act.50 紅葉

 紋太の父親が亡くなった。

 あまり面識はなかったけど。

 良い人だったことは憶えている。

 どことなく紋太に面影が似ていた。

 他人に迷惑をかけたくないから。

 重要なことを隠すところとか。

 求めているものを口にしないくせに。

 間際になって口にするところとか。

 よく似ている。

 知っているのに。

 俺は。

 それを引き出さなかった。

 怖くなったからだ。

 引き出しの中が俺の想像と異なっていることが。

 だから自分から決めつけたんだ。

 紋太の気持ちを。

 俺の気持ちを。

 どうしたいか、なんて。

 俺も定まっていないのに。


 牛島家へと線香をあげて。

 俺は実家へと立ち寄った。

 母親に紋太のところへ行ったことを告げて。

 しんみりとした雰囲気になって。

 そして。

「聖人は」

 不意に切り出された。

 そんな予感はあった。

 死の予感。

「結婚とかするの?」

 結婚して家庭を築くことこそが至上の幸福である。

 母親の年代にありがちな価値観だ。

 だけど。

 それは時代が築き上げた価値観だから。

 否定することは俺の価値観を否定することと同義だ。

「考えてない」

「彼女とかいるの?」

 白々しい。

 知っているくせに。

 紋太の反応から察していたくせに。

 俺を試しているのだろうか。

 俺が打ち明けるのを待っているのだろうか。

 それとも。

 俺が普通になったと思っているのだろうか。

 そう思い込みたいのだろうか。

 病気が治ったと。

 気の迷いから立ち直ったと。

 そう思っていたいのだろうか。

 だけど。

「何で?」

「何で、って」

 俺は。

 病気じゃない。

 気の迷いでもない。

「聖人もいい年だから」

 バレているけど。

 バレていたとしても。

 この口から両親に真実を告げることは。

 この先一生ない。

「結婚願望ないし」

 墓場まで持っていく。

 両親の墓場に添えることもない。

 俺は。

「そもそも彼女いないし」

 普通じゃないから。

「ごめん」

 初めて。

 生まれてきたことを謝った。


 この先一人で生きていくことを想像した。

 一人暮らしして。

 三十代。

 四十代。

 五十代。

 毎日毎日同じ時間に目を覚まして。

 朝食をとって。

 身支度を整えて。

 鞄を持って靴を履き。

 玄関の扉を開けて会社へ向かう。

 仕事が終われば自宅へ帰り。

 夕食をとって風呂に入って。

 読書やテレビにふけって。

 いつの間にか自由時間は過ぎて。

 定刻になれば布団に入って眠りに落ちる。

 代わり映えのない普通の生活だ。

 自家用車を買って。

 良い部屋に引っ越して。

 休みの日には部屋で読書して。

 たまには外に出掛けてみたりして。

 気兼ねない独身生活。

 そんな人間は世界にごまんといる。

 普通の人間だ。

 悪くない。

 けど。

 良くもないと考えてしまうのは。

 俺が何かを求めているからだろうか。

 六十代。

 仕事を辞めて。

 毎日趣味に没頭して。

 友人らと趣味を共有したりして。

 楽しい未来。

 不安な未来。

 ない交ぜだ。

 会社の同僚の披露宴に呼ばれたり。

 育休をとる同僚に変わって業務を引き受けたり。

 ふとした瞬間に俺が普通ではないことを思い知る。

 同僚の顔を見る度に。

 恋愛の話に入る度に。

 結婚生活の愚痴を聞く度に。

 子供の話を嬉々として語る人を見る度に。

 俺は。

 世界から隔絶されているような。

 ここは俺のための世界じゃない、と。

 俺の居場所はここにはない、と。

 突きつけられているような。

 そんな心地。

 それでもいい。

 平和だから。

 高校時代に比べたら。

 あの時の辛さに比べたら。

 ずっと楽だから。

 未知の幸せなんて要らない。

 今が幸せだから。

 そう信じているから。

 信じなきゃ自棄やけになってしまうから。

 夜。

 俺は一人で考えた。

 浴槽の中で考えた。

 この先のこと。

 将来のこと。

 そして。

 お湯をすくって。

 顔を洗って。

 諦めた。


 風呂から上がると携帯電話が鳴動した。

 紋太からだ。

「もしもし」

「もしもし」

 いつもどおり。

 だけど。

 少し緊張しているようだった。

「あのさ」

「うん」

「今週遊ばない?」

「何で?」

「何で、って」

 悪い癖だ。

 断る時の常套句だ。

 相手の誘いのあらを探そうとしている。

 俺は。

 自分の気持ちを度外視して。

 紋太から離れようとしている。

「去年、紅葉観に行けなかったじゃん」

「うん」

 去年は仕事の都合で紋太の誘いを断った。

 嘘ではない。

「だから、今年は行きたいと思って」

 紋太は一拍置いて。

「今年も仕事?」

 なんて訊くものだから。

 逃げ場を封じられて。

 俺は感情を押し殺して。

「ううん」

 平坦な声で。

「行ける」

 承諾した。

 俺は。

 あまのじゃくだ。


 週末。

 紋太が車で迎えに来た。

 俺は助手席に乗って。

 紋太は道を北上した。

 二時間程度で紅葉スポットまで辿り着いた。

 車から降りると鮮やかな紅色に目が奪われた。

 隣で紋太も見惚れていた。

 頭にかえでの葉がかかっていたから。

 そっと指で挟んで見せると。

 紋太は自然とはにかんだ。

 綺麗な顔だった。

 幼さを残しながらも大人になった男の顔だった。


 川のほとりまで降りてきて。

 流れゆく紅葉を眺めていると。

 大人になったことを実感した。

 昔は。

 こんな風にゆったりすることがなかった。

 それを面白いと思わなかったからだ。

 今は。

 長閑のどかな光景を見ているだけで。

 胸が温かくなる。

 隣に紋太がいるからだろうか。

 ふと横顔を眺めていると。

 視線に気付いた紋太がこちらを向いた。

「何?」

「別に」

 久しぶりに口にした台詞。

 紋太はニヤッと笑って俺の頬をつねった。

「何?」

「別にい」

 紋太は俺の台詞を真似した。

 それが可笑しくて俺は微笑んだ。

 童心に返ったように感じられた。


 秋の夕暮れは早い。

 三時過ぎには太陽が西に傾いていた。

「帰るか」

 紋太の台詞を合図にして。

 俺たちは車へと戻った。

 車に乗り込み。

 シートベルトを締めて。

 周囲に歩行者がいないことを確認して。

 紋太はエンジンをかけた。

 シフトレバーを握って。

 パーキングからドライブへと移行する。

「聖人」

 その直前。

 紋太の動きが止まった。

 俺の方を向いて。

 真剣な目で。

「おれは聖人と一緒がいい」

 そう言った。

「この先どうなるかなんてわからねえけど」

 エンジン音だけが唸り続ける車内に。

 紋太の声が浸透してゆく。

「けど、そんなのは男でも女でも変わらねえし」

 俺は呼吸すら忘れて。

「周りから白い目で見られるかもしれねえけど」

 紋太の声に耳を澄まして。

「嫌な気持ちになるかもしれねえ、ってのもわかるけど」

 車の前を通り過ぎてゆく観光客にも気が付かなくて。

「それでも悩むってことは」

 遠く風に揺れる紅葉にピントが合わなくて。

 代わりに紋太の顔にピントが合って。

「それ以上に、聖人と一緒になりてえってことなんだと思う」

 その顔に見惚れた。

「結婚とかよくわからねえけど」

 紋太は頭が悪いけど。

「一緒に暮らすなら」

 とても実直で。

「この先家庭を築くなら」

 女性からモテる顔立ちではないけど。

「聖人がいいな、って思った」

 真剣な眼差しは誰よりも熱くて。

「だから」

 誰よりも真摯で。

「この先も一生」

 だからこそ俺は。

「おれの傍にいてくれませんか?」

 紋太を好きになった。

 諦め切れなかった。

 言葉が出なかった。

 視界がぼけた。

 紋太にすらピントが合わなくなった。

 眼鏡を外して。

 目元を拭って。

 湿った指先を紋太に握られて。

「聖人」

 すぐ近くでささやきかけられると。

 紋太の幸せのためだとか。

 紋太の外聞のためだとか。

 そんな風に考えていたことが。

 全て頭から無くなってしまう。

 押し殺してきた想いが。

 意味を無くしてしまう。

「ズルいよ」

 ようやく漏らした言葉は。

 いつかの紋太と同じもので。

「ズルい、って」

 紋太は困ったように笑って。

 満更でもなさそうに目尻を下げて。

「じゃあ、どうしたい?」

 俺に視線をくれた。

 ピントが合った。

 目と目が合うと。

 俺は。

「紋太の傍にいたい」

 震える声でそう言った。

「それだけでいい」

 もう隠し通せない。

 澄ました顔でなんかいられない。

 無感情なんて装えない。

「俺はもう、幸せだから」

 紋太は俺が突き放しても寄り沿ってくれた。

 試すようなことを言ったのにちゃんと考えてくれた。

 こんなにも女々しい俺を。

 後ろ向きにしか考えられない俺を。

 前向きにしてくれた。

「紋太には後悔してほしくない」

 幸せになってほしい。

 いや。

「絶対に、幸せにするから」

 約束する。

 紋太が誓ってくれたように。

 俺も誓いを立てる。

「俺の隣にいてください」

 紋太は驚いたような顔をして。

 すぐにまた微笑んだ。

「うん」

 俺に顔を近付けて。

 嫌いになれないその顔で。

「ありがとう」

 それだけ言って。

「帰ろうか」

 シフトレバーを切り替えた。

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