第18話 瞳の宝石①

 ロロが敬語を、時折違和感を伴うものの、何とか流暢に使うことが出来るようになるまで、半年。帝国式の礼をはじめとする最低限の礼儀作法や所作を覚えるまで、もう半年。

 一年経つ頃、ロロはやっと、ミレニアのフォローなく、一人で皇城を歩く許可を得た。――不意に上流貴族の誰かと鉢合わせても、一人で乗り切ることが出来る、と判断されたためである。

 許可が出ると、ロロは積極的に皇城を歩き回るようになった。

 それまでは、休憩もずっとミレニアと一緒にいてばかりだったので、ほんの少し寂しくて、しかしそれを素直に口にするのも恥ずかしく、「私と一緒に居たくないのかしら?」と憎たらしい皮肉を口にしてしまったのは、我ながらなかなかに子供っぽかったと思う。もう十一になる歳だと言うのに。

「……まさか。そんなはずはありません」

「でも、お前はいつも、すぐにどこかに行くわ」

 すぅっと視線がいつもの方向へと動く。その仕草も、見慣れてしまった。

「…………いざというときのために、城の造りをきちんと把握しておきたいのです」

「?」

「外敵が侵入するとしたらどこから来るのか。その侵入を察知するにはどうしたらよいか。戦いになったとしたら、どこで迎え撃つことが出来るのか」

「!」

「火の手が出るような場所はどこか。人の手で火を放つならどこか。煙はどこを伝ってどう回るか。――俺が火を放つとしたら、どこにどう放てば、効率よく敵を煙に巻けるのか」

 ミレニアが、驚いたように息を飲む。

「……何かが起きてからでは遅い。この一年、一人で行動出来なかったから、一般的な導線しか理解が出来ていない。……俺は、いざというときに、後悔したくないのです」

 ごくり、とミレニアは唾をのみ、頷いて許可を与えた。ロロは、普段あまり動かない表情筋をふっと安堵に微かに緩ませて、きちんと覚えた帝国式の礼を取る。

「お前が時間を惜しんで紅玉宮を歩き回る理由はわかったわ。そのうち、他の建物にも足を運ぶのでしょう」

「はい。そのつもりです。――姫が、足を運ぶ可能性がある場所は、しらみつぶしに」

「そう。お前の性格を考えれば、それ自体を止めはしないけれど――でも、先ほどのようなことは、決して私以外の人間の前では口にしてはいけないわ」

「?」

「自分が火を放つとしたら――などと。お前を快く思わない者は、皇城にたくさんいるもの。……お前にそんなつもりはないとわかっているけれど、どのように取られるかわからない迂闊な発言は控えなさい」

「……わかりました」

「よろしい。――少し、不服そうね?」

 寡黙な青年と、一年のほとんどを一緒に過ごしたせいか、ミレニアはほんの少しの彼の呼吸や表情で、ロロの気持ちを的確に汲むことが出来るようになっていた。水を向けると、案の定すぅっと視線が左下へと移動する。

「……火を」

「?」

「……火を放つなら――俺が、悪意を持って、この城を焼こうと思うなら、効率の良さなど考えません」

「え?」

「――――敷地ごと、全部、一瞬で炎に飲み込んだ方が早い」

「!?」

「その方が、誰も逃げられない。俺以外全員焼き尽くす。……確実だ」

「お、お前……」

「……俺が、効率の良さなんかを考えている時点で、俺に、害意はないことの証です。単純に、姫を守るために、姫の安全を確保しながら逃走経路を探っているだけに過ぎません。――敷地ごと炎に飲み込めば、術師である俺以外全て焼き尽くすことになる。――姫も、焼き尽くしてしまう。そんなことは、絶対にしない」

「――……お前の規格外の魔法の能力はとても良く分かったけれど、やはりそれは他者には理解しがたいものだから、今の言葉は胸に秘めておきなさい。命令よ」

「……姫が、そう言うならば」

 驚愕のあまり少し呆れて伝えると、今度は素直に頷く。それを見て、ほっとミレニアは安堵のため息を吐いた。

(国家最強の武人――なんて、言っていたけれど。ロロの本当の恐ろしさは、剣技よりも、規格外すぎる魔力の大きさよね……)

 ロロが一人で出歩くには危なっかしいと判断していたこの一年、会話を交わす機会だけはたくさんあったので、ミレニアはロロの過去の話をたくさん聞いた。

 それは、吐き気を催すほどに胸糞が悪くなるような話が殆どだったが――ロロが冷遇されてきた要因の一つが、その規格外の魔力であることは、経歴を聞けばすぐにわかった。

 魔力の制御方法がわからない幼少期は、感情と共に魔力を暴走させることがある。それによって、子供は己の魔法属性を知ることもあるので、それ自体は珍しいことではない。

 ロロもまた、幼いころから、その魔力暴走を何度も引き起こしたという。過酷な労働環境を強いられる労働奴隷だった時代は、特にそれが酷く、瞳の色が不気味だと言っては虐待され、命の危機を感じては魔力を暴走させたそうだ。

 だが――普通、魔力暴走というのは、自分が扱う属性にほんの少し干渉する、という程度でしかない。

 火属性であれば、部屋の蝋燭が瞬間的に苛烈に燃えたり、暖炉の火がバチンと爆ぜたりする程度だ。故に、石造りの火の気が一つもない部屋で魔力を暴走させたとしても、何も起こりはしない。

 だが――ロロの場合は、違った。

 ロロが、感情と共に魔力を無制限に解き放つと――そのまま、何もない空間に、自分を中心として炎がロロを取り巻くようにして顕現するらしい。

 そのせいで、雇い主を大やけどさせたり、勤め先の屋敷を全焼させてしまったり、といった出来事が絶えなかったと聞く。

 故に、労働奴隷として過ごしたのはほんの少しの期間だけで、すぐに剣闘奴隷としての焼き印を入れられて、闘技場に立つ毎日になったというのだ。

(どんな文献を読んでも、そこまでの魔力量を有した魔法使いは、今まで聞いたことないわ。それも、独学でここまで……間違いなく、歴代最強の炎の魔法使いでしょうね)

 彼が、枷をつけたまま闘技場に立つことが多かった、というのを初めて聞いたときは、ハンデにしても大きすぎるのでは、と思ったが、違った。――枷は、彼の動きを阻害するためのものではなかったのだ。

 すべては、枷の内側の魔封石で、どんな剣技も無に帰す圧倒的な炎の魔法を封じ込めるため――いざとなれば、闘技場ごと紅蓮の炎に包み込むことが出来るロロにとって、枷さえなければ誰が相手であっても決して負けることがないというのは、何の特別でもない、当然の結果だっただろう。そう考えれば、枷をつけたまま試合に出されていたのも、決して大げさではないハンデだ。――さすがに、その状態で七人を相手にするのはおかしいとは思うが。

「お前の考えはわかったわ。……そうして歩き回って、今まで、貴族や皇族の誰かとすれ違ったことはないかしら?」

「……貴族とは、何度か。――皇族とは、鉢合わせしないように細心の注意を払いました」

「そう。それがいいわ。……苦労を掛けるわね」

 ふ、と翡翠の瞳が大人びた光を宿して苦く眇められる。貴族とすれ違ったというその時に、どういうやり取りがされたのか、何も言われずとも想像がついたからだろう。

 それを見て、ぎゅっ……と微かに、ロロの眉根が寄った。

「……姫が、気にすることではありません。苦労などと――思ったこともない」

「……そう」

「俺は姫の傍にいられさえすればいい。他には何もいらない。――本当に、何も」

 真摯な声は、どこか切なく響いた。ミレニアは苦笑する。

「そう頑なに言わないで、お前ももう少し周囲に目を向けなさい。確かに、お前につらく当たる者が大半ではあるけれど――きっと、お前を認めて、接してくれる者もいるはずだわ。お前を積極的に排除するわけではない者ならば、お前も頑なな態度を取らなくても良いでしょう」

「…………」

「少なくとも、もうこの紅玉宮では、お前を見て顔を顰める者はいない。――そうでしょう?」

 ミレニアの言葉に、ロロは無言で瞳を伏せた。

 否定はしない――だが、慣れ合うつもりもない、ということだろうか。

(まぁ、確かに、まだ他の者とはぎこちない空気ではあるけれど……)

 ミレニア付きの侍女も、護衛も、これだけロロがミレニアの傍にいれば、否が応でも彼と接することになる。同じ空気を吸い、同じ時間を共有する。

 最初は、ミレニア付きの侍女のほとんどは、上流貴族の家の娘が行儀見習いを兼ねていた。当然、若い未婚の令嬢が大半だったため、それはそれは苦労した。ミレニアの前でも露骨にロロを見ては顔を顰め、同じ空気を吸うことすら苦痛であるという様子を隠さなかった。

 ロロは、己の身分をこれ以上なく正しく理解している上、もとより寡黙な男だ。彼が彼女らと言葉を交わすことなどなく、なるべく離れた場所に控え、視界に入らぬようにと努力していたが、侍女たちの露骨な空気は、紅玉宮の雰囲気を、ロロが来るまでの和やかな空気から一転、ギスギスした物へと変えていた。

 奴隷は野蛮で乱暴で、枷がなければ何をされるかわからない、という貴族令嬢らしい考えで育っているのだろう。彼女らの頭の中では、この世において、奴隷紋をその身に入れた者は、全て等しく"口を利く道具"として迫害する対象でしかない。奴隷紋が誰の目にも真っ先に触れる左頬に入っているロロは、ことさらにそれを強く印象付けた。良家の令嬢たる若い娘が、身の危険を感じるのも仕方がないと言えばそれまでだった。

 ミレニアは必死に心を砕き、何度も言葉を重ねたが、どうしても行儀見習いのうら若い令嬢たちの理解を得ることは難しく――最後は諦め、全て他の皇女や皇族に口利きをして、紅玉宮以外の場所での従事へと切り替えさせた。

 結局、ロロと同じ空気を吸うことを、快くとまではいかずとも、何とか理解を示してくれたのは、彼の護衛としての圧倒的な武の実力を認めざるを得ない既存の護衛兵たちと、労働奴隷を雇うこともあり奴隷と共に暮らすことに理解のある中流貴族の、ある程度年齢を重ねた既婚女性だけだった。

 まだ幼い皇女の侍女――それも、現皇帝の寵愛を一身に受けるという姫の侍女という、将来一族の覚えが良くなること請け合いの身分――としては、異例中の異例だ。通常、侯爵家か、大伯爵家の令嬢しか任されないその地位に、中流の伯爵夫人や子爵夫人クラスが就いたのだ。貴族社会のパワーバランスが崩れるのでは、と当時、それはそれは社交界をにぎわせたが、ミレニアは周囲の苦言を無視して強行した。

 ミレニアにとっては、周囲に苦言を呈されることなどよりも、ロロが”奴隷”として日常的に迫害を受ける環境をそのままにしておくことの方が耐えられなかったのだ。――ロロ本人が、酷い扱いをする令嬢たちに異を唱える気など微塵もなく、差別も迫害も全て静かに受け入れてしまうことの方が、何十倍も、耐えられなかった。

 そうして中流以下の貴族の夫人らを招いた結果、最初は軽く眉をひそめられる程度の反応はあったものの、精神的にも成熟した彼女らは、令嬢たちほど露骨な嫌悪感を顔には出さなかったし、奴隷についての理解も一定あったため、ロロから積極的に関わってこないならば、と彼の存在を許容して見せた。――子爵や中伯爵、といった身分で、皇女の世話を任されるということがどういうことか、を正しく理解していたためもあるだろう。ミレニアの不興を買えば、簡単にお家が取り潰される。

「私も、十五になれば、デビュタントを迎え、どこかの貴族に嫁ぐことになるのよ。あと、たった四年だわ。――嫁ぎ先には、お前も連れて行くつもりなのだから、もう少し、私の身近な者との交流の仕方を学んでおきなさい。今の理解ある紅玉宮の者たちとうまくやれないようならば、輿入れ先ではもっと難しいでしょう。今から頭が痛いわ」

「……姫の邪魔になるようなら、俺は――」

「聞こえないわ。お前の自己犠牲の精神から来る勝手な行いを、許すつもりなどないと何度言ったらわかるの?」

「…………」

 ぴしゃり、と言葉を遮られてしまい、ロロはすぃっと視線を落とした。

 ミレニアは、わかりやすく小さく嘆息する。

 自己肯定感が低いどころか、完全にマイナスに振り切れているロロは、ミレニアの障害になるようであればあっさりとその身を引く。――物理的に身を引こうと、己で己の命を絶つことくらい、簡単にしてしまうだろう。むしろ、それを至上の喜びとしてしまいかねない献身度合いなのだ。

「何度でも言うわ。――お前は、私の傍で、ずっと、ずっと、私を守るの。生涯、ずっと――私が老婆になって命を散らすその時まで、ずっとよ。……それまで、お前の勝手で私の傍を離れることなど許さないわ」

 ミレニアはロロの頬に両手を添えて、しっかりと瞳を覗き込みながら告げる。

 そう――何度でも、告げよう。

 彼が、自分で自分を肯定できるようになる、その日まで――

 皇女ミレニアは、誰よりもこの男を必要とし、誰よりも手放せない大切な存在と思っているのだと――何度でも、何度でも。

 何年、何十年――彼が鼓動を刻み続ける限り、その最期の最期の瞬間まで、ずっと――

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