【滞在期間四日目:辛い記憶】

わざわいも三年経てば用に立つ】

 今は災いと思えるものでも、三年も時が経てば何かの役に立つ。あるいは、いつかは幸福の原因になるという意味。不用なものはないというたとえ。


 この日、娘が見せた弱さ、あるいは綻びこそが、旅に出ることを彼女に決断させた理由のひとつ。心はいまだ降りしきる雨の中。けれど、どんなに辛い記憶であっても、いずれ大切な思い出に変わる。



 Day4

 ──滞在期間四日目。


 何年経っても変わらないもの。すべては正しく、運命。


・‥…━━━☆・‥…━━━☆・‥…━━━☆


 柔らかく、粉のように白っぽい朝の日差しが、開いた玄関の隙間から入り込んでくる。

 遠くから聞こえる小鳥の囀り。早起きなカラスの鳴き声が断続的に響くなか、「じゃあ、いってきます」と告げた彼の声をそっと千花の耳が拾い上げる。


「いってらっしゃい。気をつけてね」


 手を振って秋葉を送り出し、そのあとも部屋に戻ることなく上半身を外部廊下の手すりから乗り出して、遠ざかっていく背中を千花はずっと見ていた。秋葉の姿が完全に見えなくなってから、ようやく部屋の中に入る。さてと、と腕まくりをして千花は思う。今日は掃除から始めようかな。

 お風呂を掃除して、トイレを掃除して、部屋の窓を開け放つ。私がいなくなったあとでも父親が快適に暮らせますようにと、部屋の隅々まで丁寧に掃除機をかけて雑巾がけをした。


 ──次は調味料とか生活用品を確認して、足りないものをリストアップしておこうかな。


 キッチンの抽斗ひきだしを上から順に開け、食器棚の中に目を通し、トイレや洗面所の周辺を探り、冷蔵庫の中身を見て思案に暮れる。不足している物のリストは、ノートの紙の上に幾つも並んだ。


「こりゃ、今日は大変だぞ……」


 愚痴を零しながらも、続いて洗濯の準備に入る。

 ポケットの中身を確認しながら洗濯物を放り込んでいく最中、秋葉の肌着を手にしたまま千花の動きが止まる。ちょっとだけ、顔を埋めてみたいという不埒な衝動にさいなまれていた。

 ……ダメだダメだ。なんてハレンチなんだろう私は。よこしまな考えを頭から追い払い、洗剤と一緒に洗濯機の中に放り込んで蓋を閉じる。余計な雑念をも、まとめて封じ込めるつもりで。

 人心地つくと、彼女はテーブルの脇に胡坐で座った。浮ついた気持ちを紛らわすため、テレビの電源を入れた。


 ──私は、少し無防備すぎるのかな。


 彼が昂る気持ちを抑えられずに、私を求めてきたらどうするの? と自問してみる。恐い……と感じるその裏で、それでも構わない、なんて思う自分が同時にいた。むしろ、触れて欲しい、とすら感じていることに愕然となる。

 親子とは言え、パパは二十五歳の青年だ。無理やり押し倒されたりしたら、私の力じゃとても抵抗できないだろう。その先の展開まで悶々と思い描いていくうちに、お腹と尾てい骨の真ん中辺りの空間に、疼きのような熱の塊が宿った。

 心が締め付けられるように苦しい。

 ベッドの上に倒れこんでうつぶせ寝になると、胸一杯に息を吸い込んでみる。身体の隅々まで秋葉パパの匂いが染み渡っていくようで、心地よい感覚が全身を駆け巡った。

 なんだか、抱きしめられているみたい。

 仰向けに体勢を変えて目を閉じると、彼の顔が自然と脳裏に浮かんできた。胸の辺りがむず痒い。重々しくもやるせない想いがのしかかっているようだ。お腹の奥深いところに存在している疼きは、先ほどよりも強く自己主張を始めた。疼きのある柔らかい場所へと、千花はそっと指先を這わせていく。段々と熱を帯び始めているそれは、衣服越しでも存在がはっきりわかるほど。

 もし、こんなふうにパパが──。

 ふう、と息を吐いて手のひらを両膝で挟むと、うつぶせ寝に体勢を戻した。陶酔感が次第に高まるなか、意識の痺れきるような感覚が頭の中で弾けた。


 ──あわわ、何をやっているんだろう、私は。


 背を丸めたまま深く息を吐き、自らの行為に強い背徳感はいとくかんを覚えて跳ね起きる。膝と太腿ふとももの周辺には、軽い脱力感が残ったままだ。

 不埒な妄想を抱いた自分が酷く穢れたものに思え、千花は頭を左右に振った。洗面所で顔を洗いしばし気持ちの整理をつけたあと、台所に足を向けた。

 熱を帯びている頬を擦り、ぼんやりと考える。今日のお昼は、インスタントラーメンで済ませよう。たとえインスタントであっても、卵を落とすとまろやかになってとても美味しいのだ。

 調理を済ませリビングに戻ると、正午から放送されているワイドショー番組を観ながら、卵を絡めた麺を啜る。もぐもぐ。ごくん。うーん、頬っぺたが落ちるほど美味い。


「……そうだ、今日の晩御飯はなんにしよう?」


 失念していたな、と思うと同時に、母親の大変さが今さらのように身に染みてわかる。「今日、何が食べたい?」とママに聞かれて、「別に、なんでも良いよー」と適当に答えた過去を思い出す。

 うーん。それじゃ困るんだよねー……昔の私。


 ──そういえば、パパの好きな料理ってなんだろう?


 あらためて確認したこともないので、まったく予測ができなかった。彼が買ってきた弁当のラインナップから推測すると、カレーとパスタはたぶん好きそうだが。

 散々悩んだ挙句、パスタにしようと決断する。料理が苦手というよりも、圧倒的に経験値キャリアの足りない彼女にとって、作れる料理の数なんて最初から高が知れているのだ。

 昨日とお揃いのデザインのブラウスを着て、臙脂色えんじいろのスカートを履くと合鍵を持ってアパートを出た。こうして見ると、と膝上スカートの裾をちょんと摘む。持ってきた服全部派手かも。なんだかギャルっぽい、と思うも後悔先に立たず。持ってきた服の数少ないしな、と千花は眉を潜めた。


 今日は買い物をする量が多い。コンビニでは力不足だろうと考えて、駅前にあるショッピングモールまで足をのばした。入口を入ったとたん目に飛び込んできたのは、平日であるにも関わらず多い人の波。なんだこれはと辟易する。

 主婦。

 人混み。

 主婦。

 人混み。

 あまりの人の多さに圧倒されて、ぐらりと足元が傾いた。怯む自分を叱咤して、人混みの中へと分け入っていく。

 最初に生活用品の買い出しを行った。父親は普段洗濯をしているのかと疑問になるほど洗剤の買い置きが少ないのだ。洗濯洗剤と柔軟剤と、食器用洗剤を籠に入れた。

 トイレットペーパーも欲しかったけれど、アパートまで持って帰るのは骨が折れそうだと今日のところは諦めておく。ティッシュペーパーだけは妙に在庫があったので、買う必要がない。

 指定ゴミ袋とボディーソープを籠に入れて、生鮮食品売り場に移る。パスタを数人前確保して、その次にインスタントのソースを探す。父親の好みがわからないが……たぶん自分と似通っているはず。

 なんの根拠もないけれど、きっとそうだろうとの予感があった。

 そのあとも次々と食材を籠にぶちこみ会計を済ませると、結構な支払い金額になる。


「こりゃあ、かかった分の費用をあとで請求しないと、割に合わないねえ」そんな不満を口にした。


 重い荷物を両手に提げて、鼻唄混じりで帰路に着く。視線を辺りの風景に巡らすと、街はクリスマスムード一色に染まっていた。

 洋品店や飲食店の軒先には、小さなツリーが置いてある。キラキラとした飾り付けと電飾が、幻想的な彩りを添えている。サンタクロースの着ぐるみで、チラシ広告を配る人の姿も見えた。

 そうか。今日は、十二月二十三日なんだ、と千花は思う。

 向こうの世界は七月だったから、完全に失念していた。

 パパは女の人と手を繋いだことがないと言っていた。その程度だったら、私がやってあげても良いかもね。

 この時代における私らは、歳も七つしか違っていない。周りの人達から見れば、十分恋人同士に見えるはず。でも……そうはいっても私たちは所詮親子だ。実の娘とデートだなんて、やっぱり喜んではくれないのだろうか。

 そこまで考えが至ると、ちょっとだけ拗ねた感情が顔を覗かせる。なんだかつまんない。


 そうこうしているうちに、高尾駅の前を通りかかる。駅前には、小さな人だかりができていた。

 なんだろう、と彼女は足を止め、周囲から聞こえてくる囁きに耳を傾けた。


『中央本線の下り線で、事故だってさ』

『マジで? 電車同士?』

『いや、わかんない。踏切内の事故みたいだから電車同士じゃなくて、車か人とじゃないかな』

『電車一時間遅れみたいだよ。弱ったな……路線バスに変更しないとヤバそうだ』


 その時、全身から何かが抜けていくような感覚に襲われて、千花は動きを止めた。動悸が激しくなり、胸の奥を強い痛みが駆け抜ける。特に手足の痺れが酷く、感覚も遠く、立っていることすらままならなくなる。

 電車。

 事故。

 電車。

 事故──

 脳内で反響を続ける二つの単語。周囲の喧騒すべてが不協和音となって、千花の耳を強く圧迫した。

 ふらふらと彼女は歩き始める。覚束ない足取りで駅の構内に入ると、買った荷物も抱えたままでトイレの個室にこもった。荷物を床に置き、便座に腰かけると両手で顔を覆う。

 そのままの体勢で、芳香剤の香りを胸一杯に吸い込み、そして吐き出す。幾度となく、深呼吸を繰り返した。だが、一向に体調が回復する気配はない。まともに歩けるようになるまでは、まだまだ時間がかかりそうだった。

 例の症状だ、と千花は思った。

 幼い頃から、時々襲われている症状。最近は、こんなに取り乱すことがなくなっていたので、もう大丈夫なんだと思い込んでいたが、どうやら勘違いだったらしい。久しぶりに電車事故の話を耳にしたので、忘れかけていた記憶が呼び起こされてしまったのだろうか。


 千花が歩けなくなってしまったのは、彼女の抱えている過去の記憶に纏わるトラウマが、主たる要因だった。

 彼女の六歳の誕生日。

 その日、石川県に向かっていた下り線急行列車が、対面してきた普通列車と正面衝突を起こす事故があった。運転士と乗員乗客を含め、十二名にも及ぶ犠牲者を出した凄惨な事故。

 当時のニュース映像。奇妙なほどの静寂が満ちた白い部屋。病院のベッドに横たわる親友の姿。様々な過去の記憶が、走馬灯みたいに鮮明に映像となって去来する。

 あ、これは不味いかもしれない、と思った時には遅かった。鳩尾みぞおちの辺りに酸味が湧きあがると、便座を抱え込んで嘔吐していた。

 胃の内容物をすべて吐き出して、千花は胡乱な瞳で顔を上げる。


 ──電車、事故……パパは大丈夫かな? 念のため、電話しなくちゃ……。


 違う。そんなはずはない。あの事故が起きるのは、もっと、ずっと、先の話。考えなくてもわかっているのに、身体の震えが収まらない。

 震える手で千花はスマートフォンを取り出すと、父親の番号に掛けてみた。

 何度も呼び出し音が聞こえてくる。けれど、電話の向こう側に応対する気配はない。「あれ、繋がらない、なんで?」焦る気持ちを抑えて電話を切ると、もう一度掛け直した。そのまま何度か、彼女は電話を掛け続けていた。



 ちょうどその頃。一日の業務を終え、デスクの抽斗ひきだしにしまい込んでいた携帯電話を取り出した秋葉は、画面を確認して顔をこわばらせた。

 携帯の画面に残されていたのは無数の着信履歴。それは、不測の事態に備え、時間旅行会社が利用客に貸し出しているというスマートフォンの番号であり、着信の主はもちろん千花だ。

 嫌な予感しかしなかった。秋葉は大急ぎで荷物を纏め、なかば小走りでオフィスを出た。出ると同時に、矢も盾もたまらず千花の番号に掛け直した。

 五回ほどコールが繰り返されたあと、電話口の向こうにいるであろう千花が応対した。


『……あ、パパ。無事だったんだ、良かった』

「それはこっちの台詞だ。どうした、何かあったのか?」


 長い沈黙を挟んだのち、千花が答えた。


『中央線で人身事故って噂を聞いたからさ、なんだか心配になっちゃって』

「ああ、なんだ。そういうことだったのか。俺なら今会社を出たところだから大丈夫だ。それでお前、どこにいるんだ?」

『えーと、高尾駅構内のベンチだよ。ごめんなさい……。取り乱したりして、逆に心配かけちゃったね。でも、もうだいぶ落ち着いてきたし、大丈夫だから。どのくらい大丈夫かと言うと――』


 いつも通り、たとえ話をしようとした彼女の言葉を遮った。


「わかった、詳しい事情はあとで訊く。今そっちに向かうから、その場所で待ってろ。絶対に駅のベンチから動くなよ」


 咳込みながら話す千花の様子に、どう考えても平気じゃない、と秋葉は判断した。

 千花は彼の言葉に頷いてから、電話じゃ伝わらないことに気付いて、「うん、わかった」と声に出した。


 それから約四十分ほど、千花は駅のベンチに項垂れるようにして座っていた。やがて、自分のほうに向かってくる足音に気が付いてゆっくりと顔を上げた。


「パパ……?」


 秋葉は膝を折って彼女と目線を合わせる。ひとめでわかるほど顔色は悪く、首筋には玉のような汗が幾つも浮かんでいる。思ったより悪そうだ、と額に手をあててみた。


「熱は無さそうだな。見た目ほど大事ではなさそうで安心したよ。まったく、何があったんだ。こんな場所で動けなくなるほど、憔悴してしまうなんて」


 思いのほか父親の顔が近く、千花の頬が瞬く間に火照る。逃げるように顔を背けた。


「買い物を終えて、駅前を通りかかった時に電車事故の話を耳にしてね。その直後に、時々起こす発作がきちゃったの。私、小さい頃から気管が少し弱いからね。でも、もう大丈夫だから――本当に大丈夫だから」


 大丈夫だと連呼し、薄く笑って見せるも、顔色はいまだ青ざめている。千花の様子と両手一杯の荷物とを交互に見て、歩いて帰るのは無理そうだと秋葉は判断した。


「千花。もうちょっとだけ待てる? 父さんが今、車を持ってくるから」

「パパ……車なんて持ってたんだ」

「ま、一応ね。週末くらいしか動かさないから、普段は月極め駐車場に放置してるけど」


 本当にここから動くなよ? と念押しで告げてから歩き出す。駅の外を目指しながら、秋葉は考えていた。

 そういえば、「父さん」なんて言ったの、初めてだったな、と。決して間違いではないはずなのに、妙に気恥ずかしい。



 アパートに着いてすぐ、秋葉は風呂の準備を始める。お湯が十分に温かくなったのを確認してから、千花に入ってくるよう促した。

 寒い駅の中に何時間も佇んでいたせいだろう。彼女の身体に触れた瞬間、芯まで冷え切っているのがわかった。しっかりと温まってくるようにと、念を押しておく。この時ばかりは、彼女もしおらしい態度で応じた。


 ――案外と、素直で可愛いところもあるじゃないか。


 着替えを準備しないとダメだと気が付き、彼女の荷物を探ってみる。たとえ娘の物とはいえ、女子高生の下着に触れるのは抵抗があった。あまりデザインが派手じゃない物を選んで、脱衣室に置いておく。

 彼女が買ってきた荷物をざっと見渡して、今日の晩御飯はパスタにする予定だったことを察した。自分で調理するしかないなと考え、お湯を鍋に入れて火にかける。

 料理は決して得意ではないが、その中でパスタは、比較的「なんとかなる」部類だった。


「ごめんなさい。全部パパにやらせちゃったね」


 彼女は風呂から上がってくると、テーブルに並んだ夕食を見ながら、決まりの悪い顔で呟いた。


「お前は娘なんだから、辛いときくらい親に頼りなさい」


「はい。今後、気を付けます」タオルで頭を拭きながら、千花はテーブルの脇に、膝を折って座る。

『いただきます』と二人の声が揃った。


「病院から、薬かなにかをもらって、飲んでいるのか?」


 秋葉は気後れするように千花に訊ねた。言葉は多少不足していたが、発作のことなんだろうと千花は得心する。


「ううん、飲んでいないよ。ごめんなさい、気管が弱いっていう話は嘘で、本当は、精神的な問題なんだ」

「精神的な問題だって?」

「そう。電車とか車の事故、という単語に私は弱くてね。そういう話を聞いたり事故現場に遭遇したりすると、発作を起こすことがあるの」

「何か、トラウマになっている出来事でもあるのか?」

「うん――小学校六年生の頃の話なんだけどね」

「ああ」

「夏休みを利用して、親友が海外旅行に行くことになったんだよ。空港に向かうため、彼女と、彼女の両親が乗っていた電車が脱線事故を起こしてね。先頭車両に乗っていた親友は、数ヶ月入院するほどの重症を負ってしまった」


 千花の声は、いつもより沈んで聞こえた。顔色は良くなってるのに浮かない声音に、得体の知れぬ違和感を覚えるが、その正体は判然としない。だが、彼女が言ってることに嘘はなさそうだ、と秋葉は思う。ただし、すべてを語っているわけでもなさそうだ、とも。


「それからかな。電車事故のニュースや話を聞くと、ちょいとばかりナイーブになってしまうのです」

「その気持ちはよくわかる。身近な人の不幸は、なかなか忘れられないものだしな。お前も、色々と大変なんだな」


 余計な詮索は控え、それとなく励ましたつもりだった。しかし、梅雨空のごとく一向に晴れない千花の顔に、秋葉の気持ちも引っ張られたみたいに沈んでくる。


「よくなってきたと、思っていたんだけどな」


 漂い始めた沈黙を破ったのは、湿っぽい空気を払拭するさらりとした千花の声だ。


「ねえ、パパ」

「ん? どうした」

「それはそうと、明日は土曜日なんだから会社休みでしょ?」

「ああ……確かにそうだけど。なんだ、どこか行きたい場所でもあるのか?」


 むしろ、そういった可能性を考慮していない自分の至らなさに秋葉は辟易した。千花は、毎日家で家事全般をやってくれているのにと。


「せっかくのクリスマスなんだしさ、デートしようよ」


 しかし、続いた言葉が想定の斜め上だったことに、秋葉は盛大にふき出した。


「いやいや、お前なあ。自分で何を言っているのか、わかっているのか? 俺たちは、親子なんだろ?」


 言いながら彼は自嘲した。すっかり懐柔され、彼女が娘である事実を疑ってすらいない自分に。だが同時に、こうも思った。

 掃除、洗濯をこなした上に、必要品の買出しを自腹でしてくれる詐欺師なら、娘の名を語らせておくのも悪くない。


「別に良いじゃない。親子でデートをしてはいけない、そんな法律はないよ。それとも、他に約束している人でもいるのかな? それだったら、私は引き下がるけど……」

「ははは。残念ながら、そんな相手はいない。クリスマスに実の娘とデートなんてなんとも複雑な気分だが、まあ、それも悪くない。明日は買い物にでも出かけて、気晴らしをしようか」


 実際のところ。せっかく旅行に来ている娘に対し、なんのもてなしもできていないことを、心のどこかで恥じていた。自分とのデートを娘が望むならば、それに応えるのは親の務めだろうとも考えていた。


「やった! じゃあちょっとだけ、お洒落しちゃおうかな?」と千花は、頬に喜色を湛えた。「パパは内心複雑かもしれないけれど、私は凄く嬉しいよ! どの位嬉しいかと言うと、ガリガリ君を食べ終わったあとに、当たりの刻印があると気付いたときくらいには嬉しいかな?」

「ガリガリ君って、お前の時代にもあるのかよ……」


 とんだロングセラー商品だ。秋葉は乾いた声で笑う。

 秋葉に釣られて笑ったあとで、千花は視線をカレンダーに移した。

 明日こそは頑張らなくちゃ。そんな小さな決意を胸に。

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