第30話

 

 目を開ける。が、依然目の前は真っ暗闇。手足を動かそうとするが、まるで手応えがない。そもそも、感覚すらない。

 だが、唯一右手だけは動いた。掻き分けるようにそれを動かすと、すぐに視界は開けた。


「ここは……」

 

 暗闇を抜けた先にあったのは、薄暗闇。

 四方には高い壁がどこまでも上に続いていて、自分はそのど真ん中に寝ているらしい。

 とりあえず起き上がろう。そう思ったが上手くいかず、苦労の末ようやく体を起こした。口に違和感を覚え、壁に向かって吐き出す。


「虫……」


 出て来たのは、数匹の大きな黒い虫。既に死んでいるらしく、ピクリとも動かない。

 さらに視線を下げて気が付いた。今、自分はこの虫の死骸でできた山の上にいるのだと。光沢のある羽が不気味に照っている。


「そうか。俺はネヴロカミキリに襲われて、そのまま谷底に」


 アドニスは徐々に記憶をたぐり寄せていく。

 両脚と左腕を喪失しているのは、カミキリに食われたせいか。加えて、やけに視界が悪い。顔に触れようとして、自分の頭の半分がなくなっていることを理解した。

 側から見たら、絶叫ものの姿だろう。


「脳が食われる前に、こいつらが死んだ…… あの毒 

は効いたのか」


 あの毒とは、ラードーンの毒のことだ。かなり遅効性ではあったが。


「あれからどのくらい経った」


 当然、答えてくれる人などいない。


「リゼたちは上手く逃げられただろうか」


 少なくとも、周りに誰かの死体はないが。

 

「もし、既に全員死んでいたら……」

 

 アドニスは訳もなく自分の右手を眺めた。奇しくも、不幸の蝶が刻まれたこの手だけが残っている。


「俺は何のために、どこに向かえばいい。この体では、何もなせない」


 感情の関与しない非人間的な思考は、早くもさっぱりと断念の道を選ぼうとする。何の目算も浮かばないのだ。仮に地上にたどり着いた所で、そこらの冥獣に残りの部位をついばまれるだけ。


「アネモネ。お前なら何と助言してくれる?」


 アドニスは答えてくれるはずのない人に助けを乞う。


「俺は所詮人形だ。心がないから、こういう時に何をすべきか判断できなくなる。お前が側にいたら…… 俺一人では何もできない……」


 何をするでもなく、アドニスは壁を見つめる。

 すると、不意に目の前に真っ黒な影が現れた。それは手のひらを耳の後ろにあてがう。耳を澄ましているジェスチャーだろうか。

 彼はそれを真似てみる。


『ママ……』


 聞こえてきた声。


『ママ! ママ! 置いていかないで!』

「そうだ、リゼ…… あいつが俺のことを呼んでいた」


 リゼの悲痛な叫びが、今も耳底で響いている。彼女の目から涙が溢れる光景が、脳裏にちらつく。

 今の自分に何ができるというのだ。

 だが、気付けば、体は勝手に動いていた。アドニスは前のめりに倒れると、岩壁の方へと這っていく。黒い影はもう消えていた。


「あいつは俺を待ってる。あいつをこれ以上悲しませる訳にはいかない。泣かせる訳にはいかない」


 黒い爪を、岩に突き刺す。そして、右腕の力だけで、少しずつ上へと進んでいく。

 今の状態では、冥獣一体の相手すら満足にできないだろう。呆気なく食われてしまうかもしれない。それでも。


「待ってろ、リゼ。すぐに行く」


 かなりの時間を要したが、やっと岩の中腹辺りまで登った。視界には、岩の頂上部分が微かに映る。

 

「もう少しだ」


 しかし、そんなアドニスの道程を、またしても障害物で塞ごうとする腐れ縁の同伴者。それは悪巧みの宣言でもするように、手の甲に妖しい蝶を浮かび上がらせた。


「また俺の邪魔をするか」


 その蝶の特殊なフェロモンに引き寄せられてきたのは、二体の冥獣。それらは崖の縁から顔を出して、こちらを待ち構える。

 と、一体が長い管のような物を伸ばして来た。その先端はぱかりと開き、歯がびっしりと生えた中身が姿を現す。


「だが、この程度で俺を止められると思うな」


 アドニスは管を躱すと、逆にそれを強く握りしめた。冥獣は慌てて管を振り回すが、彼は巧みに岩と管を行き来しながら、グングン上昇していく。

 そして、一気に頂上に達すると、間近にいた一体の頭部に爪を突き立てた。苦鳴を上げながらも、暴れ狂う冥獣。しかし、それは無意味な悪足掻きに過ぎない。彼は冥獣の首から核を抜き取ると、無慈悲にそれを潰す。


「まずは一体」


 視界端から、もう一本の管が肉薄する。

 アドニスは真っ向からそれを掴み、ぐいと力一杯引っ張る。冥獣はそのまま崖下へと転落していった。


「他愛もないーー」


 言下に、腰に何かが巻きつく。そのまま体が後方へと引きずられていく。


「これは」


 先程よりも太い管。その先にいたのは、一際大きな冥獣。ちょうど岩の影に隠れていて、さっきは見えなかった。


「親玉が隠れていたか…… 他に冥獣がいると考えていなかった」


 アドニスは為す術なく、冥獣の足元へと引き寄せられた。冥獣は問答無用とばかり、片足を上げる。彼の息の根を止めてから、安全に捕食する気だ。


「離せ」


 彼は必死にもがく。しかし、管の締め付けは強く、全く抜け出せない。


「まだ…… まだ俺は死ぬわけにはいかない。リゼが待ってる……」


 濃い影がアドニスの頭に降り掛かる。


「俺にもっと力があれば…… こんなことには……」


 だが、彼の頭が割れることはなかった。

 冥獣が突然大きく体勢を崩したのだ。その顎辺りからは、剣の切先が突き出ている。


「何が起こった?」

「はあ、はあ…… どうだ! 僕の渾身の一撃は!」


 冥獣の方から、聞き覚えのある勇ましい声。すると、その頭の方から、ひょっこりと顔が現れた。


「アドニス、怪我はないーー って、既にボロボロ……」

「お前…… ペイル」

「待たせたね! 今度こそ、ちゃんと助けに来た! もう文句は言わせないよ!」


 高らかに叫ぶペイル。

 しかし、突然彼の姿勢が崩れた。冥獣が暴れ出したのだ。

 

「うわっ!?」


 ペイルは慌てて柄に掴まる。


「いやっ、めっちゃ揺れる! 怖い、吐きそう! 助けて!」


 冥獣は脳を破壊しようが、動くことができる。知性はゼロになるが。完全に殺すためには、核を破壊しなければ。

 アドニスは緩んだ管から抜け出すと、それを掴み、冥獣の動きを制限する。


「背中の中央だ。そこに真っ直ぐ剣を刺せ」

「わ、わかった!」


 ペイルは冥獣の頭部から剣を引っこ抜くと、ヨタヨタと冥獣の背を移動する。そして、剣を高々と振り上げた。


「これで、どうだ!」


 剣が冥獣の背中を貫く。すると、冥獣は弱々しい声を最後に、パタリと倒れていった。


「た、倒せた…… ?」

「ああ。もう動かない」


 アドニスの言葉を聞いて、ペイルはホッと息を吐く。顔には大粒の汗が出て、呼吸は少し苦しそうだ。


「助けに来たのか?」

「さっきそう言ったでしょ」


 アドニスが再び口を開けようとすると、ペイルに手で制された。


「なぜ? って言う気でしょ。そんなの簡単だよ。君は僕のとも…… 僕と友好関係だからね。見捨てる訳ないだろ。君ならまだ生きてるって信じてたし」


 ペイルはちょっと咳払いをする。


「いや、その怪我は? と問いたかったのだが」

「え!? あ、そうなの!? いや、まあわかってたけどね! 今のはちょっとした冗談って言うか…… そんな感じ!」


 なんとも要領を得ない話し方だ。なぜ急に狼狽えたのか。

 そんなペイルは全身の至る所に、古めかしい布切れが巻かれている。


「で、これはマヴロカミキリだっけ? それに噛まれたんだ。で、この布は止血のための包帯の代わりかな。まだ全身がめちゃくちゃ痛いよ」


 言っている側から、ペイルは痛みに顔を歪めた。かなり重傷なようだが、それでも自分を助けに来てくれるなんて。


「ありがとう。また、お前に助けられた」

「結局今回も、君の指示がなかったら危なかったけどね」


 そう言って、ペイルは手を伸ばしてくる。


「お互い満身創痍だけど、まだやることが残ってるんだ。あと一息頑張ろう」


 冥霧に入った当初とは、まるで別人だ。この数日で、ペイルは精神の面で相当成長したらしい。


「ああ」

 

 手が重なると、ペイルはそのままアドニスを担いだ。少し遅れて、ラードーンが近くの岩場に降り立つ。


「こいつ、核を握ってなくても言うことを聞くのか?」

「うん。僕が目を覚ました時も、大人しく一人で待ってたみたいだったし。僕を主人として認めてくれたってことかな?」


 ペイルはちょっと得意げに言う。真偽は不明だ。


「アン…… ジア」


 ラードーンはまたあの奇妙な声を発する。アドニスに語りかけるように。だが、生憎彼には意味がわからない。

 アドニスたちが乗り込むと、それはすぐに上昇を始めた。


「ここにはお前一人で来たのか?」

「うん。それがさ、この先に町があって、僕はそこのベッドで寝かされてたんだけど……」


 ペイルはポケットから紙切れを取り出すと、それをアドニスの前で広げてみせた。


「目が覚めた時には誰もいなくて、代わりにこれが置いてあったんだ」


 紙には、あまり上手くない絵が描いてあった。

 紙面の一番下には家のような図形があり、その上に髪の長い女の子の絵と、上向きの矢印。それが向く先には、ひし形。


「何かの暗号だと思うんだけど、僕にはよくわからなくて」

「この紙、どの向きで置いてあった?」

「えっと…… 矢印があっちを向いてた」


 ペイルはそう言って、進行方向を指す。


「なら、その先に灯晶塊がある。そこへリゼたちは向かったんだろう。あいつが描いたということは、他の二人が情報を残せない状態にあったのかもしれない」

「え、嘘…… なんでそこまでわかるの?」

「それは、俺がリゼのーー」


 しばらくすると、ペイルの言っていた町が見えて来た。上から見た限りでは、生き物がいる様子はない。一度、彼が寝かされていた家も確認したが、誰も戻ってきていなかった。

 再びラードーンに乗り、リゼの残した情報を頼りに、大通りを突っ切る。すると、町の端っこから、橋が伸びているのが見えた。


「橋? あんな所に。というか、どういう仕組み?」

「わからんが、やはりこの先に何かあるに違いない」


 その橋を辿っていくと、奇妙な光景が現れた。


「何あれ…… 冥獣…… ?」

「そのようだ」


 橋の上を埋め尽くすように、黒い球体が蠢いている。それらは一様にアドニスたちと同じ方向を目指しているようだ。

 冥獣の大行列が向かう先には、巨大な門。


「あれがコリント…… あそこに灯晶塊が……」

「あの先にリゼがいる……」


 アドニスは拳を握りしめる。

 何か異常事態が起きているのは確か。それにリゼたちが巻き込まれている可能性も高い。だが、先程の戦いで、今の自分はほとんど戦力にならないことがわかった。

 そんな時、ふとエルピスでの一幕が頭に浮かんだ。目の前にはアルネブがいる。


『なあ、お前さん。それを初めて使った時、何を考えた?』

『冥獣を倒す。それだけを考えていた』

『答えはそこにあるのかもしれねえな』


 ほんの短い記憶。灯晶術についてのアドバイスだ。あの時は結局、アルネブの言わんとしていることがわからなかった。

 しかし、今何となくその意味がわかった気がした。


「見て! あそこに誰かいる!」


 ペイルが叫ぶ。

 そちらを見る。高い塔の手前の、大きな広場。そこにいたのは銀髪の少女。間違いない。


「リゼ……」


 リゼの下には、二体の巨大なムカデが向かってきていた。このままでは、彼女が殺されてしまう。


「今行く」

「ちょっ! アドニス!」


 ペイルの制止を振り切り、アドニスはラードーンから飛び降りた。

 あんな冥獣に勝てる見込みなどない。それでも、今行かなければ。彼はただリゼを助けることだけを考えていた。


「冥獣を倒すためじゃない。あの時、師匠もローザも、そんなことに命を賭けていたんじゃない」


 ようやくわかった。


「他者を守るため。それが答えだ」


 思考の変化。それは体内にある灯晶にも、大きな変化をもたらしていた。

 失われた手脚から、黒い結晶が生え始めた。それらは徐々に手脚を形成していく。不恰好かつ不気味で、人間のものとは程遠いが。さらに、右手はより獣のように、鋭く凶暴な姿へと変わる。

 今までとは、全く異なる感覚。他人を真似る必要などなかったのだ。これこそアドニスの灯晶の、真の姿に近いのだから。


「リゼは死なせない。俺が守る。命を賭けて。なぜなら、俺はあいつのーー」


 アドニスはその右手で、ムカデの硬い頭部をいとも簡単に貫いた。そのまま地面に到達する。


「ママ…… ?」


 近くでリゼの声が聞こえる。

 いつもなら否定する場面。しかし、「ああ」と答えると、彼は手にしたムカデの核を握り潰した。


「ママが来たぞ」


 真後ろで大きな音を立て、ムカデが倒れていった。なんと哀れなムカデだろう。子を追いかけ回したばかりに、ママの逆鱗に触れてしまったのだ。

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