第32話 噤む 前編
自慢の娘だ。
男はそう思っていた。
妻は惜しみない愛情を子供たちに注いでいる。真っ直ぐ育ったのは妻のおかげだと思う。
自分がもっと育児に協力的だったらと妻は言うが、自分が関わればこんなにいい子に育たなかったのではないかと思うくらい自分は歪んでいた。
自分の両親も兄弟もどこか歪んでいて、何かが欠けていた。
周囲がそうだったためか、自分が少し違うとは思っていなかった。
子供が生まれるまでは。
常に勉強ができる子がいい子であると教えられた子供は大人になっても優秀であれと自分を鼓舞し続けた。その為、仕事が出来、出世することが素晴らしいと考えてひたすらその事を考え続けていた。
家庭を顧みることがなかった男は、妻は夫である自分を支え、子供をしっかり育てるのが当然だと思っていた。
娘が泣いている。
自分はどうすることも出来なかった。なんとかしなければと思ったが身動きができない自分を恨めしく思った。
男はよく分からないのだ。娘が泣いていることの理由も、慰め方も。
ずっと子育てを妻に任せっきりだった為、自分はどう接していいのか分からなかった。
救急車で運ばれたと職場に連絡が来て、急いで駆けつけると病院のベッドに横たわる娘がいた。
情緒不安定で取り乱していたので、先程医者が睡眠薬で眠らせた。この先、どう接したらいいのか男も分からずつい病室を出て来てしまった。
通路を歩いていると、椅子や自販機があるスペースが目についた。
自販機でコーヒーを買って、椅子に座りコーヒーを飲む。
携帯の電源をつけると着信が十八件入っていた。一つを除いて全部同じ番号で職場からだった。同じく職場からメールも十件入っていた。
男はメールを読みそれぞれに返信をして指示を出していく。留守電が一件残されていた、そのメッセージを聞く。
どうしたのかと聞いてくる内容だった。それは自分が聞きたい。
今まで子供達の何を見て来たのかと。世間では無責任だと言われるかもしれないが、世間一般より明らかに良い生活が出来ているのは誰のおかげかと。子供達のことは任せていたはずだ。それなのに娘は今、病院のベッドで眠っている。どうしたらいいのか、男は何度目かの問いかけを自分にした。
娘のことを考えても自分には何かが欠けていたので分からなかった。その為、男は考えることを放棄した。
気がついたときには全て失っていた。
妻も娘もあんなに必死にしがみついていた仕事さえも。
あれほど優秀であれと自分を奮い立たせて手に入れた地位は家庭を失った者にはなんの意味も持たなかった。
妻と娘がいなくなった意味をひたすら考えた。今度は止めなかった。
娘はどんな生活をしていたのか、何を見て何を感じていたのか。妻は毎日どう子供に接していたのか。調べれば調べるほど、自分のあの時の行動は間違っていたのだと後悔した。
娘はただ、大丈夫だと言って欲しかっただけなのかもしれないと。そんなことも分からなかった自分を恥じた。
妻に、娘に何か出来ることはないかと考え続けても答えは出なかった。
男は一人で考え続ける日々を過ごしていた。一人で暮らすことに慣れた今、家庭で食事をした記憶がないことに気がついた。
洗濯や掃除を一人でこなすことにも慣れ、妻の大変さに気づく。
そんな日常に現れたのは不思議な縁だと思った。男は判断を委ねられたのだと、どうするのか自分で決める。
今度こそ間違えない。娘のためというより自分のためでもあった。もう忘れかけていた感覚が蘇って来た。
あの日、泣いていた娘を救うため男は動き出した。それは言い訳だと自分自身分かっていたが、救われたかった、その為に行動した。
それなのにあの女は自殺したとニュースでやっていた。男は動揺した、自分は何をしたかしっかり覚えている。夢ではない。
それなのにどうして?
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