第17話 .Lily

 サラ・スカーレットは一日の仕事を終え、マクナイル城内の自室へと戻るところだった。メイドの仕事はいつもどおりだったが、他の人はどうやら大変だったようだ。城下に猫の死体があったとなっては大騒ぎになるのも当然だろう。自分の仕事に影響はなくとも、他人事と済ませられるような事件でもない。恐ろしいことだとは思う。


 仕事の疲れはそれほど感じていなかったが、サラは早いところ身体を洗い流してベッドに倒れたい気持ちでいっぱいだった。


 サラの実家は城に近いため、帰ろうと思えばその都度帰ることができるが、女王方の必要にいつでも応えられるよう、城の一室を借りて住まわっている。自分以外にもそういうメイドは多い。


 城は東西に別れるような形をしていて、メイドや近衛兵など、城で暮らす人達の部屋は基本的に東側にある。西側から東側に移るための二階中央廊下を歩いていると、前方に見知った後ろ姿を見つけた。中央廊下は窓が多く、外の様子をよく伺える。その窓の外を見るかのように佇む彼女は、手に持った火の点いていない煙草を口へと持っていくと、小さく溜息をついた。


 後ろ姿のその女性――アリスは、窓枠にもたれかかっていた。話しかけようかどうか一瞬迷ったが、無視して通り過ぎるのも無愛想だと思ったサラは「ごきげんよう」と声をかける。


 星でも見ていたのだろうか。首を巡らせてサラを見たアリスは、柳眉を寄せ、切れ長な目につと蔭を落とした。


「……サラか」

「はい」

「なにか用?」

「いえ、用はありません」

「あっそ」


 さすがに冷たい言い方だっただろうか。アリスはまた窓の外に目をやって黙り込んでしまう。


「どうかしましたか、こんなところで」


「別に」吐き捨てるように言う。しかしさすがにアリスも気にしたのか、付け加えるように「どうもしない」と言った。大して言葉の印象に変わりはなかった。


「あれからリリー様の様子はどうですか。王室で女王様と一悶着あったようですが」

「見てたでしょ?」

「あまり聞かないようにしています。一介の使用人ですから」


 とは言ったが、今日の二人のやり取りはしっかりと聞いてしまったし、いまでも思い出すことができる。けれどなにがどうしてああなってしまったかは分からないので、知らないということにしておくのが懸命に思えた。


「気にしてるみたい。あの子、気に病んじゃうから」


 リリーの話となると、アリスの声色は少し優しく聞こえた。相当に可愛がっているのだろうということは分かるが、きっとリリー自身にその姿を見せてはいないのだろう。一年前の大会のことがあるのに、いまやいい関係を彼女達はよく築いている。そう考えて、サラの表情も少し曇った。


「アリスが悩んでいるのは、リリー様のことだけですか」


 アリスが顔を上げ、サラの顔をまじまじと見た。


「そんなに分かりやすい? 私」


 分かりやすいということはないだろう。むしろ他の人に比べたら、人の顔色を伺う仕事をしているサラでも分かりにくい。だが、アリスのただでさえ冷たい顔がさらに冷たくなっているときは、なにかを気にしているときだ。付き合いの浅い人だったらきっと違いは分からないだろうけれど。


 サラは壁にかかった時計をちらと見た。多くの人はもう寝ている時間だ。城の中はしんと静まり返っている。聞こえるのは二人の呼吸と、巡回する近衛兵の足音だけだった。


「コーヒーでも淹れましょうか」


 断られるだろうと思って言った誘いだったが、以外にもアリスは乗ってきた。


「……飲む。けど、ココアで」


 ぶっきらぼうな返事とわがままが返ってくる。アリスは吸ってもいない煙草を置かれた灰皿にぐっと押し付けてから立ち上がった。




 サラの部屋に着くなり、アリスはぐるっと部屋を見回す。

「なにもないじゃん」


 サラの部屋は、一通りの調理器具と生活必需品くらいしか置いていない。殺風景だと言われればその通りだった。


「適当に座っていてください」


 アリスが椅子に腰掛けるのを見て、サラはココアを作り始める。


 買い置きしてあるお気に入りのココアパウダーを鍋で煎る。様子を見ながら色合いが濃くなったところでミルクを少しずつ投入し、泡立て器でゆっくりと溶く。この時点で鍋かららたちまちいい匂いが立ち込めてきて、アリスがちらりとこちらを伺うのが分かった。


「懐かしい気分になりますね」


 サラの発した言葉は誰にも拾われず、甘い匂いだけが立ち込めている部屋に落ちていった。


 泡が出てきたら火を止め、カップに移す。最後には蜂蜜を一匙入れるのだが、アリスは甘いほうが好きだからということで、二匙も淹れてからかき混ぜた。

 アリスの前に差し出すと、小さな声でお礼を言ったあと、カップを口に運んだ。飲んでいる間は普段のアリスからは想像できないほど落ち着いた表情になり、気分も心なしか落ち着いたように見えた。しかしその姿を見ているサラに気がつくと、むすっとした表情に戻った。


「煙草なんて吸っていましたっけ」

「ああ……。うん、最近だけど」

「吸っても構いませんよ」

「におうけど、いいの?」

「はい、構いません」


 さらに念を押すように確認したアリスは、さっきとは違って火を点けてから煙草を咥える。紫煙がふわりと漂った。気にしているのか、アリスは立ち上がって窓際に寄ると、窓の横にあるサラのベッドに乗って、窓をがらっと開ける。煙は外に吸い込まれるように出ていって、その煙を追うようにアリスは外を眺めた。


「甘い香りがするんですね」


 最初はココアから漂う香りかとおもったが、どうやら煙草のにおいのようだった。


「味も甘いんだよ、これ」


 そういったものがあるのかと、サラは感心する。アリスが煙草を吸っていることは知らなかったが、口にそれを咥える姿は似つかわしかった。それでも渋い煙草ではなくて甘いものだというのだから、やはりアリスはアリスだ。


「それで、どうしたんです」


 問うと、アリスは俯いた。言うか言わないか迷っているようだったが、しばらくしてから「信じられないかもしれないけど――」と切り出す。


「リリーのことが心配なのもそうだけど――私ら、記憶がないの。私とリリーね。……記憶って言うと大げさかもしれないけど、思い出せないことがあって」


 アリスが訥々と話しだした内容は、確かににわかには信じ難かった。アリスがこんな風に自分に冗談など言わないだろうし、表情も暗いままだからきっと本当のことを言っているのだろう。


 サラも考えてみるが、サラもサラで二人がどう食事をしていたのかが分からなかった。自分に関しては記憶がないということではなくて、単純に知らないのだろう。夕食時に彼女達の姿を見た回数は指で数えられるほどに少ない。そして助言になりそうなことも、思いつかなかった。


「なにか助けになれれば良かったのですが、わたくしにも分かることはありませんね」

「……そう」


 アリスは残念そうだったが、こちらを責めようという気はないようだった。


「でも、なにかあればまた声をかけます」


 アリスがサラを見る。じっと、数秒。瞳には翳が落ちていて、その奥底に憂いがあるようにも見えた。


「……いい。迷惑かけたくないし」サラから視線を外したアリスは、色のない声でそう言った。煙草はもう朽ちそうだった。棚から使わない皿を出して、アリスに渡す。

「ごめん」


 夜の空に消え入りそうな、消えかけの煙草の煙にも似た声で謝って、アリスは煙草の火を消した。テーブルに近づくともう冷めてしまったココアを一息に飲み込む。


「ココア、おいしかった」


 それだけ言い残し、アリスは振り向きもせず扉を静かに閉めて去っていく。灰皿代わりにした皿を受け取ろうとしたが、その暇はなく彼女が持っていった。


 机の上には、アリスの飲み干したカップがそのまま置かれている。


「食器の片付けは、昔からしないまま」


 さみしがりやのくせに。だから煙草など吸うのだろう。彼女の残していったまだ熱のあるカップに、サラは優しく口を付けた。

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