【Ⅲ】2
そうは言っても、そんなわけはなく、誰かしらが僕に声をかけてくれたし、ARGENTO RECOVERY WORKERSの仲間は感じが良かった。ボスのデヴィッドは愛想は無くても善い人だったし、マスードは相変わらずお祈りばかりしているけど仕事は滞りなく回せていたし、彼とのランチは美味しかったし、陽気な話し方も悪い感じじゃなかった。
クライアントのオフィスでは、顔を合わせる度にキャンディをくれるお姉さんがこっそりスマートフォンのアドレスを教えてくれたりもした。
ラティファという二十三歳の美人だ。リアーナより年上で、髪はブロンドじゃなかったし、瞳も海のような青い色じゃなかったけど、ラティファは、なんというか、むやみに性欲を掻き立てる女性だった。甘ったるい目をしていて、左の頬にホクロがあって、唇はぽってりと厚く、グラマーで、波打つ長い褐色の髪は豊かで、優しい声をしていた。
「ハイ、お疲れ様。キャンディはいかが?」
ラティファのくれるベア・フルーツ・ニブルスは、熊のシルエットのパッケージが可愛いし、タンノックのティー・ケーキは子供の頃からの好物だ。彼女とは好みが合うかも知れない、と少し嬉しくなった。
問題らしい問題は何も起きていない。そう、まだ、起きていない。
ただ、ロンドンオリンピックの開催が近付くにつれ、怪しい奴は対テロ法で逮捕されるという噂が広まり始めた。この場合、怪しい=アラブ系ということだ。
この頃から、僕はストリートを歩いているだけで警官に詰問されるようになった。「身分証を見せろ」と高圧的な態度で命令され、乱暴に持ち物を調べられた。侮辱的だと思ったし、腹も立ったけど、どうすることも出来ない。表面上は警官の正規の職務であり、それに協力するのは善良な市民の義務だからだ。反抗的な態度を取れば公務執行妨害で逮捕される。テロリストの疑いがある者は最長二十八日間(※二〇一二年に自由保護法が成立し職務質問の運用条件と機関に制限がかかり十四日間に短縮)の拘留が認められていたのだから、動物園の檻に入れられたくなければ従順でいるしかなかった。トモも調べられてはいたけれど、警官達は外国人のトモに対するよりイギリス人の僕に対するほうが無礼で乱暴だった。二〇〇五年七月七日のロンドン同時爆破テロ以降、アラブ系はテロリストだという偏見がロンドンに蔓延していたのだ。知り合いの知り合いが逮捕されたという噂は枚挙に暇がなかった。
寒さが厳しくなるにつれ、嫌な気分と心細さが増して行く。冬になると、人は弱って寂しくなる。トモはいつも留守がちだ。リビングのソファで毛布を羽織って本を読んでいると、エミかマコトがよくインスタントコーヒーを淹れてくれた。
「アミン、最近トモが遊びに行ってる場所知ってるか?」
ある夜、マコトが深刻な顔で訊いて来た。
「よく知らないけど、イマームのとこみたいだよ」
マコトはきょとんと眼を見開いた。
「イマームってなんだ?」
「イスラムの神父みたいなものだと思うけど」
そう僕が言った瞬間、マコトは分かりやすく顔色を変えた。
「トモは宗教にハマッてるのか?」
「知らなかったの?」
「ああ、トモは俺達に何も話してくれない」
僕達の会話をそばで聞いていたエミも、「トモが心配だわ」と珍しくハッキリ聞こえる声で言った。日本人同士だから詳しい事情を説明しているのかと思っていたけど、トモはマコトだけじゃなくエミにも何も話していないようだった。
それにしても、二人の反応はずいぶん大袈裟で深刻だ。日本人は無信仰なだけでなく宗教を嫌う人が多いと聞いてはいたけど、それだけではなく、宗教を恐ろしいものだと思っていることも分かって、なんとなく驚いた。日本では一九九五年三月、オウムとかいう宗教団体が地下鉄で化学兵器を使用するテロ事件があった。それで日本人は宗教に対する精神的なアレルギーを持っているのかもしれない。
イギリスでは、人生に問題を抱えている人物のメンタルケアを助けるボランティア・カウンセラーは、たいてい教会や寺院の関係者だ。僕とママは無信仰者だけれども、イギリスでは宗教が生活の一部になっている。カトリックやプロテスタントなどの伝統的なキリスト教のみならず、イスラム、ユダヤ教、仏教、ヒンズー教など、教会や寺院は身近で親しいものだ。困ったら教父ファザーに相談を――という社会だ。
それにしても、人肌が恋しい。
僕は、仕事中にいつもキャンディをくれる優しいお姉さんのラティファに連絡してみることにした。とは言っても、気後れしてしまって簡単じゃなかった。以前、金髪の女の子に声を掛けた時、糞野郎どもに喧嘩を売られたことを思い出し、また嫌な目に遭わないかと不安になった。唯一の相談相手であるトモがいなくて――そもそもトモがいないせいで人肌が恋しかったんだけど――僕はグズグズと迷って時間を無駄にした。
だけど、ラティファは美人だし、とにかく僕は寂しかったんだ。思い切って、教えてもらったスマートフォンのアドレスにコールする。
「ハイ、アミンね?」
ラティファは電話に出るなり明るい声でそう言った。
虚を突かれ、僕は狼狽えてしまった。揶揄われたんじゃないかという疑念と、バカにされないように慎重に言葉を選ばなきゃ、という警戒心も鎌首をもたげる。
「どうして僕だと分かったの?」
身構えた僕に、あっけらかんとラティファは言った。
「知らないアドレスからのコールなんて、あなたしか有り得ないから」
「どういう意味?」
電話の向こうでラティファは笑う。感じ良く。
「鈍いのね。あなたにしかアドレスを渡したりしてないってことよ」
あ、ああ、と僕はつまらない反応をした。警戒したのに肩透かしを食らって、嬉しい事を言って貰ったのにすぐには気付けなかった。そうなんだ、と言って、しばらく僕は押し黙った。なにか気の利いた事を言うべきだと分かっていたけど、何を言っていいのか分からなかった。挙句に、つまらない事を言った。
「デートしてくれる?」
いいわよ、とラティファはその場ですぐにOKしてくれた。
あっけなく成功して僕は拍子抜けしていた。女性をデートに誘うのって、こんなに簡単なことだったのか。リアーナを誘おうとした時の摩擦や軋轢はなんだったのか……やっぱり、階層の壁があったということだろうか。移民の子はいつまで経っても移民の子で、代を重ねてすら、アングロサクソンのイギリス人とは同じ場所には立てない、と、そういうことか? 僕は金髪の女の子に声を掛けちゃいけないのか?
リアーナの事を考えると、屈託はいくらかあったけど、ラティファとのデートは楽しかった。ベスナルグリーン・ロード沿いのカフェで待ち合わせをして、ブリック・レーンのレストランでバングラディッシュ風のトマトカレー(ティカ・マサラ)を食べてからパブに行った。誰に絡まれることも無く、ジン・リッキーとシェリーを飲みながらダーツを楽しんで、彼女のスタジオの前まで送って行って、おやすみのキスをして別れた。彼女の豊かな胸とセクシーな唇にドキドキしながらも、穏やかで平和なデートだった。
ラティファとデートを重ねるうちに僕はすごく彼女を好きになった。
特に左頬の可愛いホクロが素敵だ。
初めてラティファのベッドに入れて貰った時――つまり、僕が初めてセックスを経験した時には、彼女より美しい女性はいないんじゃないかとすら思った。
ラティファの髪はしっとりとした褐色で、瞳は明るい琥珀色だった。地中海沿岸に起源を持つ民族の特徴だ。ラティファも僕と同じ、移民の係累だった。
Winnie-the-Poohで言うところのall Rabbit’s friends and relations.
久しぶりにその言葉を思い出した。僕達は軽んじられて一括りにされる仲間だ。
どういう流れでそうなったのか、特別な事なので覚えておきたかったんだけど、あっさりしていてよく覚えていない。一緒にパブで食事をして、スタウトを飲んで、彼女の狭いスタジオ(ワンルーム)に行って、並んでテレビを見て、軽いワインを飲んで、何度かキスして、気付いたらベッドにいた。
僕はちゃんとラティファを口説けていたのだろうか。
ベッドに入るまでに何を言ったか、言われたか、記憶が曖昧だ。酔っていたから覚えていないのか、僕が薄情だから覚えていないのか、分からない。ただ、彼女から積極的に誘われたということだけは断言できる。だって、僕はろくに女の子と付き合ったこともない十六歳で、やり方を知らなかったから。
暖房の利いた部屋で、彼女は自分で服を脱いだ。はちきれそうな胸元から強く香水が匂いが立って、舐めたら少し苦かった。ラティファが着けていたのは黒いレースが付いた紫色の官能的なショーツで、記念にこれをくれないかな、とチラリと思ってしまった。薄い布で、手触りがサラサラしていて――チェストの中に石鹸かポプリを入れているんじゃないかな――すごく良い香りがしたんだ。
未練を感じながら、僕はラティファのショーツを床に落とした。
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