第11話
冬休みが終わり、一週間と少しが経った。
クリスマスコンサートはやっぱり最高で、とても充実した時間を過ごせたと思うし、律月もすっかりそのピアニストの虜になったらしく、ネットで演奏動画を見ては、私に感想を送ってくるまでになっていた。
クリスマスコンサートの日に、律月のリクエストの曲を演奏する日付を決めた。
今日がその約束の日だ。
いつもよりも早歩きで廊下を歩き、階段を駆け下りて、秘密の場所を温めるために暖房を入れた。
「演奏する曲を発表します」
「お願いします!」
「『アラベスク第一番』です!」
「おお~大好きだよ。でも意外だったな、紗夜さんがそれ選んだの」
「そう思う? 実は『夢』と迷ったんだけどね。こっちの方が律月っぽいな、と思って」
「こんな素敵な曲を僕っぽいって言ってもらえるなんて、光栄だよ」
私はふふ、と笑いながら、ピアノ椅子に座った。
美しくて流れるような旋律を、こぼさないように丁寧に一音一音を気にかけながら、優しく、柔らかく、ロマンチックに奏でていく。
律月には今、どんな色が見えているのだろう。私の奏でる音色は、何色なんだろう。少しでも分かり合いたい、共有したい、私の思いを伝えたい。私の様々な深い感情が、メロディーという波に乗ってせめぎ合い、律月に届けられる。
律月は、いつものポジションで目を閉じて心地よさそうに奏でられている音楽に浸っていた。
静かにクライマックスを迎えた音色の余韻に十分に浸ってから、律月は目を開けた。
「すごく綺麗だった。こんな言葉じゃ足りないくらい、すごく気持ちよかった。やっぱりすごいよ。今まで聴いた『アラベスク』の中で最高に感動した」
「そりゃあ、あなたのために、あなたを想って弾いてるんだから」
違う。そんな言葉じゃない。
「僕のために、ありがとうね。ここで紗夜さんのピアノをずっと聴いていられて、今年はすっごく幸せだった」
「別にこれからも私はここでピアノを弾き続けるんだから、律月も来ればいいじゃない」
違う。来ればいいじゃない。来てほしい。
律月は、眉尻の下がった困ったような笑顔で言った。
「でも、僕もう今年で卒業だし」
「え? は?」
思いもよらない発言に、驚いて気が付いたら声が出てしまっていた。
「え、だって僕三年生じゃん」
「え、私と同級生じゃないの? え、先輩?」
「あれだって上履きの色……あ!」
手を目元に充ててやってしまったーという言葉の具体化のようなポーズを取りながら、律月は謝ってきた。
うちの学校は学年ごとに上履きに入っているラインの色が違うらしいのだが、私がそれを知る由もない。
「ごめん、本当にごめん。色が見えないことを知ったの、出会ってから結構経ってからだったから、そういうことに気が回らなかった」
ペコペコと何度も謝ってくる律月が可哀想で、でも可笑しくて、私はもはや面白くなってきて、顔をくしゃくしゃにして笑った。そして、息を切らしながら、尋ねた。
「私たち、こんなに長い時間一緒にいたのにね。びっくりしたわ。ていうか受験は?」
「結構前に推薦で決まってるんだ」
確かに10月ごろ一時期顔を合せなかったことがあったな、と思い出しながら納得した。が、もう一つ不思議な点があった。
「なんで部活さぼる必要があるわけ?三年生って五月か六月で終わりよね?」
突然の情報量に紗夜はキャパオーバーになりながら律月を質問攻めにした。
「あー、僕、部活さぼってるわけじゃないんだよね。結構前から」
「嘘でしょ」
えへへ、と少し言いにくそうに律月が口を開いた。
「普通に紗夜さんのピアノ聴くために、ここ来てた」
恥ずかしいこともなんでもぺらぺらと話す律月が珍しく照れながらそう言った。私にも照れが伝染してしまうじゃない。誤魔化すように返事を探していると、あることに気が付いた。
「共通テストって今週末だよね。確か三年生はテストが終わったらもう学校来ないわよね。じゃあ、もしかして、来週からもう学校来ない?」
「うん……。実は今日が最後なんだよね」
「そっか……」
「今日が最後って話、今まで出さなくてごめんね。なんか言葉に出すのが寂しくって。話に出さなかったんだ」
「うん。でも、リクエストされた曲、ちゃんと弾ききれてよかった」
お互いにやっと理解が追いついてきて、落ち着いた会話が出来るようになったと同時に、とてもしんみりとしてしまった。
その空気感をかき消すように、律月が提案をしてきた。
「ねえ、紗夜さん。ちょっと席交換してみない?」
「どういう意味よ」
「まぁまぁ、いいからこっち来て」
律月は私に手招きをしながら、自分がいつも座っている椅子に私を座らせて、自分はピアノの椅子に腰掛けた。
私は目を丸くしながら律月を目で追った。そんな私の顔を見て、律月はクスクスと笑う。
「言ってなかったんだけどさ、僕もピアノ弾けるんだよね。まぁ全然本格的じゃないし、趣味程度なんだけど」
「いや今日情報量多すぎて私処理しきれてないけど大丈夫?」
いつも冷静な私が戸惑いを隠しきれていない様子が珍しいのだろう、律月は笑みがこぼれてしまっている。
「じゃあサプライズ成功ってことで。最後に僕の演奏も、聞いてほしいな」
「もちろん」
ありがと、といって律月は顔を鍵盤に向けた。
神秘的で美しい旋律が、今までの落ち着かなかった空気をがらりと変え、秘密の場所は、一気に夜空の下へと変わった。
『月の光』
私が一番大好きな曲だ。きっと律月もそうなのだろう、と以前自分がこの曲を弾いた時のことを思い出した。
律月の奏でる音楽は、こんなに優しい音をしているのか。一つ一つの音色が心に深く染みた。壮大で、でも繊細で美しいこの曲に乗って、たくさんの律月との思い出が蘇ってきた。
私は、夜に空を見上げても、満月の大きな月の時でも、微かにしか光は感じられない。しかし、今目を閉じると、鮮明に月の光が見える気がした。
律月が見えているものを、やっと理解できた気がした。
音色の余韻、微かな月の光を最後まで味わってから、目を開けると、両目から涙がこぼれた。
そんな私を、律月は温かく優しい眼差しで見つめてきた。
「聴いてくれてありがとう。素敵な曲だよね」
「うん。とっても素敵だった。私にも見えたよ」
律月はうん、と頷いた。
何が、とは聞かなくても、律月には私の言いたいことがわかっている。そんな表情だった。
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