第13話
次の日から、アドニスは積極的になった。
「あ? 強くなるためには、具体的に何をすればいいって? ほらよ、ちょうどお前さんにぴったりの練習メニューをまとめてやった所だ。まあ、騎士団共通の基礎訓練をちっとばかし
アルネブは目をしょぼしょぼさせながら言った。渡された紙は大量の文字で埋め尽くされていて、行間の隙間にすら彼の一言コメントが丁寧に書かれていた。
「え、子育てに関する知識? 独り身の乙女にそんな事聞くなんて、アドニスくんも案外隅に置けないね〜。うん、いいよ。一層に図書館があるから、そこから本を持ってきてあげる」
ローザのあの意味深な笑顔はなんだったのか。
翌日、彼女が数冊の本を携えて来てくれた時に尋ねたが、簡単にはぐらかされた。代わりに、本の内容について質問すると、大抵のことに答えてくれた。
「え、感情についてですか…… ? あの、私…… ごめんなしゃい……」
相変わらず、牢屋の中ではサラは会話にならない。だが、今回ついにその理由が白日の下に晒されることになる。
「なんと! サラちゃんは、自分じゃ届き得ない力の持ち主を前にすると、めちゃくちゃ緊張しちゃう性格なんです! 他の人がいる時は平静を装ってるけど!」
「うひゃぁー!? ろ、ローザ副隊長、いつの間に!? どこから入って来たんですか!?」
「いや、普通にそこの扉開けて来たけど? 入り口そこしかないし。全然気づかれなくて、逆にびっくりした」
「あ、あの、この事はどうか内密にしていただけませんか? その、恥ずかしいので……」
「え? もう隊のほとんどの人が気づいてるけど?」
「えっ…… ?」
こうして、アドニスは数日の間にたくさんの知識を身につけていった。
とりわけ子育てに関しては、実践を交えることで、基礎的な部分はだいぶ理解した。感情についても、名称とその時に起こる表情の変化を、数パターン暗記した。
これだけスムーズに事が運んだのは、
しかし、彼らの助力を
◆◇◆◇
深淵の如き黒の拳と、烈火の如き赤の拳がぶつかり合う。
「ハッ、だいぶ術にムラがなくなってきたじゃねえか」
「師匠もそう思うか?」
「いいね、もっと師匠って呼びやがれ!」
アルネブの力が強まる。アドニスは堪らず一歩後ろに引いた。
そこへアルネブ素早い一撃。それをギリギリかわし、攻撃に転じる。しかし、人間の三分の一しかない、その小さな的を捉えるのは難しい。アドニスの攻撃は空を切ってしまう。
場所は、あの牢のような物がある部屋。そこで、二人は模擬戦を行なっていた。
「当たらないか」
「今のは惜しかったぜ?」
アルネブはこちらの攻撃を巧みに避けると、尻尾をバネのように使い、瞬時に
こちらは拳を突き出した勢いが残っているため、方向転換は不可能。逃げ道はない。一見そう思える。
「だが、残念。今回も俺の勝ちだな」
模擬戦開始から三十分以上。
今までなら、既に十回は倒されていただろう。しかし、一週間彼と模擬戦を続けている内に、彼の動きを目で捉え、反撃できるまでになった。まだ一度も攻撃は与えられていないが。
だが、今回はそれを達成する秘策があった。
アドニスは前傾姿勢のまま地面を強く蹴り、前へと飛んだ。アルネブのすぐ上を通過していく。
「お、良い判断じゃねえかーー」
が、通過しきる直前。アルネブは身体を急速に回転させ、その長い尻尾をムチの如く振り回す。
「ーーよっ!」
だが、アルネブのこの動きは想定済みだ。アドニスは体をくねらせ、どうにかそれをかわす。
耳元を、鉄の棒でも振ったような、重い風切り音が掠めていく。あのモフモフは一体何でできているのか。
「これも避けるか…… ! いいねぇ!」
見ると、アルネブは既に地面に尻尾をつけ、今にもこちらに飛んでくる様子。
一方のアドニスは空中だ。だが、これなら間に合う。
「なっ」
着地直後。アドニスは体を大きくよろめかせる。足元の地面には、小さな
その隙をアルネブは見逃さなかった。
「おいおいおい、折角面白くなってきたってのによ」
一気に距離を詰めてくるアルネブ。一秒にも満たない間に、彼の姿はもう目の前だ。
「だが、運も実力の内だぜ」
アルネブの無慈悲な一撃が迫る。
「そうだな」
「なに…… ?」
アルネブが目を見開く。
いつの間にか、アドニスはアルネブの真横に回り込んでいたのだ。
「なんだお前さん、演技もできるようになってたのか。やるじゃねえか」
アルネブの言う通りだ。
最初からアドニスは足を取られてなどいなかった。この数日で編み出した、対アルネブ用の作戦。上手くいったようだ。
アドニスが拳を振り上げる。向こうは、満足そうな顔を向けるだけ。反撃してくる素振りはない。
「これで……」
終わりだ。
いや、そんなことはなかった。足が滑り、さっきの窪みにハマってしまう。
「あっ」
「は?」
アドニスはそのまま地面に倒れ、顔を強打した。彼の視界には、呆れた顔でこちらを見つめたまま、鉄格子にぶち当たるアルネブの姿が映る。
鳴り響く衝突音が、模擬戦の終了を告げた。
「めっちゃ熱い展開だったのに…… もう嫌…… 俺、あいつ嫌い……」
昼食の時間、アルネブは一人でぶつぶつと文句を言っていた。
「まあまあ。アドニスくんらしくていいじゃないですか。あれはもう、隊長に一発当てたようなものですし。隊長の負けですよ」
「いや、そういうことじゃなくて…… これは漢と漢の熱い戦いで…… 弟子が師匠を超える第一歩で……」
二人が話している側で、アドニスは小さい木箱に座り、リゼが食事するのを眺めていた。いや、観察すると言った方が正しい。
「リゼ。その野菜はなぜ食べない」
アドニスの指摘に、リゼは肩を縮こまらせた。皿の上に、深緑色の野菜が残ったままだ。
「い、いらない……」
「何を言っている。それには多様な栄養が含まれていると本に書いてあった。人間が生きていくのに必要なものだ」
「でも、これ……」
「貸してみろ」
アドニスはリゼの持っていたフォークを取り上げると、残りの野菜を刺して彼女の口元に運んだ。しかし、彼女は口を開こうとしない。それどころか、徐々に顔を後退させている。
「何をしている。口を開けろ」
「ん、んん…… !」
なぜ食べないのか。
アドニスはリゼの後頭部を押さえ、野菜を近づけようとする。が、何ということか。彼の手が彼女の力に押し負けている。
「んんん…… !」
「なに? この力…… お前、どこにそんな力を……」
さらに力を加えるが、リゼの頭はびくともしない。
「こら、アドニスくん」
顔を向けると、ローザがこちらを見下ろしていた。
「ん、どうした?」
「リゼちゃんが嫌がってるでしょ。そんなに無理させると、余計野菜嫌いになっちゃうよ。こういうのは、他の料理に混入して、知らず知らずの内に食べさせるの」
リゼの顔を確認してみる。踏ん張っていたせいか、顔が真っ赤だ。
「そうか」
アドニスは手帳を取り出すと、今のローザの話をまとめた。この前から、子育てに関する事も記入するようにしている。
「また無理をさせてしまった」
「少しずつ学んでいけばいいの。それより、自分が間違ったことをしたら、どうするんだっけ?」
アドニスはリゼの方に向き直り、頭を下げた。
「ごめんなさい」
「うん、偉いぞアドニスくん。いい子いい子」
にこやかな表情で、ローザがアドニスの頭を撫でる。視界の端では、リゼがむすっとした顔でそれを見ているのがわかった。
昼食が済むと、彼女はアドニスの肩に乗る。最近の彼女の定位置だ。
「まあ、お前さんが成長してきたのは認めてやる。俺はまだ百分の一しか力を出していないがな」
「あれで百分の一…… 師匠が全力を出したらどうなるんだ?」
「おじさんのホラ話を真に受けちゃだめだよ〜」
ローザの冷静なツッコミ。
「後は形状の変化だが…… どうだ、何か掴めたか?」
アルネブに聞かれ、アドニスは目を閉じた。右腕に意識を集中させる。
すると、揺らめく黒が、少しだけその勢いを増した。しかし、それ以上の変化はない。
「ダメだ。ローザのような剣を思い浮かべたが」
「たぶん思考に問題はないんだと思うよ。やっぱり感情の問題かな」
最初からゴールはハッキリしている。だが、そこにたどり着くまでの道のりが全く見えてこず、進んでいるのかすらわからない。暗中模索の状態だ。
「なあ、お前さん。それを初めて使った時、何を考えた?」
藪から棒に、そんなことを聞かれる。
「なぜだ?」
「いいから」
「あの時は確か……」
アドニスの頭には、迫り来る巨大な冥獣が浮かんだ。
「冥獣を倒す。それだけを考えていた」
しばし考えて込んでいたアルネブは、深く息を吐く。
「答えはそこにあるのかもしれねえな」
「何かわかったのか? 教えてくれ」
「俺が教えても意味がねえ。お前自身で、それに気づけねえと」
「俺自身で?」
そこで話は途切れてしまった。
「はいはい! 難しい話はこのくらいにして!」
明るい声でそう言うと、ローザが近くの棚から何かを持ってきた。
「これ。アドニスくんにプレゼント」
ローザが伸ばした手に乗っていた物。
「これは…… 脚か?」
「そう、左脚。それじゃあ歩きにくいでしょ?」
「いや、もう慣れた」
「うんうん、不便だったよね! 保管室にあったレウケの木を加工してみたんだ〜。隊長と一緒にね!」
アルネブの方を見るが、なぜか目を逸らされた。
脚に視線を戻す。色こそ普通の木であるが、その形はアドニスの残った右脚と見間違う程精巧。
「この前寸法は測ったから大丈夫だと思うけど、一応合わせてみて?」
アドニスは左脚を受け取ると、それを膝の切断面に押し当ててみた。寸分の狂いもなく、それははまった。
「大丈夫そうだね。じゃあ、固定する器具持ってくるから一回外してーー」
ローザがアドニスの左脚に手をかける。しかし。
「あ、あれ?」
「何してんだ、お前さん? そんなへっぴり腰になって」
「これ外れなくて…… あれ、何この既視感……」
それは既視感ではない。
「くっついたな」
「えぇ!?」
ローザの叫び声が響き渡った。
「マジでぴったり引っ付いてやがる……」
アドニスが左脚を揺らしているのを、アルネブがじっくり観察する。
「もう、そんな凄い機能あるなら先に言ってよ〜」
「ごめんなさい」
アドニスはぺこりと頭を下げる。
実は以前、ウルカヌに手足を交換してもらったことがある。例によって、その詳しい方法は知らないが。だから、まさかくっ付くとは思ってもいなかった。
「レウケの木が反応を起こしてるのかな? だとしたら……」
ローザはおもむろに木材の破片を手に持ち、アドニスのおでこにあてがった。
「ん〜、つかないな〜」
「いや、もしついたらどうすんだよ……」
「可愛いからいいじゃないですか」
アルネブの顔が引きつる。
「また謎が増えたけど、とりあえず上手くいったからいっか。どう? アドニスくん、嬉しい?」
「わからんがーー」
途中まで言いかけて、アドニスは目をパチパチさせる。目の前にある笑顔が、にわかに別の笑顔と重なったのだ。
『よかった! じゃあ、ほら、嬉しい時は笑顔!』
アネモネ。太陽のように眩しい笑顔。
アドニスはあの日のように口の端を上へ上へと伸ばす。
「ニコっ」
「お〜! アドニスくんが笑ってる!」
「確かに…… いや、笑ってるのか、これ?」
「ん〜」と、ローザがアドニスの顔に触れる。
「もっと、こう!」
口角は持ち上げられ、目尻はやや下に引き伸ばされる。
「さらに酷くなってんじゃえねか」と、可笑しそうなアルネブ。「じゃあ、こう!」とローザ。他人の顔を弄りながら、二人は何やら楽しそうにしている。
止めさせることもできた。しかし、アドニスはその光景を目に焼き付けように眺めていた。
「なあ、お前たちはなぜ俺にここまでする? これでは俺が脱走しやすくなる。それに、他にもやる事があるだろう」
ローザとアルネブが顔を見合わせる。
「まさか…… 暇なのか?」
「ひ、暇じゃねえ!」「めっちゃ暇!」
ほぼ同時に返ってくる、正反対の答え。辺りが妙に静かになる。
その静寂を破ったのは、ローザの「でもね」という声。
「私たちは、アドニスくんに喜んで欲しくてこれを作ったの。下心はないよ」
「友好関係の一貫か?」
「そんな堅苦しいものじゃなくて。私たちはもうーー」
ローザの口が形を変えていく。しかし、その声は荒々しい扉が開け放たれる音にかき消された。
「アルネブ隊長!」
慌てた様子で駆け込んで来たのはサラだ。
「実験の最中に申し訳ありません!」
「ちょうど休憩時間だ。で、どうした?」
「実は、先程王宮から通達が届いたのですが……」
ハッとしたように、サラはこちらを
「その、ここで話していい内容なのかどうか……」
「構わねえよ。坊主にも聞かせてやれ」
「はっ」と答えると、サラは持っていた二つ折りの紙を開いた。
「"現在行っている人型冥獣の検査を直ちに中断。明晩、当個体の引き渡しを行う。なお、当個体についてはエルピス総合上級研究所が引き継ぎ、処分する"、とのことです」
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