【書籍化】冴えない俺と、ミライから来たあの娘

木立 花音@書籍発売中

【旅立ちの日の記憶】

 紺碧の、これから一層寒さが厳しくなっていくであろう空は、吹く風も凍てついてしまうのではと感じさせるほど、澄み渡って見えた。

 私──葛見千花くずみちかは、この年代の空を見上げるまで、東京の空がこんなにも高くて蒼いことを、知らずに過ごしてきたのかもしれない。

 ともあれこれは、私が、若かりしころの父親を見た最後の日の記憶。

 卑屈で、不器用で、謙虚で。それでいて――優しい。

 辛くて、切なくて、悲しかったけれど。もう、二度と会うことはできないけれど。それでも私は、この場所に来たことを後悔していない。


『ありがとう、私のお父さん』

 

 十二月二十七日。二〇二〇年代の冬。


 この日、日が昇るより早い時間に私は目が覚めた。

 心地よい微睡みの領域にある意識を覚醒させるよう、大きく伸びをしてから窓の外に目を向けると、街はまだ、宵闇の中に沈んでいる。視界の先に見える光は、点々と並んでいる常夜灯の灯火と、薄く色づき始めた東の空の薄明のみだ。

 視線をいったん室内に戻すと、隣で寝息を立てている父親の姿が見えた。

 穏やかな寝顔だな、と思う。どうか彼が目覚めたとき、私のために涙を流しませんように。それでも、時々は私のことを思い出してくれますようにと、それだけを祈った。

 ……もしかしたら。

 もしかしたら父親は、私のことを恨むかもしれない。案外と彼は、義理堅いところがあるから。でも――ごめんね。私はあなたが思っているよりも、もっとずっと、弱い人間なのです。

 そのまましばらく、父親の寝顔を見つめていた。

 ダメだ。のんびりしている時間などない。そのことに気付いた私は、ゆっくりと布団から這い出していく。父親の眠りを妨げてはならないので、衣擦れの音すらも気にしながら。

 部屋の中は真っ暗だが、明かりを点けるわけにはいかない。暗闇に慣れてきた目を擦って洗面所に向かうと、冷水で顔を洗った。

 歯ブラシを咥えたままキッチンに戻ると、朝食の準備に取り掛かる。トーストをオーブンの中に入れて、生じた待ち時間で鏡の前に座った。

 髪の毛を軽くブラッシングしながら私は思う。後は実家に戻るだけなのだし、化粧はしなくてもいいだろうか。紅だけを薄く差すと、化粧道具をポーチの中に仕舞い、荷物が入った旅行鞄の中に押し込んだ。

 今日着て行く服は、昨晩のうちに選んでおいた。

 クリスマスの日に買って貰った、白いセーターとドット柄のミニスカート。私の父親は、こんな感じの可愛らしい服が好みらしい。

 脱いだパジャマは、綺麗に畳んで部屋の隅に置いておく。着替えを終えると、洗面所にある大きな鏡の前に立ってくるりとターンしてみた。スカートがひだにそって綺麗に舞った。


 良かった。ちゃんと似合っている。

 可愛いだろうか? ぎこちなく笑みを浮かべてみせる。

 でも……、見せてあげられなくてゴメンね。私、この服一生大切にするからね。

 調理が終わった朝食と、自分が存在していた証をテーブルの上に置いたあと、別れを惜しむように父親の顔をもう一度見下ろしてみる。

 立てている寝息は健やかで、表情には一点の曇りもない。

 それが、嬉しくもあり悲しくもある。

 これでもうお別れなんだ、と現実を脳が受け入れた瞬間、私の心に魔が差した。

 ベッドの傍らに膝を折ると、父親の顔にゆっくり唇を寄せていく。目が覚めちゃったらどうしよう。早鐘を打ち始めた左胸を手のひらでそっと隠して、触れるか……触れないか程度の軽いタッチで唇を重ねた。

 とたんに、切ない想いがぐっとこみ上げてくる。

 次第に息苦しさを感じ始めると、身体の芯が火照ったように熱くなった。

 どんどん加速していく鼓動。

 手足までが、小刻みに震え始める。

 ダメだよ。それは、自分の親に対して抱いてはイケない感情だ。


 抑えていた左胸をかきむしって昂る気持ちを宥めると、旅行鞄を抱えて立ち上がる。一週間の思い出が詰まった空間に後ろ髪を引かれながらも、音を立てないよう細心の注意を払い玄関から出た。

 預かっていた合鍵は、ポストから中に返却しておいた。

 チャリンと響いた物悲しい音が、旅の終わりを静かに告げた。

 薄暗いアパートの階段を足元に気を付けて下りると、駅の方角に向かって歩き始める。

 未練がましく、何度も……何度も……、私は後ろを振り返った。建物の姿が遠ざかるにつれて、視界がわずかに滲み始める。

 その時、東の空から太陽が顔を出してきた。

 放たれた光の粒子により、世界を支配していた闇は少しずつ晴れ、空の色が濃紺から鮮やかな青へと変化していく。暗闇のなかでは輪郭線しかわからなかった街の細部――窓枠や屋根の模様やかたちが、徐々に姿を現し始める。

 朝日はやがて、私の姿をも照らし出した。

 泣いている顔を覆い隠してくれるものは、もう、なにも無くなってしまった。止め処なく頬をつたう涙を拭いながら、一度だけ私は立ち止まる。

 本音を言うと、ちゃんと別れを伝えたかった。でも、顔を合わせてしまったら、もっとずっと辛くなってしまうと思うから。

 だから──何も言わずに出て行きます。親不孝な娘のことを、どうか許してください。


「さようなら」


 大好きだった私のお父さん。もう二度と、会うことも無いだろうけど、この旅行期間で秋葉さんあなたと過ごした日々のことを、私は決して忘れません。

 だからどうか、と私は思う。私のことも忘れないで、と。

 最後に私は、もう一度だけ振り返った。


「あと何年かで生まれてくる、小さな私のことも宜しくね」


 濡れた頬を手の甲で拭うと、前を見据えて歩き始める。もう二度と、振り返ることはなかった。



 十八歳の冬。私は温かくて、同時に切ない一週間を過ごした。

 結ばれないとわかっていたのに、それでもあなたに──恋をしたんだ。

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