第5話 門前払いへの対処。
一頻り三人で言葉を交わした後、アルベールはバスチアンと二人、サンルームから場所を移した客間で向かい合っていた。
貴族の結婚は、基本的に自分ではなく親が決めるもの。令嬢であれば特にその傾向が強い。国王からの褒美があるとはいえ、公爵家の嫡男という、制約の多い生まれのアルベールもまた、すでに両親の了解を得た上でこの場に足を運んでいる。
カミーユと結婚したいと申し出て、本人がもし了承してくれたとしても、目の前のエルヴィユ子爵が拒否すれば、それは叶わないのだ。だからこそ、こうして二人で話す時間を望んだ。アルベール自身が。
ベルクール公爵家の嫡男であり、すでに伯爵という地位についているアルベールを前に、バスチアンは緊張した面持ちでお茶の手配をする。そんなに畏まる必要などないのだが、とアルベール自身は思うけれど、周りはそうはいかないのだろうということもまた、理解していた。
「それで、……わざわざカミーユを遠ざけて、私と話したいこととは、一体何でしょう?」
警戒心も露わに訊いてくるバスチアンに、アルベールは僅かに苦笑してしまう。
確かに肩書きは王族や、ベルクール公爵家の当主である父の次に仰々しいものだけれど、アルベールはあくまでもまだ二十九の若者であった。今年、五十の歳に差し掛かろうというバスチアンにここまで
これは、早めに伝えた方が良いだろうなと、そんなことを思った。バスチアンの知らない、真実を。
「カミーユ嬢は、随分と立ち直りましたね。あの時は、もう無理かと思っていたけれど。……男相手に、言葉を発することさえも」
運ばれてきた紅茶に手を伸ばしながら、のんびりとそんなことを口にする。案の定、バスチアンの方を窺えば、彼は奇妙なものを見るような目で、こちらを見ていた。
「何のこと、ですか」と、バスチアンが警戒心を更に強めながら問うてくる。紅茶を一口啜り、それをソーサへと戻すと、アルベールは背後に控えていた従者に合図を送った。さっと、彼はある物を差し出してくる。それは。
「隠さずとも、大丈夫です。私はあの日、あの時、あの場にいました」
「それは、どういう……」
ことでしょう、とでも続けるつもりだったのであろう、言葉が、バスチアンの喉の奥へと消えていく。アルベールが、従者から受け取ったそれを、ゆっくりと頭の方へと運んで。
さらりと、いつもの自分のものとは違う、真っ黒な髪が、目の前で揺れた。
「彼女をあの場から助けたのは、他ならぬ私ですから」
にっこりと微笑み、静かに告げた言葉。
カミーユと同じ、少し不思議な輝きを持つ茶色の瞳が大きく見開かれる。
「君は……」と、バスチアンはまるで信じられないとでもいうような声音で、呟いた。
「その姿は、確かに、あの時の……。では本当に君が、あの……」
「ええ。お久しぶりです、エルヴィユ子爵閣下」
頭に被せたウィッグを外しつつ、アルベール・ブランとしてではなく、数年前に一度だけ装った、別人としての言葉を告げる。
その時の自分よりはずっと、悠然とした態度だったけれど。
バスチアンはしばらく、声も出ない様子でこちらをまじまじと見ていて。
深く、息を吐いた。「そう、だったのか……」と、独り言のように呟きながら。
「なぜなのかと、そう思っていた。君のような男が、なぜたかが子爵家の令嬢であるうちの娘を選んだのか、と。何かおかしなことに巻き込もうとしているのではないかと、そう思っていたのだが……」
気の抜けたような声で言い、バスチアンは僅かに掠れた笑い声を上げる。「そういうこと、だったのか……」と、再度彼は呟いた。
「君がいたから、少なくともあの子は、男を完全に拒絶することはなかった。触れることは恐れても、言葉を交わすことをやめることはなかった。今はもう婚約を解消したが、ジョエル君との婚約関係を続けられていたのも、君のおかげのようなものだ。……君には、感謝しても、しきれない程の恩がある」
怯えた表情で立ちすくみ、しかし毅然と前を向いて。アルベールが彼女を救い、事が全て終わった後でも、彼女は決してその淑女然とした様子を変えなかった。けれど。
目を離したその瞬間、堪えきれなかったように泣き出した彼女の姿を、今でも覚えている。震えるその小さな肩を、覚えている。
あの時、思ったのだ。彼女を脅かすものを、煩わせるものを、放ってはおけないと。
彼女を、護りたいと。
それも、彼女が婚約を発表した時に、潰えたはずの想いだった。消さなければならない想いだった。
そんな考えとは裏腹に、おかしい程に、消えることなどなかったけれど。
ぽつぽつと、バスチアンの口から零れた言葉は、アルベールが思っていたよりも大袈裟なものだったけれど。アルベールがそう素直に口にすれば、面白そうに笑われてしまった。
「大袈裟なものか」と言うバスチアンからはもう、自分に対して抱いていたであろう警戒心は感じられなくなっていた。
「あのようなことが起きたんだ。男を怖がるどころか、人間そのものを恐れ、部屋に閉じこもっていてもおかしくはない。けれど、あの子はそうならなかった。全て、君のおかげなんだ。……君があの子を貰ってくれるならば、これ以上に嬉しいことはない。安心して、あの子を預けられる」
まるで気の抜けたように、安心した様子で話すバスチアンに、アルベールもまた僅かに息を吐く。ここまで話してなお、彼に拒絶されたならば、為す術などなかった。それこそ、国王に願い出て、婚約を命じてもらうくらいのことをしなくてはならなかったはずだ。
まだカミーユ本人の了承を取ったわけではないけれど、ひとまずエルヴィユ子爵家から門前払いされることはないだろうと、アルベールは素直に安堵していた。
「私は、君たちの結婚に賛成だ。それにあの子も、相手が君であると分かれば、すぐにでも婚約を了承するだろう。……君がいなくなって、随分と落ち込んでいたから」
心なしか嬉しそうな表情で、今にもカミーユを呼びに行きそうなバスチアンに、アルベールはゆっくりとその首を横に振る。彼女が、自分がいなくなったことを悲しんでくれたのなら、これ以上にない程嬉しいことだけれど。
「彼女には、伝えないつもりです」と呟けば、彼は不思議そうな、驚いたような顔をしていた。
バスチアンには、彼に認めてもらえなければ婚約など不可能だと、そう理解していたから自らの過去を明かしたが、アルベールは、カミーユにそれを伝える気はなかった。
彼女の傍にいる権利を得ようとするならば、どう考えても一番の近道だろう。確かにあの時の自分は、彼女にとってなくてはならない存在だったから。そう、分かってはいたけれど、それでも。
「あの時の私と今の私は、……必ずしも、同じ人間ではありません」
視線を、手元に置かれた紅茶のカップへと移しながら、アルベールは苦い笑みと共に呟く。香り立つ紅茶の表面には、いつもの自分とは正反対の、どこか自信なさげな青年の姿が映っていた。
「あの時の私は、私という一個人にしか責任もなく、この上なく自由でした。誰と話そうと、何をしようと、縛るものは何もなかった。けれど、今の私は、……本来の私は、公爵家の嫡男であり、伯爵という地位を賜った人間です。地位に見合った責任のために、冷たい顔を晒すたびに、過去の、何のしがらみもなかった自分と比べられるのは……、辛い」
あの時の、何の憂いもない自分を本来の姿とするならば、地位を得、様々なものに配慮する自分は偽りの姿なのかもしれない。けれど、その偽りの姿は、責任ある立場の者として、必ず必要なものでもある。
彼女の傍にいる時は、確かに本来の自分でいられるだろう。けれど、その端々には、確実に責任を負った自分の姿があるのだ。その姿をカミーユが目にしたら、どう思うだろうか。冷たい態度を取る自分を厭い、拒絶しないとも限らない。
アルベールにとって、そのことが一番、恐ろしかった。
「あの頃のように、優しいだけの自分を見せられないと分かっているから、伝えない方が良いと思うのです。今の、周囲には不愛想だと言われている自分を愛してもらえるよう努力した方が良いと」
だから、彼女に伝える気はないのだと、アルベールはそう、バスチアンに伝えた。浮かべた笑みはきっと、どこか悲しそうなそれであっただろう。
バスチアンは複雑そうな顔をしたけれど、少しの間を置いた後、こくりと頷き、「分かった」と呟いた。
「君がそう決めていることを、私がどうこう言うわけにはいかない。君の意志に従おう。……だが私は、娘に君を選んで欲しいと思う。娘のためにも。だから、君には頑張ってもらわなければ」
そう言って微笑む彼の様子に、背中を押されたような気分になる。彼女の隣に立つ事を求めても良いのだと、そう言われた気がした。
そんなバスチアンに、アルベールもまた笑みを浮かべて、「善処致します」と応えた。
「私は、彼女の望まないことはしたくない。だから、彼女が私との婚約を拒絶するのならば、それを受け入れます。生涯を独りで生きていくつもりです。遠くからでも、間接的にでも、彼女を守れたら、それで良い」
それは、騎士の一族の性質かもしれない。この人だと決めた相手を、切実に求めて、忠誠を誓う。だからこそ、髪を渡すような風習が今も続いているのだろう。決別し、また次の相手を、なんて、考えもしないから。
唯一無二、ただ一人だけを想い続ける気質だから。
同じ騎士の家門であるバスチアンも、アルベールの言い分に納得出来たのだろう。「もしあの子が君を求めなくても、許してやってくれ」と、少しだけ悲しそうに笑っていた。
それからしばらくの間、アルベールはバスチアンと共に、他愛無い会話を続けた。その大半がカミーユの事で、自分の知らない彼女の姿を知るのは、これ以上ないほど楽しかったが。
控えていた侍従に声をかけられて、アルベールは渋々席を立った。
「それでは、私はそろそろお暇致します。本日はお時間をくださり、ありがとうございました。また明日、お伺い致しますね」
先程、話の中で決まった次の訪問について口にすれば、バスチアンは楽しそうに頷く。「期待しているよ」という彼に、アルベールもまた同じ気持ちで頷いていた。
踵を返し、扉のもとまで進んだところで、そういえば、と思いアルベール足を止める。そのまま振り返り、バスチアンの方を見遣った。
「先日の騒ぎの後、何か変化はなかったでしょうか。周囲からの圧力や、接触など、私に関わる事で、不快に思われるような事は」
ずっと気になっていたのだ。自分が思っている以上に、周りは自分のことを気にしているから。
先日、パーティーのど真ん中でカミーユにプロポーズしてしまったことを、アルベール自身が後悔する事は無いけれど。少なくとも自分の妻の座、つまりは公爵夫人の座を狙っている令嬢やその家族に、カミーユが煩わされるのは、アルベールとしては許せない事だった。
バスチアンは一瞬驚いたように目を瞠った後、苦笑混じりに「両手で足りないほどには、手紙が届いたな」と応えてくれた。
思わず、眉根を寄せるアルベールに、バスチアンは「カミーユは知らないから、心配いらない」と言ってくれたけれど。
これから家族になろうという人たちの気分を害する事そのものが、アルベールには気に入らなかった。
「そのお手紙、私がお預かりしても? 私の方から対応しておきますので」
どうにかして、エルヴィユ子爵家に干渉しないように対処しなければならない。
バスチアンはアルベールの言葉に頷き、すぐに侍従に件の手紙を持ってこさせる。トレイの上に乗せられた手紙は、確かに両手の指の数でも足りない程、山のように積まれていた。
「あの日から毎日のように届いているが、君に会うまではと何の返答もしていない。元々、この婚約話を白紙にするつもりだったが、一度君の話を聞いてみなければと、そう思ったからね。……慌てて返事をしなくて良かったよ」
「今では、ぜひともこの話を進めたいと思っているからね」と言うバスチアンに頷き、アルベールは差し出された手紙を受け取った。
ちらりと視線を流しただけでも、伯爵家や子爵家、果ては公爵家の名前まである。同じくらいの家格であればバスチアンでも対応できるだろうけれど、伯爵家以上の家門への対応は難しかっただろう。
「期待に応えるためにも、こちらの対処はお任せを」と言い、アルベールは背後に控えていた自分付きの侍従にその手紙の束を渡した。
エルヴィユ子爵の屋敷を出て、自分が乗って来た馬車に乗りこむ。座り心地の良い椅子に身を預けて、侍従から先程バスチアンから預けられた手紙を受け取り、それを眺めた。
「……さて、俺の最愛を煩わせようとは、……良い度胸をしている」
どのようにして、そのような気を起こさせないようにすべきかと、アルベールは一人考え始めた。
カミーユの心身を煩わせるものを排除する。それこそが、アルベールにとって最も重要な課題だったから。
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