第10話 素知らぬ望み。

 ベルクール公爵家の嫡男として生まれた時から、騎士としての生き方を教え込まれていたアルベールは、オペラ鑑賞のような、ただ静かに舞台を見守るという行為が少々苦手であった。

 もちろん、それを表に出すということはまずないけれど、内心では全く別の事を考えていたり、眠気を押し殺したりするのに忙しいというのが常で。後にその内容について問われても、何一つ覚えていないという事もあった。


 今回のオペラもまた、同じだろうと思っていた。それどころか、ここ最近はカミーユに会うためにかなり無理をしていて。

 体力に自信がある方ではあったし、戦時中からすれば断然楽ではあるが、寝不足であるという事実は消えなかった。


 何しろ、ベルクール公爵家の嫡男としての仕事に加え、ベルクール騎士団の団長としての仕事、ミュレル伯爵としての仕事など、毎日毎日、増える一方の仕事をこなすのに、忙しかったから。


 通常ならば、寝る間も惜しんでということはなかったのだけれど。毎日カミーユの顔を見るためにはそれ相応の無理をしなければならなかったのである。まあ、その疲れもカミーユの笑みを目にすれば一気に吹っ飛ぶものだから、我ながら現金だとは思うのだが。


 そんな状態であったため、今回のオペラは、下手すれば眠ってしまうのではないかと思っていた。シークレットルームという、誰にも邪魔されない場所だから、尚の事。

 だが、だ。




 ……カミーユが隣にいるというのに、眠るわけがなかったな。




 熱心に舞台を見つめて一喜一憂する彼女の横顔をじっと見つめて、それだけで癒され、満たされるような気がしていた。


 大きく開いた神秘的な茶色の瞳。まだ未婚である証の、結い上げていない、ゆるやかに波打つ長い亜麻色の髪。茶色のシックなドレスはその瞳に合わせたのか、光の加減で紅色に輝いて見える。

 ほっそりとした顔立ちは可愛いと言うよりは美しいと言える雰囲気だったが、喜怒哀楽を惜しみなく浮かべる今の彼女は、とても愛らしかった。


 まあ、アルベールにとっては、彼女がどんな表情を浮かべていても、可愛らしく、美しく、そして愛おしいのだが。




 ……本気で、このまま連れて帰ってしまいたい。何一つ不自由のない空間で、ただただ好きなことをして生きていて欲しい。俺の傍で、俺だけに微笑んでくれていれば、それだけで良いのだが。




 アルベールがカミーユに望むのは、それだけだった。ただ笑って生きていてくれさえすれば、それで。

 もちろん、突き詰めて行けば、もっとたくさん彼女を知りたいし、触れたいとも思う。愛し合えればこれ以上ない程に幸せだと思うし、求められれば他に望みなど何もなくなるだろう。


 けれど、何よりも願うのは、カミーユの幸せ、ただそれだけなのだ。幸福そうに微笑む彼女を隣で見守ることが出来たら、アルベール自身も幸福だと感じるだろう。今まさに、楽しそうな彼女を見て、自らも楽しいと感じるように。

 そんなことを、改めて思った。


 舞台の内容はやはり分からず仕舞いだったけれど、結局アルベールは一睡もすることなく、カミーユの隣という特等席に座って、心地良い時間を過ごしたのだった。


 オペラの舞台が閉幕した後、興奮冷めやらぬ様子のカミーユをシークレットルームに残して一度階下へと降りたアルベールは、一度オペラハウスの外に出てカミーユが好みそうな軽食と飲み物を手配した後、再びオペラハウスの中へと戻った。


 従業員に声をかけ、支配人を呼ぶように頼めば、先程シークレットルームへと案内してくれた支配人は慌てた様子で駆けつけてくれる。部下たちの話をし、快く受け入れてもらった後、早々にシークレットルームへと引き返した。


 少しでも早く、カミーユの元へと戻りたかったから。




 誰も入れないようにと伝えはしたが、相手が高位貴族ならば拒み切れない可能性がある。俺の名前を出してなお振り切って入る者ならば、処罰するにしても躊躇する必要はないだろうが……。




 王族が秘密裏に訪れることもある一室であるため、普通に考えれば従業員の静止を振り切って押し入るなんてこと、どんな貴族でも思いも寄らないだろう。万が一にもないとは思うが、と考えつつ、階段を足早に進んで行って。

 階段を登り終えたアルベールは、すぐにその事態に気付いた。


 先ほど自分が出て来たシークレットルームの扉の前。二人の男と共にいるのは、見覚えのある一人の女性。勘違いでなければ、彼女は先ほどシークレットルームの隣室で控えていてくれた付き添いの従業員である。


 そんな彼女と、二人の青年が言い争うように言葉を交わすのが目に入り、アルベールはほっと息を吐いた。どうやら彼女が、シークレットルームへと入ろうとした者を止めてくれたようだ、と。




 だがあの声量ならば、彼女の耳にも入っているかもしれぬな。




 不安がっているであろう彼女を早く安心させてあげなければ。そのためにも、早いところあの扉の前の者たちを追い払い、部屋へ入ろうと、そう思っていたのだけれど。


 だんだんと、何かがおかしいと気付き始めたのは、廊下の半分ほどに差し掛かった時。青年二人と従業員の会話に耳を傾けたその時だった。




「だから、俺たちはあくまでも、彼女と話してみたいという令嬢の手助けをしたいだけなんだ」




「親しい意中の相手に、不審に思えるほど急に求婚相手が出来たというのですから、心配するのも当然でしょう。彼女は自らの想い人が、騙されているのではないかと不安になっただけです」




 明らかに貴族の子息であろうその青年たちの言葉に、アルベールは眉を顰める。その言葉の意味が上手く理解できなかったから。




 令嬢の姿はないようだから、彼らはその令嬢のために彼女を連れて行きたいというところか。彼女のことを求婚相手というならば、その令嬢の意中の相手は俺なのだろうが。……だが。




 自分には、親族以外に親しい令嬢など一人もいないはずである。

 夜会などで礼儀として挨拶をすることはあっても、私的な言葉を交わす異性など、残念ながら存在しなかった。


 もちろん、勝手に話しかけてくる令嬢たちは数えきれない程いたが、形式的に家門の方は覚えていても、名前は覚えていないというのが素直な感想である。

 おそらく、彼らの言う自分と親しい令嬢というのも、そういった令嬢の一人なのだろう。そんな一方的な間柄で、親しい、というのも厚かましい話だが。


 何より、扉の前であのように大声を出して会話をしていれば、彼女の耳に届き、いらぬ誤解を生むかもしれない。やっとほんの少しだけ、自分という存在に慣れ始めてくれた彼女が、また距離を置くようなことになったならば。


 思い、深く溜息を吐いた後、アルベールは近づいてきた三人に、「そこで何をしている」と低く口を開いた。




「ご、ごきげんよう! ミュレル伯爵様! 私は……」




「お久しぶりです、閣下。覚えておられますでしょうか、先日の……」




 我先に、とでも言うように、二人の青年は歩み寄ったアルベールに対して言葉を発し始める。決まりきった挨拶。しかしその声音には、緊張のようなものが混じっていて。


 アルベールが違和感を覚えると同時に、「閣下!」と、二人の言葉を遮るように、従業員の女性が声を張り上げた。




「部屋の中へお急ぎください! 申し訳ございません、私の力不足で、侵入を許してしまって……!」




 ……何?




 従業員の言葉に、一気に頭が回り始め。

 侵入を許した。ここにはいない令嬢。扉の前に陣取る二人の青年と、それに向かい合う従業員の位置。




「退け!」




 一瞬のうちに思考は巡り、アルベールは蒼褪める青年たちを押し退けて扉を開く。ただただカミーユの身に何かあったのではないかと、そればかりが心配で。


 「お、おい。大丈夫か?」という、焦ったような男の声が部屋の中から聞こえたのは、丁度その時だった。




「急にどうされましたの?」




 続いて聞こえた来た、聞き慣れない女の声。

 視界を邪魔する一組の男女と、その先に、おそらく先ほどの声の主である男女。そして。


 青い顔で自らの身体を抱き、俯く、カミーユの姿。




「貴様ら、何をしている」




 口から出た声は、想像していたよりもずっと低く、冷たい物だった。途端、部屋の中の空気が一気に変わる。重苦しい、冷えたそれに。


 視界を邪魔する、扉のすぐそこにいる男女に加え、声を出した令嬢と令息がぱっとこちらを振り返る。焦ったような表情で、「閣下、これは……」とか、「わ、わたくしたちは何も……」と言い訳めいた言葉を口にするけれど。


 全て、どうでも良かった。アルベールの視界には、カミーユの姿しか映っていなかったから。




「カミーユ……!」




 普段は適度な距離感を感じられるようにと、気を遣っていた敬称すら忘れ、アルベールはカミーユの元へと駆け寄る。怯えさせないように彼女の前で腰を落として膝をつき、「カミーユ、俺だ。分かるか? アルベールだ」と、ゆっくりと声をかける。


 本当ならば、その肩を抱き、その心を落ち着けてあげたいけれど。男である自分がそんなことをすれば、それこそカミーユは恐怖に襲われるだろうと分かっていたから。


 カミーユは震えながら、焦点の合わない目で宙を見つめていて。しかしその視線の先に現れたアルベールの姿に、ゆっくりと数度瞬いた。




「アルベール、様……」




「ああ。そうだ。もう大丈夫だ。俺がいるから、誰も君に危害を加えることはない」




 ゆっくり、ゆっくりと。少しでも安心出来るように、穏やかな口調で言葉を紡ぐ。先程までの冷たい声が嘘のように、甘い声音で。


 カミーユは、何かを確かめるかのように真っ直ぐにアルベールを見つめた後、ほっとしたように、深く、詰めていた息を吐き出した。

 「申し訳、ありません……」と、呟きながら。




「お騒がせして、しまって……」




 震えの止まらない肩。伺うような視線。か細い声。

 明らかにその顔から色を失ったまま、しかし平静を装って、言葉通り申し訳なさそうに言うカミーユに、アルベールはくしゃりとその顔を歪めて、首を横に振って見せる。「君が気にすることなど、何もない」と言いながら。




「さあ、疲れただろう? もう少し休むと良い。あの者たちは、……俺から話があるから」




 気丈に振舞おうとするカミーユのその姿に胸を痛めながら、アルベールはちらりと視線だけを背後へと向ける。カミーユをこのような状態にした者たちへと。

 特徴的な藍色の目を細め、刺すようにそれぞれへと目線を送る。身動きさえ取れない様子の四人は、その青く染まった顔のまま、びくりと肩を竦めていた。


 もちろん、今回の責は彼らだけにあるわけではない。何よりも、彼女の傍から離れた少し前の自分が、アルベールからすれば最も腹立たしかったが。

 それを口にすれば、また彼女が気に病んでしまうだろうと、分からないはずもなかった。


 立ち上がって自らの上着のボタンを外して脱ぎ、彼女に触れないようにその肩にかける。今だに自らの身体を護ろうとするように抱くカミーユの姿が、あまりにも寒々しく見えたから。

 拒まれるかとも思ったが、カミーユは驚いたような顔をしただけで、素直にそれを受け入れてくれた。そのまま、彼女の身体に触れることなく、ソファに腰掛けるように誘導する。


 カミーユは素直に腰を降ろし、こちらを見上げてきた。少し不安げな表情は、後ろにいる、言葉の一つも発せなくなっている四人が気になるからだろう。


 カミーユが落ち着けるように、早いところ追い出さなければと、アルベールは「扉の外で話してくるから、少しだけ待っていてくれ」と言って、彼女の前で踵を返そうとして。

 つ、と、腕の袖口を引かれた気がして、アルベールはその場に立ち止まった。




「…………?」




 顔を向ければ、アルベールの右腕の袖口を掴む、カミーユの小さな手。縋るようなその姿に動揺し、アルベールはまじまじとカミーユの手元を見つめる。

 どうやら自分の行動に気付いていないらしい彼女は、不思議そうな顔で、振り向いたアルベールの方を見た後、その視線の先を追っていて。


 次の瞬間、はっとしたように、その手を放した。「あ、ご、ごめんなさい!」と、小さく呟きながら。




「引き留めるつもりは……。あの、お待ちしております、ね」




 そう言って、少しだけ淋しそうな、心細そうな顔でカミーユは笑う。

 その健気な姿に、苦しくなるほどに心臓が痛んだ。ただ『慣れて来た』程度である自分に対してでも、傍にいて欲しいと思う程、怯えているというのに。

 それでも彼女は、必死に何でもない顔を作るのだ。


 あの日と、同じように。




 ……だから、守らなければならないと思ったというのに。




「……思えば、ここでするような話もさほどないだろう。貴様らは、このまま大人しくこの場から消えろ。こちらからの抗議文は、それぞれの屋敷に明日にでも届けさせる。……覚えておけ。俺は、自らの最愛を怯えさせた者に温情を見せるほど、優しくはない」




 再度真っ直ぐに四人へと視線を向けて立ったアルベールは、低い声音でそう告げた。


 彼らの姿を目にした者も多いこの場で、カミーユに何か危害を加えるという事は考えにくい。相手が平民であるならば、有り得ないとも言い切れないのが嫌な話ではあるが、カミーユはれっきとした子爵家の令嬢である。見たところ、この場にいるのは伯爵家の面々ばかり。格は下になるが、カミーユもまた貴族である以上、余程考えなしでもなければ手を出すつもりはなかっただろう。


 だからといって、容赦するつもりはないが。




「お、お待ちくださいませ、アルベール様! わたくしたちは本当に、何も……!」




 四人を代表するように、前に立った令嬢が焦ったように声を張り上げる。確か、バルテ伯爵家の令嬢であったか。


 全くもってどうでも良いが。




「貴様に、俺の名を呼ぶのを許した事などないはずだが。……聞いていなかったのか。俺は貴様らに、消えろと言ったんだ」




 低く低く、響く声。ぞっとするような怒りが篭ったその言葉に、声を発した令嬢以外の三人は、慌てたように踵を返す。紳士淑女らしからぬ、品の欠片もない姿を見届けた後、アルベールは再度、一人残った令嬢に顔を向けた。「何をしている」と、再度低く呟けば、その細い肩をびくりと震わせていて。


 きっと、ソファに腰かけたカミーユの後姿を睨みつけた後、彼女は踵を返し、部屋を出て行った。同時に、アルベールは深く溜息を吐く。あれで、この国でも有数の伯爵家の令嬢だとは。




 ……確かバルテ伯爵家は、エルヴィユ子爵家に探りの手紙を送っていたな。




 あくまでもエルヴィユ子爵家の出方を伺っている様子であったため、大した対処をしていなかったのだが。

 帰宅後すぐにでも抗議文を送り付けなければと考えつつ、静かになった部屋の中で、カミーユの方へと視線を戻す。


 カミーユは少し不安そうに、アルベールの顔を見上げていた。




「あの、先程の……、バルテ伯爵令嬢は、アルベール様の落し物を拾われてこの部屋にお越しになったようでした。……お話しなくて、よろしかったのですか?」




 おずおずと告げられた話に、アルベールはなるほどと一人納得する。そういう口実で、扉を開かせたのか、と。そしておそらくは従業員の女性が対応に出て、そのまま扉の向こうで足止めを食らうことになったということだろう。




「ああ、構わぬ。本当に俺の持ち物を所持しているのならば、追い出されそうになった際にそれを見せたはずだからな。言い分の一つとして」




 自分たちは何もしていない。理由があったから部屋に入っただけだと、そんな言い訳をするために。

 そうしなかったのは、実際には何も持っていなかったからに他ならなかった。


 「心配しなくても大丈夫だ」と、カミーユに声をかければ、彼女は数度瞬きをした後、納得したように、「そう言われてみれば、そうですわね」と言って頷いていた。その顔に、困ったような笑みを浮かべて見せながら。


 その笑みを眺めて、アルベールは彼女に気付かれないように、ほっと息を吐く。真っ青になっていた顔色も、少しは戻って来たようだ。肩の震えもおさまり、身体を抱いていた腕は、淑女らしく膝の上に置かれていた。


 ほっそりした頬が僅かに紅く色付いたのを見て、アルベールの顔にもやっと、安堵の微笑が浮かぶ。良かったと、心の底から思った。




 この愛らしい顔から血の気が失せたのを見た時は、気が気ではなかったが……。




 まじまじと自分の顔を眺めるアルベールに、カミーユは不思議そうに首を傾げていた。無防備なその様に、やはりこのまま連れ帰ってしまうことが出来たら、絶対の安全を約束できるのにと、何度となく消し去ろうとした考えを、諦め悪く思い返してしまう。

 彼女がそれを望むとは到底思えないから、アルベールもまたそれを実行しようとはしなかったけれど。


 もしカミーユがそれを望んでくれたならば、自分は喜んで彼女を自らの領域に閉じ込め、彼女を傷付けようとする全てから遠ざけてみせるのに。

 彼女が傷つくからと表に出すことはないけれど、紛れもなくそれが、アルベールの本心であり、望みであった。

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