第21話 見守ってくれるもの。


 夜会の会場から抜け出した、王宮からの帰路。すっかり暗くなってしまった道を、ミュレル伯爵家の紋が入った馬車が進んで行く。質の良い車内は揺れが少なく、カミーユはただぼんやりと外を見つめていた。何を、見るでもなく。


 気を抜けば、ほんの少し前の光景が脳裏に浮かびそうで。目を閉じれば、今度は瞼の裏にいつかの光景が浮かび上がる。逃げられない記憶はいつもそこにあって、ふとした拍子に呼び起こされ、カミーユの心を苛んだ。


 先ほどの、夜会で起きた出来事のような酷似した状況は、否が応にも過去の出来事を思い起こさせる。振り払おうにも消えない、その記憶に呑まれないよう、必死に別の事を考えようと頭を巡らせて。


 「カミーユ」と自分を呼ぶ声に、はっとそちらを振り返った。




「大丈夫、か」




 問いかける声は、酷く哀しげで。すぐ隣に腰掛け、泣きそうな顔でこちらを見るアルベールに、カミーユは少しだけ驚いて、笑みを浮かべて見せる。「大丈夫ですよ」と応えながら。




「アルベール様が来てくださったから、私も、そしてあのご令嬢も、何事もなく切り抜けることが出来ました。本当にありがとうございました」




 本当に、心から感謝していた。自分の元に逃げて来たあの令嬢を見捨てることなど出来るはずもなく。しかし鍛えてもいない女の細腕で、同じく大して鍛えていないとはいえ、男の、それも二人の強行に、耐えることなど不可能だった。


 もしあの時、彼があの場に現れなかったら。想像しそうになり、慌ててその考えを振り払う。考えてはいけない。思い出すべきではない。

 結局は、肩を掴まれた程度で何事もなかった。だから、大丈夫。そう、自分に言い聞かせる。


 しかしアルベールは、そんなカミーユの言葉に納得できなかったようで。「私が甘かった」と、なおも苦しそうに、悔しそうに呟いた。




「使用人だけではなく、陛下に無理を言ってでも、騎士たちを配置しておくべきだった。私の家か、君の家の騎士に君を守らせていたならば、こんなことには……」




 その綺麗な顔に、深い後悔を滲ませて彼は言うけれど。そんなことは出来ないということくらい、カミーユにも分かっていた。


 王宮で、私兵となる騎士たちを護衛として連れてくることなど不可能であり、国王であるテオフィルに王家の騎士の配置を頼むにしても、カミーユの身分が低すぎるから。


 王宮に護衛の騎士を従えて立ち入ることが出来るのは、王家の者か、王位継承権を持つ者、その配偶者に限られた話。

 カミーユは王位継承権を持つアルベールの婚約者ではあるが、まだ結婚したわけではなく。現状、その枠に入らないのである。


 にも関わらず、無理にでも騎士を周囲に配置すれば、下手すれば反逆を疑われる結果となっただろう。アルベールが王位継承権を持っているから、なおのこと。だからこそ、アルベールもまたそれが出来なかったのだと、分からないはずもなかった。




「結果として何もなかったのですから、大丈夫です。本当に、アルベール様のおかげで助かったのですよ? 気を遣ってくださって、ありがとうございます」




 アルベールの言葉にふるふると首を横に振り、そう言って微笑む。心配性な彼に、少しでも安心してもらえるように。


 そしてそれは、紛れもなくカミーユの本心。最終的には、彼のおかげで何もなかったのだ。だから。


 そう、思うけれど。




「結果として、か。……君に、そんな顔をさせてしまっている自分が、一番情けない」




 アルベールはそう、泣きそうな顔で言った。真っ直ぐに、こちらを見ながら。


 そんな顔とは、一体どんなものだろうか。思い、知らず首を傾げるカミーユに、アルベールはその手を伸ばしてくる。「触れても良いだろうか?」と、不安そうに問いかけてくる彼に頷けば、彼はそろりと、壊れ物にでも触れるかのように、カミーユの頬にその指を添わせた。




「君は、無意識なのだろうな。私にとって、……俺にとって、君がそうやって、何でもないような顔で涙を堪える姿を見るのが、……一番つらい」




 彼が言うと同時に、頬に触れていた親指が肌の上を滑る。するりと動いた先は、カミーユの目許。そこから目尻まで、涙袋を軽く抑えるようにして、撫でられて。


 ぽろりと、生温かい雫が、零れた。


 あ、と思った時にはもう、遅かった。




「こ、れは、ちが……」




 ぽろぽろ、ぽろぽろ。押し流された涙に引きずられるように、次々と、両の目から雫が零れ落ちて行く。まるで、感情の制御の仕方を知らない、幼い子供のように。

 それを拭おうと、手の甲で目元を擦るけれど、零れる雫が留まることはなく。アルベールの手前、彼に心配をかけたくなくて、必死に止めようとすればするほど、涙は零れ落ちて。


 「嫌だったら、教えてくれ」と、静かな声が聞こえた。




「俺の前でまで、我慢しなくて良い。耐えなくて良いんだ」




 ゆっくりと、背中に回った両の腕。ふわりと香る新緑のような落ち着いた香に包まれると共に、額が触れた、柔らかな布地。あやすように背を撫でられ、耳元で「怖かっただろう」と優しく囁かれれば、もう、駄目だった。


 本当に、本当に。




「……怖かった……!」




 怖くて怖くて、仕方がなかった。窓から飛び降りてでも、逃げ出してしまいたかった。近寄られたくなくて、触れられたくなくて。


 汚されてしまったらと、嫌でも脳裏に浮かんで。


 気付けばアルベールの服をぎゅっと掴んで、その胸に身を預けていた。涙がその布に吸い込まれていくのに気付いても、止めることなど出来なかった。


 本当に、本当に、怖かった。でも。




「でも、わ、私が逃げたら、あの方も、私みたいに、なってしまうって、思って……! 私よりも、ひ、酷い目に遭われるかもって、思って……」




 見捨てることなど、出来なかった。これから起こり得ることが分かっていながら、背を向けて走り去るなんてこと、どうしても。


 あの日のように誰かが助けてくれると、信じるなんてこと、出来なかったけれど。あの日も、偶然助けが来てくれたからこそ、間一髪でこの身が汚されることなく済んだのだ。本当に、偶然だったのだから。


 そんな偶然が何度も続くはずはないと分かっていたけれど、それでも。




 私は、エルヴィユ子爵家の娘で、誇りある騎士の家門で、……英雄である、アルベール様の婚約者だもの……!




 怯える令嬢を置いて自分だけ助かろうなんて、どうしても思えなかった。





「もし、あの時、あ、アルベール様が、来てくれなかったら……」




 きっと、自分も、そしてあの令嬢も。


 脳裏に浮かぶ最悪の想像に、知らず、ふるりと肩が震えたけれど。「カミーユ」と呼びかける声が聞こえて、意識をそちらへと向ける。彼は穏やかな声音で、「思い出さなくて良い」と続けた。




「この命をかけて誓おう。もう二度と、君を危険に曝したりしないと。護り抜いてみせるから。……安心して、休むと良い」




 優しく背を撫でていた腕に、力がこもるのを感じる。温かな体温。いつも自分を守ってくれる、愛しい人の存在。恐怖ゆえに落ち着かなかった心臓が、少しずつ平静を取り戻す。深く息を吸い、そして吐き出した。


 カミーユは心の底から安堵しながら、アルベールの胸にその頬を擦り寄せる。アルベールが驚いたようにびくりと身を強張らせるのを感じながら、カミーユは少しだけ笑って、目を閉じた。


 彼の傍にいれば、大丈夫。これから、また同じように怖い目にあったとしても。きっと彼は、こうして傍にいてくれるから。


 もう大丈夫だと、今度は心から、思った。




「……ん。ここは……」




 ふと、真っ暗な中で目を覚まし、カミーユはぱしぱしとその目を瞬かせる。僅かな月明りのみが頼りの暗闇に、慣れてきた目が捕らえたのは、紛れもなく、自分が毎日寝起きしている私室だった。


 半身を起こし、ぼんやりと思う。アルベールの手配した馬車に乗り、彼と共に帰路について。彼の胸を借りて大泣きして。それからの記憶がないのだけれど。




 ……私、眠ってしまったみたいね。




 そしておそらく、彼が屋敷まで運んでくれたのだろう。最後まで迷惑をかけてしまった。明日顔を合わせた時に、お礼と、お詫びを伝えないと。


 思いながら視線を巡らせて、ベッドサイドに置いてある低めの家具の方へと顔を向ける。そこには相変わらず、この質素な部屋には似つかわしくない、豪華な木箱が置いてあった。


 もぞもぞとベッドの上で移動して、その木箱へと手を伸ばす。おそるおそるその箱を手に取り、座り込んだ膝の上に置いて。


 ぱかりと、それを開けた。




「……まるで、光っているみたい」




 真夜中の、カーテンの隙間から覗く月の光に照らされて、白銀の長い髪の束は、星のように輝いている。優しくて穏やかなアルベールの表情が思い浮かんで、気付けばそれを手に取っていた。するりとそれに頬を寄せ、目を閉じれば、彼がすぐそこにいるような気がして。


 くすぐったいような心地になりながら、カミーユは再び、丁寧にその髪を木箱に戻した後、家具の上に置き、ベッドに横になった。その木箱が目に入る度に、アルベールに見守られているような気持ちになると言えば、彼は笑うだろうか。


 そんなことを思いながら、少しだけ笑って。またゆっくりと、目を閉じた。


 あれだけ怖かった今日の記憶が、少しずつ遠ざかっているような、そんな気がした。

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