第17話 ペテン師


「敵ながら電光石火の攻略でした」

 正直が感心したような顔で、織田信長の鮮やかな手並みを振り返った。

 勝悟が長井道利の調略に成功し、中濃への侵攻を形作った直後に、信長は斎藤氏の居城である稲葉山城を攻略してしまったのだ。

 この件に関しては、他の者も素直に頷くしかなかった。


 勝悟が道利と会った翌日に、まるで武田の動きを読んでいたかのように、信長は堂洞城の囲みを解き、そのまま西美濃に転進した。それからわずか三日で、難攻不落を誇っていた稲葉山城を落としてしまった。


 信長は堂洞城を囲んでいる間に、既に西美濃三人衆と呼ばれる有力な国人衆を調略し、稲葉山城の支城ネットワークを断ち切り、丸裸になった城を強引に攻め切ったのだ。まるで堂洞城への攻撃は、武田の目を中濃にひきつけるための、デモンストレーションのようにさえ思えた。

 これで、東美濃と中濃の二地帯は武田が抑えたものの、美濃で一番肥沃で人口の多い地域を信長に奪われてしまった。


 しかも美濃の覇権をめぐる全面対決を避けるために、織田方のくさびのような存在として中濃に残った加治田城を、武田に無条件譲渡する代わりに、美濃を割譲支配する和睦案を持ち掛けられた。

 勝頼はこの和睦案に対して返事を保留し、今後の対織田の方針を協議するために主だった家臣を集めた。


「織田案は、木曽川上流の猿啄城から岐阜城を結ぶ線より、北側を武田、南側を織田とし、岐阜城以西は織田とするものです」

 正直の説明に対し、皆言葉が出ない。

 美濃の平野部の大半は織田に抑えられ、武田が得る地はほとんどが山岳部で、平地は美濃太田から関へと続く僅かな部分しかない。

 何よりもこれで武田が機内へ進出するルートは完全に閉ざされ、和睦に従って信長が機内勢力を駆逐する様を、指を咥えて見るしかなくなったのだ。


「信長の持ち掛けた提案への対処を考える前に、我々は決めなければならないことがある。父上のご裁断を得ることなしに、織田への対処を進めて良いかだ」


 勝頼はこの場の責任者として、当然の懸念を口にした。

 例え親子と言えども、この下剋上の世では、謀反を疑われたら最後だ。それは遠く源平の世においても、源義経が頼朝に疑われて破滅した例がある。


「勝頼様、この度の遠征にあたって、高遠城のお館様と交わした約束をお忘れですか。我々の目的は美濃の地に武田の橋頭保を築くことで、織田を滅ぼすことではございません。そのために必要な現場での判断は、勝頼様のご裁量に任すと、お館様はおっしゃいました。後から十分な説明ができれば、私たちだけで判断しても問題ないはずです」


 ここが肝心とばかりに力を込めて説得する勝悟の顔をじっと見つめ、勝頼は大きく息を吐き、すっきりとした顔に変わった。

「そうであったな。大事を話し合う前に下らぬことを申してしまった。それでは軍議を続けよう」


 秋山信友がそんな勝頼の様子を見て、満足げに顔をほころばせる。

 戦国の世を生きる常として、主家の後継者たちの成長こそ家の安泰に最も大事なものだ。

 勝頼の聡明な頭と素直さは、未来に向けて明るい希望だ。


 この場に列席が許された道利は、更に大きな感動に心を揺さぶられていた。道三が死んでからというもの、義龍、竜興と二代に渡って、常に謀反を疑われないように行動を強制され、そのために生じる遅れが、信長の侵攻を許したと言っても過言ではない。


「ではまずは、信長の申し出を断って武力衝突をした場合を考えてみましょう。侵攻する道は二つあります。一つは猿啄城を攻め落として、南方から尾張北部へ攻め入ります。これは時間がかかりますが、信長の足を止める有効な方法です。ただ、猿啄城は要害に築かれた難攻不落の堅城ですから、力攻めでは落とすのは難しいと思われます」

「猿啄城の守将は川尻秀隆か。信長の側近中の側近だな」

 調略でないと落ちないと断言した勝悟の言葉に、道利がそれも難しいことをそれとなく示唆した。


「そうなのです。ここからの侵攻は例え落とせたとしても味方の被害が大き過ぎるので、ひとまず捨てましょう。次に考えられるのは長良川沿いに進んで、北から回り込む方法です。この場合、隘路を進むことになるので、平野への出口で待ち構えた大軍に各個撃破されて、猿啄城攻め以上の犠牲を出して何も得られないでしょう」

 勝悟の説明にみなは声も出ない。


「では、和睦を受け入れるとして、その後をどうする。ぐずぐずしていると、織田がどんどん大きく成っていくのではないか?」

「はい。稲葉山城を落としたことで、先の将軍足利義輝様の弟君義秋様が信長に接触したと、三ツ者から報告されています。来年には義秋様を立てて上洛することは間違いないでしょう」

「足利家を前面に立てられては、武田としてはいくさを仕掛けにくくなるな」


 勝頼は武田の血筋が足利家と同じ、清和源氏であることを意識して、あからさまの上洛妨害には気が引けるようだ。

「上洛はさせても良いと思います。信長は先日美濃を岐阜と改め、天下布武の号を発しました。この裏には自分自身こそ、武力で日ノ本の王となる意思が見えます。やがて義秋様とも決裂して、武田に織田追悼の密書が来ましょう」

 勝悟の先を見通した考えに、一同は舌を巻いた。勝悟にしてみたら、既に歴史で学んだ知識を述べているにすぎないが、その論理的な話し方が周囲の者に確信を与え、引き込んでいくのだった。


「では、それまで我々は何をする?」

 信友ほどの知恵者が、思わず先を急ぐように勝悟に戦略を求めた。

 他の者も息を潜め勝悟の答えを待つ。

「北を目指しましょう」

「北?」

 みなが意図を理解できずに狐につまされたような顔をした。

 正直や小助でさえ、ポカンとした顔で勝悟を見た。

「北とは飛騨のことか?」

 信友が訝し気に勝悟に聞き直す。


 飛騨は山国で侵攻路も細い山道となり、大軍を動員できない。ゆえに地の利を活かして守られると攻略が難しい。よしんば苦労して攻め落としても、山国の痩せた土地からは収穫は少なく、人も少ないから流通にも乏しい。

 そして飛騨の先にある越中は、上杉謙信の目下の侵攻先であり、あの精強な上杉軍と再び戦火を交えることになる。

 わざわざ北に侵攻する目的が分からず、さすがに信友も困惑の表情を隠せないでいた。


「飛騨は少数の軍でゆっくりと攻めれば良い。元々我々には大軍を動員するほどの兵力をこの地に持っていません。我々の矛先が北に向かっていることを周囲に知らしめれば、いいのです」

 ますます一同の困惑は深まっていく。


 勝悟はそんな様子を無視して、説明を続けた。

「我々が今川との関係を強化したことで、織田の同盟国である徳川は侵攻先を失いました。このまま織田が大きく成るのを手伝うだけでは、いずれは織田の属国になる未来が待っています。独立を保つためには、織田の侵攻に合わせて、少しでも東に領土を広げたいところです」

「しかし、我々が恵那から明智まで抑えた今となっては、北から三河に圧力がかかるので、容易には動けまい」

 信友がこの侵攻には今川を守る意味があったはずだと、怪訝な顔をした。

「徳川は我々が北に矛先を向けたと知れば、ここぞとばかりに遠江を攻めるはずです」

「まさか……」

 勝頼は顔色を変えた。

 義信の手前、今川を攻めさせるための飛騨侵攻には抵抗があった。


「今川はこの先領国経営に特化して欲しい。そのためには武田の常設軍が防衛のために領内に必要だが、現状では、それを遠江に置く理由がない。そこで、西からの脅威を肌で知ってもらうのです。これを武田が撃退し、そのまま曳馬城あたりをもらい受け、常設軍を置くことを認めさせる。その軍の維持にかかる費用は、今川に支払ってもらいましょう」

 勝悟としては日米安保の構図をそのまま持ち込んだわけだが、その場にいる者はまだ信じられない顔でいた。


「今川もかっては東海一と謳われた面子がある。さすがにそれは飲まないだろう」

「ですから、その気に成るぐらい徳川に勝ってもらうのです。駿河の手前、掛川城が陥落寸前になったときが、助けに入る頃合いでしょう」


 勝頼は目を閉じて考えている。様々な葛藤が繰り返されているのだろう。額には汗が滲んでいた。

「分かった。この謀略の責任は私が持つ。それで徳川の侵攻はいつごろになると思う」

 ついに勝頼が決断した。

 もう、他の者にも迷いはなかった。


「おそらく来年信長が上洛に成功し、近江の南部と伊勢を支配下におさめたあたりで、動くはずです。それまで、我々は飛騨を少しずつ追い詰めて、陥落寸前まで攻めておきます。その様子を見て、徳川は飛騨が我々の手に落ちる前に動き出すはずです」


「その間、我々は飛騨を攻めるだけではないだろう?」

 信友の頭脳が凄まじい回転を始めていた。

 勝悟は我が意を得たりと、にっこりと笑った。


「その通りです。我々は飯田から中濃までの道をひたすら広げます。その後で、東美濃から曳馬に続く道も広げます」

「道を広げる?」

 正直が不思議そうに訊いた。


「そうです。道を広げる理由は二つ。一つは大軍の往来を可能にすること。加えて大工事は多くの人を集めます。人が集まればその人たちの生活を面倒見るために、また多くの人が集まり流通が盛んになって金がこの地に集まります。それが二つ目の理由です」


 勝悟の説明は終わったが、正直だけが何やら考え込んで動き出せずにいた。

「正直殿、どうされました?」

 勝悟が訊くと正直は顔を上げて心配そうに話し始めた。

「曳馬城はともかく、その先の掛川城の城主朝比奈泰朝やすともは、今川家の中でも指折りの将だと聞きます。駿河が後詰に控えている状態で、いかに家康が猛攻を加えても掛川城はびくともしないのではないかと思い、心配になりました」

 そうなると、武田の遠江侵攻はただの援軍となり、曳馬城への兵駐屯や駐在費用の要求は難しく成る。


「実はこれも三ツ者からの情報ですが、どうも織田軍は城攻めの新たな方法として、南蛮渡来の南蛮気道を会得したようです。これをご覧ください」

 勝悟は一本の銀の十字架を皆の前に置いた。


「これは耶蘇の者が使う数珠の代わりのようなもので、クロスと呼びます。これを持った二人の兵士が射手の肩に手を置いて矢を放つと、その矢には三人分の武気が乗り、盾や城壁を貫くそうです。これにより堅城の定義は大きく変わります。厚い鉄板を城壁に仕込まない限り、敵の侵入を防げません」

「もしかして、徳川軍にもそれが伝わっているのですか?」

 正直の顔に不安の色が過った。

「同盟の証として信長が家康に、南蛮気道用のクロスを百個送ったそうです」

「そうなると、徳川軍と戦うとき、我らも南蛮気道への対策が必要ではないですか?」

「大丈夫です。三人の武気を集めなければならないため速射は難しく、動かない城壁はともかく、野戦で騎馬隊の動きを止めることは不可能です。武田騎馬隊なら問題なく打ち破れます」

 一同、ほっとした顔に変わった。


「いずれにしても城の構造を変えない限り、古い城での籠城戦は織田や徳川の軍の前では無力と成ります。今まで以上に野戦の重要度が上がります」

 それが何を意味するのか、勝悟以外はまだ誰もちゃんと理解できていなかったが、今は飛騨攻めから徳川を討つことに全員の心が一つにまとまった。


 勝悟の頭に義信の顔が浮かんだ。この戦略を駿府から古府中に戻ったとき、信玄と義信には説明をした。そのとき信玄は平然とした顔で了承してくれたが、義信は苦しそうな顔で黙っていた。ただ、やめろとは言われなかった。


 盟友今川の将兵が自軍の策で傷つくのは辛いが、両国の未来のためには一度は乗り越えなければならない試練と我慢したのだろう。

 今は戦国の世なのだ。

 義信のためにも、例え後世でペテン師と罵られようと、この策を絶対に成功させると、勝悟は自分の胸に誓った。

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