第7話 少しだけ可愛い人。
「……人違い、ではないでしょうか。どれだけ考えても、私は閣下……アルベール様と言葉を交わしたことを、思い出せないのです」
考えて、考えて。出した答えがそれだった。
どうしても思い出せない、目の前の男性の姿。
男性に恐怖を覚えるとは言っても、その美醜が分からなくなるわけではない。
一度見たら忘れることの方が難しい程の、美しい容貌。日々の鍛錬によって鍛えられた、すらりとした体躯。公爵家の嫡男らしい、気品に満ちた仕種。
余程今とは違う姿で出会ったのだろうかと思うも、幼い頃からその整った容姿を称えられていた彼の姿が、そう簡単に変わるはずもなく。どれだけ思い出そうとしても一向に記憶の中に現れないその姿に、カミーユはそう結論付けたのだった。
夜会などでご挨拶をしたことは覚えているわ。けれど、それだけのはず……。
英雄閣下と呼ばれる相手に対して、かなり失礼なことを言っている自覚はある。しかし身に覚えがないのは本当のことであり、そうなるとアルベールは、誰かと勘違いして自分に求婚しているということになるわけで。
求婚されて困るというのもあるが、それ以上に、地位も名誉もあり、英雄としてこの国を救った彼が誤った選択をするのを、見過ごすのはさすがに気が引けた。
アルベールはそんなカミーユの言葉にも動揺する様子を見せず。しかし少しだけ淋しそうな顔で目を細める。「そう思うのも、無理はない」と、彼は呟いた。
「カルリエ卿もまた、私の姿を見ただけでは思い出せなかったからな。……だが、思い出してくれた。だからこそ、私が君に求婚することを認めてくださったのだ」
「……お父様が……?」
頷き、カップを口に運ぶアルベールをまじまじと見つめる。なるほど、と思った。父が急にこの婚約話に前向きになったのは、そういうことだったのか、と。
つまり、彼の言っていることは本当だ、ということだろう。
……でも、やっぱり思い出せないのだけれど……。
首を捻りながら思うカミーユの内心を知ってか知らずか、アルベールはくすりとその顔に微笑を載せ、「気にすることはない」と言った。
「私のことを忘れていても、構わない。私は覚えていたとしても、君にとっては他愛ない記憶だろうから。……それよりも、君には、今の私を知って欲しいと思う。私も、君のことをもっと知りたい」
柔らかな表情でそう言われてしまえば、それ以上その思い出とやらを追及することは出来ず。胸の中にもやもやしたものを抱えながら、カミーユは自分でも分からない何かを誤魔化すように、淑女らしい笑みを浮かべて見せたのだった。
アルベールとの時間は、いつも、そうやって穏やかに過ぎて行った。
言葉を交わし、茶を呑み、本を読んで。特別に何をするでもなく、日常に少しずつ、彼の存在が溶け込んでいくような、そんな日々が続いて。
彼がカミーユに求婚してきてから、もうすぐ二週間が経とうとしていた。
アルベールはこの二週間近くの間、一日と空けずにエルヴィユ子爵家を訪れていた。花や菓子、ドレスや宝石、カミーユの趣味である、レース編み用のレースなど、毎日毎日、飽きもせずに何かしらの手土産を携えて。
しかもその全てが高価で品が良く、カミーユの好みにぴったりだというのが、感心するのを越えて少々恐ろしかった。おそらく、身内の者が話したのだろうけれど。
彼に会ってすぐに手の平を返した父はもちろんのこと、そんな父に話を聞いたのだろう母。加えて、最初はあれだけ反対していたエレーヌでさえも、今ではこの縁談に賛成していた。
エレーヌは、カミーユに対するアルベールの特別扱いが気に入ったらしい。夜会では、無礼ではないものの、あれほどまでに無表情の仏頂面だというのに、カミーユの前では日々嬉しそうに表情を緩め、愛しそうに見つめる姿が良いのだとか。
甘やかな小説を好む、夢見がちな少女らしい発想のようだった。
アルベールが良い、というよりは、カミーユだけを見つめるアルベールが好ましいらしい。エレーヌ曰く、アルベール単体ならただの観賞用、という認識らしかった。
だから、今度ジョエル様にも同じように、自分だけを特別扱いしてもらうのだとか言っていたわね。ジョエル様はお優しいから、応えてくれるでしょう。
優しい元婚約者を巻き込んでしまったような申し訳なさを感じながら、カミーユは僅かに苦笑した。
そういうわけで、エルヴィユ子爵家内で現在この縁談に反抗しているのは、当事者であるカミーユだけなのだった。いくら両親が配慮してくれているとはいえ、貴族の結婚は、必ずしも本人の同意が必要なわけではないということを、カミーユ自身も分かっている。
反抗というよりは、諦観が勝っている、というだけなのだ。
アルベール様は、噂とは違ってその態度も雰囲気も、とても優しくて、好感を持てる方だけれど……。高貴なあの方に、触れることも出来ない妻などあってはならないでしょうから……。
彼はこのエルヴィユ子爵家の屋敷を訪れると、最初に必ずエスコートを申し出てくる。あの悠然として、いつも自信に満ちた振る舞いをする英雄閣下が、僅かにこちらを窺うように、じっと見つめてくるのだ。
そしてカミーユが躊躇い、断れば、大丈夫だと言って困ったように微笑む。自分は待っているつもりだから、と言って。
『君のペースで、私に慣れてくれればそれで良い。君が私に慣れてくれるまで、いつまでも待つつもりだ』
彼自身は、そう言うけれど。もし本当に結婚するのだとしたら、どれだけ抗おうと、早いうちに跡継ぎの問題が出てくるだろう。彼は王位継承権を持つ公爵家の嫡男であり、伯爵なのだから。
ジョエルとの婚約も、それを考えたからこそ、解消するに至ったのだ。
カミーユが責められるのはまだしも、そのせいで彼を矢面に立たせるわけにはいかなかった。
かといって、余所で愛人を作ってもらうというのも、一人間としてどうしても頷けなかった。カミーユ自身の問題が原因であり、我儘だと思われるかもしれないけれど。
それならば、結婚などせずに一生独り身の方が気が楽だと、考えは最初に戻ってしまうのである。
国王陛下からの手紙のこともあるから……。ひと月ほど様子を見てから、お断りするべきよね。
絶対に無理強いはしないと、その態度で示してくれるアルベールならば、カミーユが正式に申し出を断れば、それ以上は何も言わないだろう。
何よりも、そんな風に事細かに気を遣ってくれる彼には、自分のように問題を抱える者ではなく、もっと別の誰かと当たり前に幸せになってもらいたい。
そんな風に、思うのだ。
「……オペラ、ですか?」
今日も今日とてエルヴィユ子爵家を訪れたアルベールと共に、庭を散歩していたカミーユは、アルベールの言葉にそう問い返した。
ここ数日は、一歩分だけ離れた隣を歩くようになったアルベールが、「ああ」と言ってこくりと頷く。「君が好きだと聞いたから」と、彼は続けた。
「演目は、『バラチエの君の救い』だ。君の好きそうな演目だと思ったんだが」
「違うだろうか?」と暗に問いかけてくるアルベールに、カミーユは思わず大きく首を縦に振る。「とても好きですわ……!」と、気付けば大きな声で言葉を返していた。
「災害から国を救うために身を捧げ、薔薇の花に姿を変えた心優しい少女と、そんな彼女を救うために身分を捨てた騎士様のお話ですわね……! 災害の元凶だったドラゴンを倒したけれど少女はすでにいなくて、涙する騎士様の目の前で、ドラゴンの血を浴びた薔薇が少女に姿を変えるのが何とも感動的で……」
興奮気味に一気にそこまで喋ったカミーユは、はっと目を大きく開く。
飽きもせずにこちらを見つめるアルベールは、カミーユの言葉に静かに相槌を打ちながら、相変わらず幸せそうな顔で微笑んでいた。
慌てて、こほんと僅かに咳払いをする。好きな小説の中でも一際お気に入りの物語の題名が出て来て思わず我を忘れてしまった。「えっと、原作はそういうお話なのですが……」と、カミーユは自らの醜態を誤魔化すように続けた。
「原作は、ただのロマンス小説ではなくて、騎士様の冒険を主に描かれているので、冒険小説としても人気があるのです。オペラの方もほとんど完売状態で、チケットが手に入らないと、小耳に挟んだのですが……」
偶然聞いた、というように言葉を紡ぐが、実はエレーヌと二人で見に行こうとして、チケットが買えなかったのだ。カミーユがどうしても見に行きたくて、エレーヌに付き添いを頼んだのである。エレーヌもまた、原作の小説を読んでおり、カミーユほどではないものの、気に入っていたため、それでは、ということになったのだ。
いつもならば、客人として男性も多いオペラハウスになど行きたいとは思わなかったが、好きな小説が原作であり、しかもその小説が好きな友人たちまでもが絶賛する演目であったため、無理を押してでも行こうとしたのだが。
そこまで考えて、はっとする。
まさか。
「……エレーヌから、聞かれました?」
本当は、どうしても行きたかったけれど、行けなかっただけだということを。
チケットが買えなくて、数日間しょんぼりしていたことを。
偶然を装った手前、恥ずかしさもあって恐る恐るアルベールの方を見上げる。
アルベールは微笑を浮かべたまま、何やら小さく呻いて固まった。かと思えば、深く息を吸って吐き出してから、何事もなかったように笑みを深めていて。「ああ、気付かれてしまったか」と、呟いた。
「妹君が、君を喜ばせたいなら、と。確かにチケットは完売していたのだが、丁度私の母もその演目を見に行くつもりだったようでな」
「君が見たがっていると言ったら、喜んで譲ってくれた」と続けられて、カミーユはぎょっとしてしまった。
今、母のチケットを譲ってもらった、と言ったのだろうか。彼は。
母、って……、ベルクール公爵夫人のチケットを譲ってもらったの……!?
背の高いアルベールを見上げたまま、固まってしまう。
パーティで何度か挨拶をし、言葉を交わしたことのあるベルクール公爵夫人は、輝く金色の髪に深い翡翠色の瞳を持つ女性だった。色合いこそ全く似ていないのだが、氷の妖精と謳われたそのあまりにも美しい容貌と、冷たい雰囲気がアルベールにそっくりだったのを覚えている。
先王の弟であり、現国王の叔父にあたるアルベールの父、ベルクール公爵が、髪や瞳の色はアルベールと全く同じだったものの、どちらかというと穏やかでふんわりした雰囲気を持った方だったため、アルベールは色彩以外は全て母似なのだと、社交界では有名であった。
そんな麗しの公爵夫人のチケットを、たかが子爵家の令嬢である自分が横取りするなど。
「お、恐れ多いことを……」
思わずぶんぶんと首を横に振って言えば、アルベールはくすくすと楽しそうに笑って、「気にするな」と呟いた。
「母はすでに一度観劇しているから。内容が良かったので、もう一度見ようと席を取ったのだそうだ。私が君を誘うつもりだと言ったら、何故もっと早く言わないのかと怒鳴られてしまった。君が遠慮して返そうものなら、私が余計なことを言うからだと、また腹を立てるだろうな」
「だから、遠慮なく誘われて欲しいのだが」と、アルベールは首を傾げて微笑む。
一方、あの美しい貴婦人が、誰かを怒鳴るところなど想像も出来ず、カミーユは困惑の表情を浮かべながら、「わ、分かりました」と言って頷いた。
何はともあれ、あの演目を見られると思えば、楽しみで仕方なかった。
公爵夫人には、お礼のお手紙を送らないと……。一緒に贈るのは、お花で良いかしら……。公爵夫人に相応しい贈り物って何があるかしら。……ああ、でも、本当に嬉しい……! オペラを見る前に、もう一度小説を読み返しておきましょう。
両手を組んで口元に寄せ、我慢できずににこにこと微笑む。
嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。何せ、次に再演されるまでは見ることは出来ないだろうと諦めていたのだから。
それもこれも、全て目の前の青年のおかげだ。
「本当にありがとうございます、アルベール様……!」
満面の笑みを顔に載せたまま、カミーユは真っ直ぐにアルベールを見てそう声を上げた。本当に嬉しいのだと、そう伝わるように、しっかりと彼の藍色の目を見つめて。
と、アルベールは唐突に口許を自身の手で覆うと、珍しく、困ったように僅かに目を逸らして、もごもごと何やら呻いた。
かと思えば、一拍の後にその手を降ろし、その美麗な顔にこれ以上ない程の柔らかい笑みを載せる。
「君が喜んでくれて、良かった」と、どこかほっとしたように言う彼の頬はほんのりと赤く染まっていて。
ほんの少しだけ、可愛いと思ってしまった。
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