染病なんて馬鹿な話もないだろう。さらに、本の並ぶ本棚からすっぽりと一部分だけ無くなっているような状態ではなく、決まった題の本だけが消えてしまっているような、そしてその本の題名さえ思い出せないような、そんな取り留めのない状態なのだ。


 リリーは一旦思考を打ち切り、サラとヘイリーの両方を見る。


「いま、急いでますか?」

「いえ特には」

「じゃあ、少し時間をください」


 リリーは空を仰いて、目を瞑った。


 ヘイリーは気を失ったまま城の裏の森へ辿り着いたという。彼の最後の記憶は、隣国のミカフィエルにいたということ。国を移動するための唯一のトンネルは城からは遠いし、ミカフィエルからマクナイルに入るのは、番兵がいるから無理だ。ではどうやって? どうやって気を失ったままここに辿り着くのだろう。


 あるいは、気を失っていた、というのが嘘の可能性もある。なにかしらの目的を持って来たということも仮説として無くはないが、それでもやはり国内への侵入は難しいだろう。見たところ外傷もなければ少しばかりの疲労だけ。マクナイルのどこにいても見られるくらいの標高を誇る国境の山を越えてきたようには見えない。そしてなにより、記憶だ。彼はわたしとアリスが記憶を失っていることを知る由もなく、同じような症状に悩まされている。ほぼ同時期に記憶喪失ともなれば、一旦信用することはできるのではないか。


 素性を完全に把握するためにも、彼と情報交換をしたい。それがなにかの役立つ可能性だってあるだろう。ヘイリーの世話役であり簡単な事情を知っているサラにもいてもらったほうがいいだろう。


「二人とも、今夜時間はありますか? アリスも交えて話をしたいんです」


 そう言ってサラの表情を伺う。アリスとサラがいわゆる良くない状態だというのは知っていた。なにがあったかまでは把握していないが、過去になにかあったらしい。けれど、今回はできれば四人で話をしたい。サラは、いつものように表情をほとんど変えなかった。


「かしこまりました。今夜はヘイリー君を案内するついでに、食堂で夕食を済ませようと思っていましたので。アリスの業務が終わった頃に食堂で落ち合いましょう」


 リリーは心のなかで胸を撫で下ろして頷く。それまで色々と考えてみよう。

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