【Ⅵ】2
「アミンを守ってあげたかった」
ある夜、ラティファはぽつりと言った。
夕食を済ませた後で、彼女はシャワーを浴びて濡れた髪をタオルで包んだまま、リビングのソファに身を沈めてシェリーを飲んでいた。
「彼を初めて見た時、なんだか可哀想に感じたの。アミンっていつもなんとなく寂しそうな顔をしていたじゃない。だから、すごく気になった。七歳も年下の男の子に入れ込むなんて恥ずかしいけど、でも、どうしてもアミンと仲良くなりたいと思ったの」
あ、と声を上げそうになった。アミンを守ってやりたいと思っていたのは僕だけじゃなかったんだ。
空になったグラスをテーブルに置いて、ラティファは水滴で出来たリングを指先で弄び始めた。いつかの光景と重なる。アミンも同じことをしていた。
「守ってあげられると思ってた。でも、私じゃダメだったのね……」
そう言って、彼女は顔を上げた。
「私はアミンを自分の友達や職場の仲間に紹介しなかったの。セカンダリースクールしか卒業していない、低所得層のゴミ回収業者の男の子が、自分の恋人だって公表することが恥ずかしかったのかもしれない。アミンは私のそんな狡さを敏感に察していたんだと思うわ。だから、私には心を開いてくれなかった……」
分かっていたならどうして、と僕は言えなかった。自分のことを棚に上げて、ラティファの些細な罪を糾弾できるはずがない。僕にはそんな資格は無い。
泣き腫らしたような目が僕を射抜く。
あなたは何をしていたの──?
そう言われた気がして、僕は目を逸らした。
二〇一三年の秋から、僕とラティファはかりそめの婚姻を結んで、薄氷を踏むような思いで同居生活を続けた。アミンを待つためだけに。
ただ待つだけでは気が狂いそうで──ラティファも同じ気持ちだった──アミンが僕達の知らない場所で何をしていたのか、ロンドンで何を探しても無駄だと知りながらも必死に手がかりを探し回った。
仕事を終えた後も、休日も、アミンが行っていたのではないかと思える場所を手当たり次第に訪ね歩いた。葬儀に参列するような暗い表情で、いつも連れだって出掛ける奇妙な夫婦──たぶん、周りにはそう見えていたと思う。手近な飲食店をあらかた調べ尽くした僕達は、手掛かりを求めてアミンの荷物をひっくり返し、ドラッグを見付けた。
「知らなかった……」
ラティファは嗚咽を漏らし、小さな巻きたばこから顔を背けた。
「アミンは寂しかったのね……」
僕も知らなかった。ずっと同じ部屋で暮らしていたのに、あんなに近くにいたのに、アミンのことを本当には何も知らなかったんだ。
翌日から、ストリートにたむろするドラッグの売人たちにアミンの写真を見せて「彼を知りませんか?」と相手の都合構わず聞きまくった。迷惑顔をされ、時には絡まれ、殺すと脅されることもあった。危険なのでラティファには家にいて欲しいと頼んだのだけれど、彼女は頑として聞き入れなかった。嫌な目と危険な目に何度も遭って、やっと、アミンにドラッグを売っていたというアフリカ系の男に辿り着いた。
いつの間にか冬が来ていて、街にはクリスマスツリーや柊のリースなど、祝賀ムードの賑やかな飾りが溢れ、キリストを讃える歌が流れるようになっていた。
薄暗くて狭い路地裏で、彼は煙草か何か──たぶん
「愛は忠誠だよ」
意図が分からず首を傾げた僕とラティファに、彼はスマートな指をリズミカルに振りながら、「愛は忠誠だよ」と歌うように何度も繰り返して片目を瞑った。
I kneel to you, `cos, be loved for ever.
I want to be with you for ever.
それから、彼は年老いた魔法使いのようにゆったりと大麻を吸い、可視化された魔術のような白い煙を吐き出した。
「お嬢さん方は分かっていないのさ。忠誠を誓うということがどういうことか。君たちは愛を知らない。自分の祭壇に自分を奉っているだけだ。愛だと思い込んで、相手を所有したがっているうちはまだ本物の愛を知らないし、本物の執着も知らないのだよ。なにがあろうと愛する人を守り抜こうという信念が無いから、些細なことが気になる。何があろうとも忠実でありますと言えないなら、その愛は嘘だね」
揺らがない絶対の忠誠を愛する人に……
──自分か愛する人、どちらを生かすべきか二者択一を迫られて悩むならぬるい。選択を迫られるまでもなく選べ。そうでないなら、選ばなくて済むようにしておけ。
突き付けられて、僕とラティファは打ちのめされた。
彼の忠告は、とっくの昔に有効期限が切れていた。そんな言葉が力を発揮できた時期はとうに過ぎていたのだ。
僕はアミンを選べなかった。
ラティファもアミンを選べていなかった。
アミンを後回しにしたツケが、今の喪失感だと言うのなら、罰が重過ぎる。
コツコツとラティファの高価なハイヒールのかかとがリズムを刻む。煉瓦の道は枯れ葉が積もって寂しかった。
アミンの行方は掴めないまま、時間だけが無情に過ぎて行く。
ラティファとの関係は氷河のようだった。凍り付いて動かない。奥底では何かが流れていたのかも知れないけれど、それは男女の情愛ではなかった。仲間意識、あるいはアミンに対する罪悪感で僕達は繋がっていた。協力しあって情報を集めたし、誰かに話を聞きに行くときは必ず二人一緒に向かった。
二〇一四年、四月──
イマーム・カーディルの伝手で、最近シリアから帰って来たという──元ボスニア国籍で二十数年前にイギリス国籍を取得していた──四十代の
今のヨーロッパでムスリムが髭を伸ばしていると、ISのテロリストと誤認されかねない。ムスリムだというだけで荒っぽい職務質問を受けることも頻繁で、公安当局による監視が付くことさえある。そうでなくとも、偏見を恐れて髭を剃るムスリムが増えてきている。アフリカ系ムスリムのマスードも最近は髭を剃っている。
サラディンの自宅はセブンシスターズ・ストリートにあった。古い2LDKのフラットだったけれど一人で暮らすには十分だ。ラティファと二人で手土産にティー・パレスの紅茶葉ギフトを持って訪ねた時刻は、ちょうど日没前の
力強いテノールが滔々とコーランの一説を詠う。哀切を伴う調べは、アラビア語が理解出来ない人が聴いても胸を締め付けられるはずだ。この美しい祈りの詩を詠う人々が紛争地域で武器を持って殺し合いをしているなんて信じられない。ましてや罪無き人を殺戮するテロを行うなんて……
礼拝を終えて、サラディンは僕達の向かいのソファに腰を下ろした。礼拝用に羽織った上着は脱いでいて、カーゴパンツに黒いタンクトップという服装になっていた。白に近い金髪はベリーショートのクルーカットで、軍人らしい厳めかしいムードだった。大柄で筋肉質、動きは鋭く引き締まっている。彼は、アラブ風ではなく、ミルクを添えたイギリス風の紅茶を淹れてくれた。ベルガモットの強い香りが心地好い。
サラディンは気さくで表情豊かな人で、ソファで向かい合うと、まずラティファの美貌を褒めて、君が既婚でなければ結婚を申し込みたいところだ、と冗談を言った。ラティファは感じ良く笑い、そつなく謝辞まで述べて見せた。彼女の品の良さには頭が下がる。
サラディンも僕と同じ感想を抱いたようで、ラティファの連れの僕にも、とても丁寧に応対してくれた。
「それにしても、可愛らしいカップルだな。俺に会って大丈夫なのか?」
「ええ、事情は伺っています。今日は僕達のために時間を割いてくださって……」
「回りくどい挨拶はいいよ。苦手なんだ」
「Thank you, Sir.」
「No trouble. It's my pleasure.」
あらかじめ、サラディンには国務省の監視が付いていると忠告されていた。
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