子宮

1

　寝具の間に身体を滑り込ませリモコンで照明を落とすと、一瞬だけ静寂に支配されるが両の瞼の裏には残光が焼き付いていた。

　ベッドボードに画面を下に向けて置いたスマホの細い光を横目で捉える。

　闇の中で強調されたブルーライトが眼球に突き刺さり、朦朧とする意識を覚醒させた。

　私の指が忙しなくスマホの電源を探り、オフにして完全に光を消し去る。

　偽りの光は私から静かな夜を奪い、朝の訪れを遅らせるから。

　私は早く眠りたいのだ。

　だが視力が役割を失えば、今度は聴力が拡大する。

　右手の親指を口元に運び、噛もうとして爪が無い事に動揺する。

　自ずと口中に指を深く咥え込み、音を立ててしゃぶりながら肉に歯を立て痛みに溺れるしかない。

　石礫のように雨がシャッターを叩く。

　陰鬱な雨垂れの音。

　夜と雨とのデュオは、ひたすら不気味で不安を煽るばかりで大概の人には歓迎されないだろう。

　だが、今の私は雨でも風でも構わないから、もっと激しく騒々しく鳴って欲しいと願った。

　そうすれば忌まわしい音を消してくれるから。

　心の中で叫んだ。

　キィ

　部屋のドアの蝶番が軋み、ゆっくりと開く。

　その瞬間、私の耳から風雨で揺れるシャッターの音も肉を抉られた指の痛みも消えた。

　全ての神経が夜半の侵入者に向けられる。

　絨毯に沈む足音。

　身体中の毛穴から汗が滲み出る。

　何度繰り返されても慣れる事が無い。

　悪夢としか言い様のない悪夢には。

　ベッドの上で息を潜め、恐怖に縛られ身を固くする私を大きな影が包んだ。

　スプリングが軋む。

　項に迫る荒い息遣い。

　パジャマの下に入れられた手が汗の上を滑り、私の乳房を掴んだ。

　───

　黒い仏壇の香炉に立てた線香の白煙が、不可思議な模様を描きながら宙に溶け込んでいく。

　苦手という人もいるが線香の匂いが私は嫌いでは無かった。

　人工的な安っぽいフレグランスよりも脳内に染み、穢れを浄化してくれると感じるからだ。

　通信系の会社の同僚として知り合った主人を癌で失くして五年が経つ。

　一人息子の勇一は３ヶ月後には高校生になろうという年齢になっていた。

　家族を失ってからの時の流れとは残酷なまでに早いものだ。

　一家の大黒柱である夫を失い、後ろを振り返っている余裕など無かったからかもしれない。

　41歳で老いを止めた夫の遺影に手を合わせる。

　写真の中で朗らかに笑う夫を若いと感じるのは、私が夫の年齢を既に越してしまったからだろう。

　リビングにあるテレビ台の下に仕舞われて二年間、開く事の無かったアルバムの表紙には微かに埃が付着していた。

　勇一誕生時から小学校低学年の頃までの写真が特に充実している。

　遊園地やキャンプ場での家族写真。

　沢山の写真を撮ったものだと、ゆっくりページを捲る。

　楽しかった過去を追憶出来るのが写真の良さだが、現在悲しみに溺れる者を更なる悲哀に突き落とすアイテムでもある。

「あの頃は良かった」

　自宅にあるカメラは勇一の中学校の入学式以降使用される事無く仕舞われている。

　夫と息子の笑顔を焼き付けた写真に私の心は沈み涙が溢れ、アルバムを濡らした。

　頬に垂れた涙とフィルター上に落ちた雫を指で拭う。

　夫が逝ったのが勇一が手の掛かる幼児期で無かったのは幸いだったのかもしれない。

　ただ、思春期を迎えようとする勇一の成長に夫の死が影響しなかったかと言えばそれはない。

　家計を一人で支えなければならなくなった私と勇一との会話は減り、特に中学に入ると成長に伴い寡黙になる彼の心情を理解するのは難しくなっていった。

　私の身長を既に追い越し、少年から男の顔つきに変わりつつあるとはいえ、まだまだ子供だ。

　私が今いなくなったら彼はどうなるのだろう。

　起き上がれないような病気になってしまったら。

　夫と同じく死ぬ事にでもなったら。

　そんな不安が兆す時がある。

　陽が傾き闇の比重が増えると私の心も同時に鬱として、悪夢に捕らわれてしまうのだ。

　その闇には勇一の将来も含まれていた。

　息子に対して笑顔を作るのが徐々に辛くなってきた。

　それは勇一が中学三年生になる前から続いていた。

　誰にも相談も出来ず心療内科に通い睡眠薬を処方して貰っているが、悪夢が部屋をノックすると緊張感で神経が張り詰めてしまう。

　医者に打ち明けても、睡眠不足による幻覚、ストレス、心に潜む過去のトラウマが要因の可能性ありと診断を下された。

　心身が磨耗していた。

　不安を解消する為の答えを求め、アルバムを開いたのかもしれない。

　勇一誕生時、顔を真っ赤にして泣く我が子を抱く夫の写真をソッと撫でた。

　平日の午後、買い物から帰ると私は夕飯の支度を始めた。

　まな板の上で油揚げとネギを刻む。

「勇一、夕飯出来たわよ」

　二階の部屋の外から明るい声を装い呼び掛けるが返事は無い。

　ゲームなのかYouTubeなのか、中から音が洩れてくるのでいる事はいるのだろう。

　仕方なく焼き魚や味噌汁をトレーに載せ、声を掛けてから、足音を忍ばせ部屋の外に置く。

　勇一の顔立ちと身長の高さは主人譲りだ。

　暫く碌に顔を合わせていないが。

　一人きりで食事を終え、足音を潜めて階段を上がり勇一の部屋の前を窺うと、皿やコップの中身は綺麗に平らげられていた。

　ほっと息を吐く。

　思春期の男子の考えてる事は本当に分かり辛い。

　中学入学を境に人間関係や学習面での複雑な悩みを抱え、瞳から光が消え内に籠るようになった。

　イジメもあったようだ。

　そうした事に向き合う余裕を持てなかった事には後悔しかない。

　脳の中で憂鬱な記憶を閉じ込める為の器が膨れ歪んでいく。

　中に詰め込んだものは腐臭を放ち溢れ、体内の血まで濁らせる。

　頭痛を堪えながら食器を洗い、テレビを付けてソファに身を沈めた。

　テレビの音量を上げるが画面に集中出来ない。

　子宮。

　子宮はきっと柔らかく、このソファよりも弾力があり、ベッドの中よりも温かいのだろう。

　胎児は子宮の壁に守られ、羊水を揺り篭として夢を見られるのに。

　母たる今、胎児の時の記憶があったなら。

　もう一度子宮に戻れたなら。