第86話鶴と化物
職場の有給休暇を取得して息子、娘の授業参観に来ている保護者は少数だがいた。もしかすれば郷愁を感じる目的で参加しているかもしれない。
3時限目の生物を担当する教諭は、学年で高嶺の花と持て囃されていた。保護者の目があるせいか、珍しくベージュのセーター、黒いタイトスカートを着用している。
生徒より目立った格好をしている彼女は、仕切りに保護者の2人を一瞥し優越感に浸っていた。
今回の授業内容は、
黄色の
頭部の赤で辛うじて鶴と判別出来る。教材に載っていない鳥がどの分類に該当するかという質問を教諭から投げ掛けられた。
多くの生徒は、鶴の生態を詳しく義務教育で学んだ記憶すら怪しい状態だ。燕が田畑に生息する虫を好む事だけ理解していた。
教室の人気者の二田部慧沙が指名され、燕と同じく虫を食べるためと言った所で言葉を詰まらせる。
ミミズなどの土の中で生息する虫と、ライオンが捕食するシマウマを同系列に扱って良いか悩んだ。
「虫を食べるから肉食動物か? 確かに雀や燕は雛に虫を食べさせているイメージがあるな。不正解」
教諭の言葉に教室中が騒めく。縁起物で有名な鶴は、馬や牛と同じく草を食べる姿がどうも合わない。
適当な生徒を当てようにも答えられそうな期待がない為、教諭は1人の男子生徒を見る。
「これやると自慢のようになってしまうが仕方無い。次は私の大事なチー坊」
鶴飛千景が職業上、不健全な関係性を示唆してしまったため、知努は恥ずかしさのあまり答えられない。
千景と彼が男女の関係性に近い事はピアノの演奏を披露した際、露見してしまった。周りの反応も
鶴飛の女性から辱められてばかりいる彼は、覚悟を決めて答えた。
「鶴は雑食動物です。タンチョウの場合、昆虫、ドジョウ、タニシ、アオジの雛、フキの芽、ハコベの葉などを食べます」
頬を赤らめていた彼が言い終えると、満足そうな表情で千景は保護者の方へ向いている。
授業参観に参加している白いガーディガンを羽織っていた三中涼鈴は、わざと目線を合わせない。
目の焦点が合っていない馬と白い猫の絵を貼っていき、彼女は生徒達に質問する。先程と違い、教科書さえ見れば分かる為、彼女から指名された生徒は答えられた。
「馬は食べた歯を擂り潰す為の臼歯しか無い。カナコじゃなくて、猫は肉を切り裂く為の犬歯が発達している」
道端で息絶えているような猫の絵を、京希が可愛がっていた猫と言い張る。些細な冗談は彼に不快感を感じさせた。
誰も心底猫を馬鹿にしたような絵に憤らず、ただ笑っている。少しずつ彼の意識が霞んできた。
新たに彼女が黒板へ貼った絵は、先程見た写真と同じ姿の知努だ。すぐ後ろから涼鈴が珍しく低い声を出した。
「千景、今すぐ、その絵を片付けなさい。あの子が暴れるよ」
絵を見た途端に治まっていた彼の頭痛が再発し、現実と架空の境界線は無くなってしまう。
そこに存在していた彼は誰からも必要とされず、延々と続く孤独の中で生きている。静かに千景を見ていた。
ふざけている男子生徒がオカマ野郎だから草食動物と答えたりして、周りの人間達は知努を嘲笑う。
「チー坊はオカマ野郎だけど、しっかりやる時はやる奴なんだぞ。なぁ、チー坊?」
精巧に作られた人形のような顔の彼は、周りの人間へ彼女の汚点を晒し始める。明確な敵意が向けられていた。
「鶴飛千景は私と同じ。誰からも望まれていないのに、受精したせいで産み落とされた欠陥品。自分が支配出来る子供を殴ったり、蹴ったりして楽しかった?」
「よく髪を引っ張りながら浴槽へ私の顔を入れた後、言っていたわ。両親に愛されているお前が憎い、死ねばいいのにって。大っ嫌いだから子宮を引き摺り出してあげる」
母親の言う事を聞くような人間で無い事は理解しているため、涼鈴が見守っていた。幸い、ノートやシャープペンシルを投げつけるとも考えにくい。
罪悪感に苛まれた千景は泣き崩れてしまい、教室は静まり返る。そんな中、常盤が拍手した。
彼の注意を向けさせてから彼が最も辛いと感じた出来事を話題に出す。賭け同然の選択だ。
「そんな事をされたら憎いな。だが、
「貴方が誰か知らないけど、私の中から消えた感情と、事実を天秤に掛ける事は出来ないわよ?」
鼻を鳴らしながら彼が反対側へ向いてしまう。どうやらその出来事は触れられたくないようだ。
「それと先生、この面倒臭い三中家の馬鹿化物は雑食動物です」
ゆっくりと立ち上がった千景がか細い声で正解と答える。ようやく涼鈴の忠告を理解した。
授業終了の予鈴が鳴り、逃げるように千景は教室から出て行く。不発弾に近い知努が教室の中央へ未だ存在していた。
行動原理が破壊しか備わっていない彼の元へ慧沙は近づく。他の人間と違い、全く驚いていなかった。
「知努ちゃんは髪が長くても短くても僕の大事な親友だよ」
言動で彼が髪を伸ばしていた頃の別人格だと見抜く。表へ出られると厄介なため、周囲の人間は出さないように気を付けている。
過去の精神的に負荷がかかった出来事の影響で解離性同一性障害を起こしていた。
人格が入れ替わっている間の記憶は、当然のように平常時の人格へ引き継がれない。そのため、記憶の欠落が起きる。
精神面は10年間、全く成長していない。仮に成長したところで到底、集団社会に馴染む能力が付かない。
「私は慧沙の親友になった覚え無いわ。変態スカート捲り、こっち来ないで」
「取り合えずお口を閉じよう。黙っていたら誰も虐めて来ないよ」
幼少期の恥ずべき行為をこれ以上周りへ広められたくない慧沙は、強引に会話を終わらせた。
彼が知努の頭を撫でると手首を軽く曲げた拳で何度も叩かれる。どこと無く猫のような仕草だ。
事の元凶である染子が教室に訪れ、具合の心配をした。しかし、今の彼は振り向き、右手を前後に動かし、拒絶する。
「可愛いだけのお人形なんて退屈だから、向こう行って」
取り付く島も無い態度に対し、アパアパの誘拐を示唆して、彼女が近くを通り掛った常盤の背後へ近付き、後頭部を叩く。そこから休憩時間終了間近まで、互いの短所を指摘し合う。
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