第3話 最愛の人への贈り物。

 奇跡が起きたのだと、そう思った。そうとしか、思えなかった。

 彼女が、カミーユ・カルリエが、婚約を解消する、なんて。




「アルベール、お前、それどうした?」




 ギャロワ王国の王城、国王の執務室に呼び出されたアルベールは、挨拶をする間もなくかけられた言葉にぱちりとその深い藍色の目を瞬かせる。主君でもあり、幼い頃から話し相手として言葉を交わすことを許されていたギャロワ王国の若き国王、テオフィル・ギャロワは、アルベールと同じ藍色の目を、これまで見たこともないほど大きく見開いていた。


 的を得ない質問に、アルベールは僅かに首を傾げるも、しかしその視線の先が自分の肩の方に向かっているのを見て、ああ、と思い直す。手をそちらへと伸ばせば、指先がさらさらと銀色の髪の毛先に触れた。

 アルベール・ブランの象徴とも言われていた、美しい銀の長い髪は、今では肩につかない程の短さになっていた。




「求婚相手に贈るために切りました。歴史あるベルクール公爵家の騎士として、伝統は守らなければと思いまして」




 静かに、顔色一つ変えることなく言えば、テオフィルが何故か嬉しそうにその口角を上げる。「そうか! あの噂は本当だったか!」と、彼は嬉々として声を上げた。




「お前が結婚どころか婚約者すら作らないから、あのような褒美を与えたせいだとどれだけ詰られたことか……。お前が相手を決めないのならば自分も結婚しないという貴族の令嬢が続出して、頼むからその髪だけでも切って見せてくれと令嬢たちの親に散々嘆かれたが……。これでもう安心だ……」




 テオフィルはどこか遠くを見るような目で言い、深く息を吐く。どうやら知らぬ間に彼には苦労をかけていたらしい。アルベールからすれば知ったことかという話ではあったし、だからと言って、申し訳ないとは別に思わなかったけれど。




「髪を贈るということは、正式に受け入れてもらえたのだな? 相手は誰だ? お前が、婚約を解消した令嬢に突然婚約を申し込んだとしか聞いていなくてな。眉唾ものの噂だと、本気にもしていなかったが……」




 きらきらと目を輝かせて言う国王に、アルベールは何というべきかと僅かに逡巡する。やはり、まだ髪を切るのは早かっただろうかと、彼の反応を見て思ってしまったのだ。


 ギャロワ王国に属する騎士たちは、幼い頃から髪を切らず、伸ばしておくのが一般的である。そうして長い年月を自らと共に過ごした髪を、生涯を共にする相手に贈るのが伝統なのだ。騎士として、戦争へ赴けばいつどのようにして命を落とすかも分からないため、もし戦地で殉死した時は、その髪を見て自らを思い出してほしいという願いを込めて。


 だからこそ、髪の長い騎士は、まだ生涯を共にする相手がいないということの証明であり、それを切るということは、自分を覚えておいて欲しいという人に出会えたという証なのであった。


 通常は婚約をした際に、自ら選んだ箱に、自らの瞳の色を模したリボンで結んだ髪を納め、相手に贈るものなのだが。


 アルベールはテオフィルの言葉に、ゆっくりと首を横に振った。




「婚約を申し込んだ話は本当ですが、返事はまだ頂いておりません。この後、屋敷の方へと伺うと伝えております」




 テオフィルに呼び出されていなければ、とうにカルリエ家に到着していたはずなのだが、そこまで言うわけにはいかないだろう。気安い相手であっても、相手は一応、この国の国王である。


 思うアルベールの心のうちなど知るはずもなく、テオフィルは一度アルベールの頭から爪先までを眺めた後、「ああ、だからか」と納得したように呟いていた。




「随分とめかしこんでいると思ったら。どこの夜会に出るつもりかと考えていたが、そういうことなら話も分かる。……少々、気が早いような気もするが、まあ、それだけお前が本気だということだろう」




 「それで」と、テオフィルは続けた。




「その相手は誰なんだ? 私も知っている令嬢か?」




 好奇心に瞳を輝かせながら聞いて来るテオフィルに、アルベールは少しだけ首を傾げる。テオフィルが、彼女のことを知っているか、否か。

 「名前は間違いなく、聞き覚えがあるかと」と、アルベールは呟いた。




「私が婚約を申し込んだのは、エルヴィユ子爵家の令嬢、カミーユ・カルリエ嬢です」




 言い、テオフィルの表情を窺う。顔は知らずとも、その名前は知っているはず。聞かせたのは、他でもない自分だから。


 テオフィルは少し引っかかりを覚えたような顔になった後、「カミーユ・カルリエ嬢……、エルヴィユ子爵家……」と、口の中で小さく呟いていて。

 「あ!」と、急に声を上げた。




「カミーユ嬢と言えば、二年前にお前が婚約を申し込むことにしていた、あの……。申し込む直前に婚約発表されて、諦めるしかなかったとか言っていたが、まさか……」




「ええ。間違いなく、そのカミーユ嬢です」




 やはり覚えていたかと思いながら、素直に頷けば、テオフィルは何とも言えないような顔でこちらを見ていた。「何か」と、不思議に思って問いかければ、彼は乾いた笑みを浮かべて、「いや」と呟く。「全く諦めきれてないじゃないかと思っただけだ」と続いた言葉に、アルベールは数度瞬きをして、首を横に振った。


 確かに、あの場では諦めるしかなかった。いや、彼女が婚約を解消するあの瞬間まで、確かに自分は諦めていたのだ。彼女と結婚することを。誰かと結婚することを。自分は確かに、諦めていたのだ。


 「陛下は知っているでしょう」と、アルベールは呟いた。




「私が、……俺が、なぜ先の戦争で先陣を切ったか」




 ぼそりと言えば、テオフィルはまたも何とも言えないような顔になって、「まあ、知ってはいるが」と呟いた。




「それこそ、カミーユ嬢と婚約出来ず、自暴自棄になったとか。そうお前は言っていたが、正直、全く信じていなかった。……が、信じずにはいられなくなったな。諦めたと言っていたくせに、二年越しに捕まえようというのだから。……大した執着心だ」




 半ば呆れたようにぼそりと言うテオフィルに、アルベールはふっと小さく笑った。残念ながら、彼の言葉を否定することが出来なかったから。


 深い深い、恋情が凝り固まったような執着心。それゆえに、彼女と結ばれることがないと分かった時は、この命さえもどうでも良いと戦場に赴き、彼女が婚約を解消したと聞いた時はその場で婚約を申し込み、返事がどちらであってもその心に残るようにと、こうして先に髪を切って贈ろうとしているのである。


 「まさかお前が」とテオフィルが呟くのも無理はない話。自分も、他人の話として聞いていたなら同じ顔をしていただろうから。




「ある意味、彼女が婚約していたおかげで、お前はこの国を守ることが出来、英雄と呼ばれるようになったというわけか。では、最も感謝しなければならないのは私かもしれないな。どれ、私からも一言添えておこう。今から早馬で手紙を出せば、お前が到着するよりは先に届く。……最も、お前との婚約を断ることはないと思うがね」




 言いながら、テオフィルは何やら机の上の紙に書きつける。今彼が言ってように、カルリエ家に出す手紙なのだろう。


 普通ならば、そのようなことは必要ない、と言っていたかもしれない。アルベールにも、矜持というものは少なからず存在していて。それ以前に、結婚を考えるほどに愛する相手に対し、直接ではないにしても、王命を匂わせる形で決定を下すようなことはしたくなかったから。


 けれど今回、アルベールは素直にそれを受け入れることにした。それほどまでに、切羽詰まっていたと言えるだろう。正式に婚約を申し込んだ以上、次はないと分かっていたから。




 テオフィルも、誰も彼も、俺が求婚しているのだから当たり前に受け入れられると考えているようだが、……そう上手くいくとは思えぬからな。




 アルベールの知るカミーユは、元々責任感の強い女性である。その彼女が婚約を解消したということは、何かそれなりに理由があったのだろうとアルベールは考えていた。だからこそ、自分のことを何も知らない状態で求婚を断られる可能性も捨てられず、そのようなことだけは避けたかった。


 本当は、何も知らないというわけでもないのだけれど。




「それにしても、与えた褒美を使って早々にカミーユ嬢の婚約を破断にさせて、婚約することも出来ただろうに。……まあ、根が真面目なお前に、そういう道理に欠けた行いは無理か」




 言いながら、テオフィルは書き上げたらしい手紙を背後に控えていた侍従へと渡す。急ぎで送り届けるように言っていたから、自分がカルリエ家に到着する時にはすでに届いていることだろう。


 そう思い、少しだけほっとした。これで門前払いされる可能性は減ったわけだから。もっとも、次期公爵であり伯爵でもあるアルベールを門前払いすることなどまず無理な話だが。ようは気持ちの問題である。


 「正直なところ、それも考えました」とアルベールが言えば、テオフィルは驚いた顔でこちらを見ていた。




「ですが、カミーユ嬢に嫌われる結果になるのが目に見えておりましたので。……他の誰がどのような視線を向けて来ようと構いませんが、彼女にだけは、嫌われたくないのです」




 想像するだけでも肝が冷える心地がする。今でさえ、夜会に顔を出したとしても、彼女と目が合うことすら稀だというのに。その目に、自分に対する嫌悪が浮かんだら、なんて。


 そんなことを思いながら僅かに目を細め、視線を落として溜息を吐けば、テオフィルが少しだけ楽しそうに笑っていた。「そんな顔も出来るのだな」と言って。




「それはまあ、努力次第だろうな。少なくとも、無理矢理破談にさせたわけではないから、最悪の心象ではないだろう。お前がそうやって物憂げに語りかければ、大抵の令嬢たちは靡きそうなものだが、……そこまで自信を無くすほどだ。慎重に心を通わせることだな」




 「髪まで切ったんだ。頑張れよ」と、国王ではない、気安い友人の顔で言うテオフィルにアルベールもまた小さく微笑み、頷いた。


 「彼女に逃げられたら、お前結婚しないだろ。身分差よりも、そっちの方が困る」というテオフィルの疲れたような呟きは、聞こえないふりをした。

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