ウイニングエース~少女たちは甲子園を目指す~

本野倖

序章 中学生篇

第1話 最後の試合

 二〇二一年、夏――

 日本中どこへ行っても猛暑日のような夏の日、女子高校野球の決勝戦が初めて野球の聖地甲子園で開催された。当時小学二年生で夏休みだった美郷優里はたまたま目にしたそれに何時の間にか食い入るように見入っていた。

 それまで野球を観ることは殆ど無かったし、甲子園が何なのかも優里は良く分かっていなかった。だが、その甲子園という舞台で土に汚れて汗を流しながらも溌溂とした笑顔を浮かべて心の底から楽しそうに懸命にプレーしている高校球女たちの姿にまだ幼かった少女は何かを感じた。

 そして自分も野球をやりたいと思った。ただやるだけではない。甲子園で野球をやりたいと強く思った。

今になって思えば随分変わった動機だな、と優里は当時を思い出して苦笑したことがこれまで何度かあった。でもその想いが優里にとって野球を始める動機であり、原動力となった。

これは明日より遠くて昨日よりずっと近い少し未来の話――

 

 

 ブルペンの土をスパイクで軽く均しながら美郷優里は空を見上げた。

海のように澄んだ青い空には雲一つなく、遮るもののない七月の太陽が容赦なく日光を下界に向けて注いでいる。その暑さにうんざりとしながら優里は額に浮き上がる汗を拭った。

「ラスト一球!」

 まだ試合が始まっていないのに既にこれだけ暑いのか、そんなことを内心で考えながら優里は投球練習を続けた。暑さに対する不安は拭えないが投球の調子自体は悪くは無い。左腕から放ったストレートが低めに構えた捕手の田原理子のミットに吸い込まれていく。

「オッケーナイスボール!」

 理子が捕球したのを確認して優里はブルペンのマウンドから降りた。

「ナイスボール。優里」

「そっちこそナイスキャッチ」

 二人は互いのグラブを合わせて笑い合ってベンチに戻っていく。彼女たちにとって中学最後の試合がもうすぐ始まる。

 

 

  橘京華は慌てたように観客席へ通じる階段を駆け上がって行った。

「っともう始まってるじゃない」

 階段を駆け上がった先の通路を抜けるとお目当ての試合はもう始まっていた。

「二回途中で三対〇か。一方的ですね」

 橘の後に華やかな制服に身を包んだ二人の女子生徒が付いてきていた。二人とも橘が勤めている桜彩女学院の生徒で彼女が監督している女子野球部の部員だ。

「こんな初戦からわざわざ観に来る必要あったんですか先生」

 そう口にしたのは女生徒の一人、太田麻子だった。高校生の自分たちが中学生の大会のしかも初戦から偵察させられていることに疑問を隠せないでいた。

「確かに、観るならもっと勝ち上がってからでも良いと思います」

 もう一人の女子生徒の霧生美影は落ち着き払った表情でグラウンドに向ける。リードしている八尋中学の攻撃中で二死ながら走者を一二塁に置いている。

「それはそうだけどこの試合には高城南海が出てるのよ。新世代の」

「新世代?ああ、美影も入ってるあの括りですか」

「私は変な称号付けられて辟易してます」

「あはは、まあそれだけ期待されてるってことだから」

 苦笑した橘は「この辺に座ろうか」とバックネット裏の空席に腰を下ろした。

「新世代ってここ最近よく耳にしますけどいくら突出した才能の持ち主達だとしても女子野球の未来を変える存在って随分期待されてますよね」 

 太田の言葉に「実際ここ数年で女子野球の全体的なレベルが急激に上がってるからね。それだけ今後に掛かる期待は大きい故なんじゃないの」と橘が答える。

「今や当たり前のように夏の高校野球で女子も試合が出来るようになったし、女子野球も全国的に広がって来たからね。私が高校生の頃とは大違い」

「その女子野球の未来を変える存在の一人が今から打席に入る高城南海って訳ですね」

 そういうこと、と橘は頷いた。

「この年代の選手の中じゃ最注目の選手の一人だからね。来年以降戦う可能性が高いから今のうちに観られる試合は観ておこうと思ったのよ」

 そう言って橘は手持ちのバッグから一冊の雑誌を取り出してパラパラとページを捲った。

「ほら、このページ」

 橘が二人に見せてきたのは野球雑誌の特集ページだった。有力な育成年代選手の紹介している『女子野球の未来を切り開く新世代に迫る!』という仰々しいタイトルが見開きでデカデカと載っているページに高城南海の名が写真付きで掲載されている。

「へぇ……『中学屈指の強打者。美しきアーチスト』ですか。凄い評価ですね」と太田が見開きページを見ながら驚いたような声を上げている。

「打者としての実力は確かだからね。中学の通算打率は六割越えてるって聞くし」

「それは確かに凄いですね……」

 言いつつ美影がグラウンドに目を落とすと丁度噂の美しきアーチストが打席に入った所だった。軽く足場を均し、自然体の構えでマウンドに目を向けている。

(確かに雰囲気はあるな……)

 果たしてどれ程の物なのか、と品定めするように美影はジッと高城南海に目を向けていた。



 四番の高城が打席に立つと優里の緊張感は一層増した。それを振り払うように軽く息を吐いてからロジンを掴んで指先の感覚を確かめる。

(初回は綺麗に一本貰ったからこの打席は気を付けて行かないと)

 一死一三塁で迎えた一打席目は四球目のストレートを左中間に弾き返されて二点タイムリーを与えてしまった。

(ツーアウトだけど一二塁にランナーがいる。ここは最低でもシングルで抑えてランナーをホームに返したくない)

 理子のサインに頷き、セットポジションから第一球のストレートを外角低めに投じる。

(よしっ……!良いコース!)

 優里としては会心の一球だったそれは糸を引く様にミットに吸い込まれていく。だがコースを僅かに外れていたのか判定はボールだ。高城はこの球に反応せず、視線を真っ直ぐ優里に向けている。

(良い球だと思ったんだけど……それにしても良く見えてる)

 今の球に反応することなく、高城は見逃した。最初から打つ気が無い見逃しなのか外れると分かっての見逃しなのかは分からないが、見透かされたような見逃しは投手にとって思った以上のプレッシャーだ。

(これが新世代……やっぱり侮れない)

 慎重に入った二球目は低めにカーブが外れてツーボールとなった。

 

 ツーボールのカウントで高城は自然体に構えて次の球を待っている。一塁の埋まった状況で敬遠は考えにくし、二球続けてボールのカウントだけに三球目はストライクを取りに来るだろう。彼女はそれを狙っている。

 そして続く三球目が低めに来た。

(ストレート?いや……曲がってくる!)

 高城の読み通りカウントを取りに来た球だったが、手前で内角に横滑りしてきた。スライダーだ。

(キレはあるけどこのコースなら打てる……!)

 変化の曲がり際を叩くように高城が振り出したバットは最短距離で正確に球を捉えた。鋭いスイングに潰されるかのように球は金属音と共に弾き返されてレフト側のファール席に吸い込まれていった。


 甘く入ったとは言え、スライダーをあんなにも簡単に運ばれたのに優里は動揺を隠せなかった。

(ちょっと甘く入ったけどあんなあっさり……)

 目の前で対峙している打者は同年代のはずだ。しかしこの如何ともしがたい実力差は対峙すると嫌でも実感させられる。

(いや、駄目で元々。やれば出来る。諦めさえし無かったら勝負は分からないんだから)

例えどんな実力な差があったとしてもエースで主将の自分がそれを理由に勝負を諦める訳には行かない。野球は互いに九人で行うスポーツで対等な勝負だ。主将である優里の後ろには共に乗り越えて来た仲間がいる。今はそれを信じて投げるだけだ。

(次は低めにカーブ……ベースギリギリを狙って!)

 優里は投じたカーブは外に外れながら緩やかなスピードで直進していくが、ベース付近で大きな弧を描くように斜めに滑り落ちた。右打者にとって内側に変化し、ベースを掠める軌道で低めに沈んでいく。見逃せばストライク取られる球だ。

(よし!決まった!)

しかしそれを見逃す程高城は甘く無かった。彼女はボックスギリギリまで左足を踏み込み、流し打ちから半ば泳がされた体勢になりながらも下半身は両足でしっかりと地面に根を張って上半身は伸ばした腕を強引に回すように力強く振り切って落ち際のカーブを芯で捉えた。

(なっ!?それを捉える!?)

 掬い上げる様に振り切ったバットから響く乾いた金属音と共に白球は天に高い弧を描いてライトの後方に向けて大きく伸びていく。

「いっけえぇぇ!!」

 天高く舞う打球に叫んだ高城は行方を見ながらも全力疾走でダイヤモンドを駆けて行く。

「ライト!追いつける!!」

 マウンド上から優里が叫ぶ。その声に応える様にライトも追い掛けるが、それを嘲笑うかのように打球はグングンと伸びて行き、吸い込まれるかのようにライトスタンドの芝生に飛び込んで行った。

「うわあぁぁぁ!!!入ったぁぁぁ!!」

「高城南海のスリーランアーチ!!」

「流石新世代!凄いバッティングだ!!!」

 観客席が大きく湧いた。それだけ高城南海という打者のバッティングに期待していたのだろう。

「ナイバッチ!!南海!!」

「先輩流石です!!」

 高城は右手を高く上げながら悠然とした足取りでダイヤモンドを一周し、飛び出して来たチームメイトとハイタッチを交わし、手荒い祝福を受けている。

 優里と高城の第二ラウンドはライトへのスリーランホームランでまたしても高城に軍配が上がった。



 上手く打ったな、と橘は今の高城の打撃に唸りながらそう呟いた。

「緩いカーブに体勢を泳がされながら柵越え……しかも軟式で。これが中学生のバッティングか……」

 霧生は黙り込みながら先程の打席を振り返っている。

(投手の投げた球もけして失投じゃ無かった。でもそれをスタンドまで持っていくか。この球場もプロが公式戦で使うんだから両翼も狭くは無いが……)

 恐るべきは高城のセンスだ。ボディバランスは勿論だが、土台となる下半身も強く、しっかり地面に根付いて打球に勢いをつける様に振り切っていた。

「流石レベルが高いですね」

 太田がボソッと呟くと「確かに」と橘は頷いた。

「今の高校球女でも同じ芸当が出来る選手が果たして何人いるかしら」

そう言って橘は何か考える様に黙り込んだ。



 高城の一打にショックを受けながらも続く五番打者をレフトフライに抑えて優里はベンチに下がっていく。

(コース自体は悪く無かった。でもあれを打たれたら――)

 投げる球が無い、そう言いかけて優里は首を横に振った。またしてもネガティブな感情が自分を支配しようとしている。諦めそうになるとすぐ現れるこの人間らしい素直な感情が今は鬱陶しかった。

(にしても二回を終わって六対〇か。完全にペース握られちゃったな。次の回こそ抑えないと)

 最もそれが出来れば苦労しない、そんな感情に蓋をしながら優里がベンチで腰を下ろした。

「キャプテンすいません。私が弾かなかったら無失点で切り抜けられたのに」

 謝ってくる一つ後輩の三塁手である澪に「大丈夫大丈夫。まだ二回終わったばかりじゃない」と気丈に励まして優里はベンチに腰を下ろした。

 しかし七番から三回表の攻撃は何の反撃の糸口も掴めぬまま、あっさりと終了してベンチには嫌な雰囲気が流れた。それを振り払うかのように優里は誰よりも早くベンチから出た。ナイン達が重い足取りでグラウンドに出ていく中で優里は手を叩きながら全力疾走でマウンドに登った。

「ほらまだ三回裏なんだから下向かない!諦めたら勝てるものも勝てなくなるよ!」

試合に負けているのも勿論悔しいが、意識という本人の想い次第でどうとでも出来る些細な所ですら相手に負けているのは嫌だった。そんな思いを察してか他のナインたちも足早に自身のポジションへ散って行った。

(まだ負けてない。終わっても無いのに諦めるなんてしたくない!)

 勝利への執念を燃やしながら優里は振りかぶり、理子のミットに今自分が投げられる最高の球を投げ込んだ。


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