act.12 相傘

 最悪だった。

 昨日の紋太とのやり取りが思い出された。

 最悪。

 俺が紋太に言ったこと。

 俺が自分に思ったこと。

「おはよう」

 今日も紋太はいつもどおりだった。

 挨拶をして席に着いた。

「聖人」

 あんなことを言ったのに。

 紋太は後ろを振り返った。

「ごめん」

 神妙そうな面持ちで。

 少しだけ愛想笑いを浮かべて。

 紋太は前を向いた。

 俺は何も言えなかった。


 昼休み。

 曇天。

 俺は弓道場へ向かった。

 一本だけでもいいから。

 矢を射たかった。

 胸が痛かった。

 だから、止めを刺したかった。

 校庭を堂々と横切る途中。

 北校舎を振り返った。

 二階の廊下に紋太の顔が見えた。

 けど。

 目は合わなかった。

 紋太はブリックパックを片手に。

 ずっと俺を見ていた。

 怖いとは思わなかった。

 紋太の気持ちは何となくわかったから。

 俺のことが心配なんだろう。

 連日、昼休みに練習しているから。

 紋太のことを無視しているから。

 気が気でないんだろう。

 友達だから。

 俺も同じように思えたら。

 最悪な気分にもならなかったんだろう。

 教室に戻りたかった。

 けど。

 戻れなかった。


「聖人」

 放課後。

 チャイムと同時に紋太から声をかけられた。

「練習、空き教室でやるから」

 それだけ言って。

 紋太は手を振って去っていった。

 俺は帰り支度を済ませて。

 バッグを肩にかけて教室を出た。

 右手に階段。

 左手に空き教室。

 俺は右を向いて。

 通り過ぎゆくクラスメイトを振り返って。

 口を引き結んで。

 階段を降りていった。


 昇降口で靴に履き替えた。

 使い古された運動靴。

 入学する前から使っていた。

 中学三年生の頃から使っていた。

 何も変わっていなかった。

 足のサイズも。

 物を大事にする性格も。

 友達を失くしてしまった原因も。

 俺は駐輪場へ向かった。

 自転車の鍵を開けた。

 自転車を押した。

 ふと。

 他の自転車を眺めた。

 いつもよりも多く残っていた。

 もうすぐ学校祭だったから。

 その中に紋太の自転車を発見した。

 黒い車体。

 英字のシール。

 外国かぶれの痛い自転車。

 紋太の嗜好も変わらなかった。

 紋太の思考も変わらなかった。

 変わってしまったのは。

 俺の生き方だけだった。

 戻りたい。

 気持ちはいつだって同じなのに。

 足は全く動かなかった。

 いつも紋太を待っていた。

 何かしてくれるのを待っていた。

 けど。

 紋太は望むことをしてくれなかった。

 俺は何も言わなかった。

 原因はわかっていた。

 言えない理由もわかっていた。

 言えばどうなるのか。

 考えるだけで気分が悪くなった。

 最悪だった。


 門を抜けてサドルに跨った。

 人通りの少ない田舎の道路。

 自転車通学には最適だった。

 ペダルに足をかけた。

 眼鏡に水滴がついた。

 俺は空を仰いだ。

 頬に雨粒が落ちてきた。

 まるで空が泣いているようだった。

 曇り空。

 俺の顔のようだった。


 胸がはち切れそうだった。

 帰宅ルートを逆行する気分は。

 酷く落ち着かなくて。

 けど。

 胸は不思議と高鳴って。

 矛盾している胸の内に。

 深く酔いしれた。


 空き教室には人だかりができていた。

 中央には人の少ない空間があって。

 そこにロミオとジュリエットがいた。

 芝居がかった演技をしていた。

 けど。

 二人とも台本を見ていなかった。

 彼らはロミオとジュリエットだった。

 紋太はどこにもいなかった。

 紋太は。

 毎日、夜遅くまで練習していた。

 俺が部活をしている時間も。

 朝、ホームルームが始まるまでの時間も。

 ずっと。

 なのに。

 紋太は俺に時間を割いた。

 俺は紋太の時間を奪った。

 そして紋太は、いなくなった。

 俺は。

 その場から立ち去った。


 教室に。

 紋太は戻ってきた。

 午後七時。

 外は大分暗くなっていた。

「聖人?」

 紋太は驚いたようだった。

 教室に入ることも忘れていた。

「待ってたんだ」

 訊いたのは紋太ではなく木ノ下だった。

 他のクラスメイトも戻ってきた。

 みんな帰り支度を進めていた。

「こっちに来ればよかったのに」

 木ノ下は他のクラスメイトと共に。

 教室を後にした。

「じゃあ、お疲れ」

「お疲れ」

 紋太は元気良く応えた。

 俺の方に目をやってきた。

 俺は何も言わなかった。

 二人きりの教室になった。

 俺は読んでいた本を鞄に仕舞った。

 席を立った。

「紋太」

 俺は紋太の鞄を持った。

 教室の電気を消した。

 目の前。

 紋太に鞄を手渡した。

「お疲れ」

「サンキュ」

 表情はわからなかった。

 けど。

 たぶん、笑っていた。


 外は雨が降っていた。

 昇降口。

 傘を広げる紋太と。

 傘を持たない俺。

「入る?」

 俺は首を横に振った。

 けど。

「濡れるよ?」

 紋太は俺を傘に入れた。

 雨音が身体に伝うようだった。

 憑き物が落ちたようだった。

 だから。

「ありがと」

 俺は雨音に紛れて。

 感謝の気持ちを伝えた。

 紋太の横顔を眺めた。

 紋太が横目に俺を見た。

 視線が合った。

 口が自然と開いた。

「木ノ下」

「ん?」

「別に好きじゃない」

「そう」

「嫌いでもないけど」

 陰口になってしまうことを恐れたわけじゃなくて。

 ただ。

 木ノ下がジュリエットで良かったと。

 そう思った。

 だから。

「普通」

「そう」

 紋太の歩幅が狭くなった。

 紋太の歩調が遅くなった。

「別に、ってそういう意味?」

 紋太は何かを悟ったようだった。

 別に。

 紋太は意味を取り違えたようだった。

「おれは?」

 だけど俺は間違いを指摘できなかった。

 指摘すれば答えざるを得なくなるから。

 返事をはぐらかす、意味。

 真意。

「好き?」

 紋太は俺の横顔を見上げた。

 俺は真っ直ぐ駐輪場を見つめていた。

 暗闇の中。

 雨が外灯に照らされて光っていた。

 俺はその中に飛び込みたくなった。

 けど。

「別に」

 また、はぐらかした。

 紋太は複雑そうな顔をした。

「普通?」

「さあ」

「さあ、って」

 縋るような眼差しが。

 痛くて。

 堪らなく。

 怖くて。

「嫌いじゃない」

「おれは」

 紋太は左肩を濡らして。

 俺は右肩を濡らして。

「好きだよ、聖人のこと」

 数秒の沈黙が続いた。

 雨音が俺の返答を催促していた。

 俺は悩んで。

 苦しんで。

 苦肉の策に出た。

「浮気?」

「ちげえよ」

 紋太は笑った。

 俺は笑えなかった。

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