第七章 調査一日目

 それから数時間後、榊原は橋本と一緒にパトカーに乗っていた。

「しかしな……お前ともう一度、こうして一緒に捜査する日が来るとは思わなかったよ」

 パトカーの後部座席に榊原と並んで座りながら、橋本がそう懐かしげに言った。

「最後に一緒に捜査したのはいつだったか?」

「今から十二年前、私が警察を辞めたあの事件が最後だ」

「そうか……年月というのは早いものだな」

「それは同感だ」

「思えば何だかんだで色々な事件を解決したものだ。例えば……渋谷で起こった女子高生殺しの件は覚えているか?」

「もちろんだ。あの頃の事件は全部覚えている」

 そんな二人の世間話を、土井は運転しながら背中越しに聞いていた。さすがに二人だけで捜査をさせるわけにもいかないので、現場の案内という意味合いも込めて県警本部長から土井がお目付け役として任命されたのだ。中司は気の毒そうな表情で土井の事を見ていたが、大きなお世話というものである。

「さて……思い出話はこのくらいにして、そろそろ本題に入ろうか」

 橋本がそう言って、後ろの会話も真剣なものになっていく。

「今の事件の状況は理解できたという事でいいんだな」

「あぁ、問題ない。しかし、広域手配事件に指定されたとは驚きだな」

「お前はいつからロンドンに?」

「一月の頭……正月が終わってすぐだ。去年の第四の事件までは新聞読んだ程度の事しか知らなかった。もちろん探偵としての興味関心はあったが、千葉の事件だったし、私自身他に仕事もあったからな。一月の事件に至ってはロンドンにいたもので情報すらさっきまで知らなかった」

「そんなものか。お前なら何だかんだ言って新聞の記事だけで全部推理を構築してもおかしくないと思ったんだが」

「冗談を言うな。いくら私でもそれは無理だ。大体、小説ならまだしも、現実の普通の私立探偵はこんなに頻繁に殺人事件に介入したりはしない」

「そりゃ、お前は普通の私立探偵じゃないからな。今でも警察内部にお前の事を信頼している人間は山ほどいる」

「厄介な話だ……。話を戻そう。この手の事件で行き詰った場合は、とにかく疑問点を抽出していく作業が重要だ。疑問点に一つずつ答えていけば、おのずと何かが見えてくる」

「お前らしい捜査手法だよ。で、疑問点はあるのか?」

 その問いに関して、榊原は落ち着いた口調で答える。

「資料を見た限り、被害者の共通点は黒い長髪の若い女性という事だけで、今のところその他にこれと言った共通点は存在しない。いわゆる無差別殺人ともいえるわけだが、無差別殺人なら無差別殺人で疑問点は残る。犯人がどうやって標的を選んでいるのかという点だ」

「それは……その辺で目に入った条件に該当する人間を選んでいるだけじゃないのか?」

「いや、言うのは簡単だがそれはかなり難しい話だと思う。その場で殺すならともかく、犯人は事件の数日前から被害者を尾行した上で殺害を実行している。つまり、その説が正しいなら、犯人は少なくとも被害者をマークした時点から、彼女たちが自宅に帰るところまでは最低でも尾行をし続けなければならない。言うまでもないが、これはかなり骨の折れる作業だ。いくら相手がストーカーだからと言って、ここまでできるのかという疑問はある」

 橋本は唸った。

「確かに……言われてみればそうだな」

「道を行き交う全く関係のない人間の住所を特定するというのは予想以上に困難を伴う作業だ。しかも同じ街の中ならともかく、今回の場合奴の犯行はかなりの広範囲にわたっている。それでもこの犯行を成し遂げようと思ったら、膨大な時間と手間暇、それに資金が必要になる。果たしてそれができる人間が誰なのか。この辺の疑問を氷解させれば、もしかしたら姿を見せない犯人に対する突破口になるかもしれない」

「じゃあ、今からそれを調べに?」

 榊原は頷いた。

「まぁ、これは犯行が無差別殺人だったと考えた場合の話だ。実は五人が何らかの点でつながっていた可能性や、標的が五人の中の誰か一人だけで、後の四人はカモフラージュのための殺人だったという説もないわけじゃない。これなら、住所特定などの手間暇は一切いらない事になるしな。この場合、犯人候補は被害者の関係者の中にいる事になってくるが……今のところは無差別殺人と五分五分か」

 そんな事を言っているうちに、パトカーは最初の犯行現場……木更津市のアパート「シャンゼリゼ」に到着した。事件から数ヶ月が経過し、殺人事件が起きたアパートという事で入居者が相次いで引っ越した結果、現在は事件当時に比べて空室が多くなってしまっている。

「どうする? 聞き込みしようにもその相手がいなくなっているが……」

「最初からその辺は期待していない。というより、もし有力証言があるなら、最初の捜査の時点で警察が気付いているはずだ。私は元刑事として、警察の捜査能力を過小評価するつもりはない」

 そう言いながら、榊原はアパートに入るのではなく、その周囲を見回し始めた。

「何をしているんですか?」

 土井が尋ねる。

「少し現場周辺の状況を見ているんです。何しろ、ここに来るのは初めてですからね。……あれが、問題の喫茶店ですか?」

 榊原はそう言って二百メートルほど離れた場所にある例の喫茶店を指さした。

「えぇ、そうです。あそこのカメラに問題の車が映っていました。そこから奴の黒い車のナンバーがわかったんです。もっとも、盗難車の物でしたが……」

「映像によれば、車は向こうからこっちへ向かっていた。時刻は犯行直前。つまり、問題の映像は犯人が犯行に行くところを映している事になります」

「まぁ、そうなりますね。それが何か?」

「当然、犯行の際にはその車から犯人は降りているはずですね。ですが、見た限りだとこの辺に車を停めるスペースはない」

「それは……」

 確かに、言われればそうである。

「路上駐車でもしたんじゃないか?」

「いや、これから殺人をしようとしている人間が、わずかでも怪しまれる事をするはずがない。リスクを避けようとするのは犯罪者共通の認識だ。心理的に無理だろう」

 橋本の言葉を、榊原が否定する。

「しかし、船橋の事件では路上駐車している映像があったはずだが」

「船橋で犯人が路上駐車した場所は大通りで、普段から路上駐車が多い場所だ。そんな場所なら路上駐車していても問題はない。だが、ここは……」

 榊原は周囲を見渡す。車の通りも少なく、路上駐車している車は一台も確認できない。確かに船橋の場合と違って、こんな場所で路上駐車をすれば間違いなく怪しまれてしまうだろう。

「じゃあ、車はどこに?」

「……私ならあそこだな」

 榊原が指差したのは、少し先にあるコインパーキングだった。入口には当然のように監視カメラがある。

「さすがに事件当時の監視カメラの映像は残っていないだろうな。今さら調べても……」

「いや、そうとも限らない」

 榊原はそう言うと、土井にこう問いかけた。

「土井警部、第一の事件があった当時、当然多くのマスコミがここに取材に来ていたはずですよね」

「え、えぇ。それはもちろん……」

「時刻は昼間。となれば、ヘリからの空撮をしていた局があるのではないでしょうか?」

 土井はあの日の事を思い出してみる。確かに、到着したときにそれらしきヘリが飛んでいるのを見た気もした。

「そうなれば、そのヘリの映像に写っているかもしれません。事件直後の、あのコインパーキングを空から映した映像が」

「しかし、いくらなんでもその頃に犯人の車は去っているはずだが……」

 橋本の指摘に、榊原は頷いた。

「もちろん、犯人の車その物が映っているとは思わないが、それでも事件当時あのコインパーキングに駐車していた他の車の種類くらいはわかるはずだ。そして、その車の主をたどれば何か情報を得られるかもしれない」

「そうか、なるほど……」

 橋本は納得したように頷くと、土井にアイコンタクトを送った。それを見て、土井も慌てて本部に連絡を取り、ヘリの映像からコインパーキングに停車していた車を特定して話を聞くように指示を出す。

「さて、そろそろ中に入るとするか」

 榊原はそう言うと、手袋をしてアパートの中に入っていく。現場となった部屋は現在も封鎖されており、事件当時そのままに保存されている。床に残る血痕もそのままだ。

「鑑識がいじった後ではあるだろうが……調べてみるとするか」

 そう言いながら、榊原は部屋の中を慎重に調べ始めた。橋本と土井は、そんな様子を真剣な表情で見守っている。

 榊原が調べたのは、主に本棚……特にその中でもアルバム関連の本だった。

「被害者の事についての情報がほしい。具体的にどのような人間だったのか……」

 そう言いながら、榊原はアルバムを一ページずつチェックしていく。幼い頃の写真から写っており、どこかの町中にある中華料理店と思しき店の前で写した女の子の写真もある。他の写真を見る限り、周囲にも同じような店が連なっており、どうもこの店が彼女の実家のようだった。

 しばらくは幸せそうな写真が続くが、小学一年生の頃の写真でいきなりそれが暗転した。なぜか崩壊した自宅の写真が登場し、その直後には誰かの葬儀と思しき写真が載っている。崩壊した自宅の日付は「一九九五年一月十七日」となっていた。それが何の日か、彼女の実家が神戸であるという点を考えれば榊原にはすぐにわかった。

「彼女……阪神大震災の被災者だったのか」

 つまり、彼女は震災で誰か親族を亡くしている事になる。その後は他の場所に家を建て直したらしく、後は彼女が元気に成長していく姿が写し出されていた。

「これがどこかわかりますか?」

 榊原は、震災前の店の写真を土井らにも見せた。彼らはしばらく考えているようだったが、やがてふと橋本が発言した。

「これ……南京町じゃないか?」

「南京町というと、神戸の中華街?」

「あぁ、向こうではいまだに南京町と呼んでいる。ただ、横浜なんかに比べて神戸の南京町は地元との仲が良好で、一九八一年の大規模な整備計画の頃に他地域からここへ出店してきた日本人経営の店もないとはいえない」

「詳しいな」

「最近、向こうの一課長と話す機会があって、その時に聞いた」

 橋本がそんな事を行った時、まさにその時だった。

 ガタリ、と玄関の方で何か音がした。三人は反射的に振り返る。ここは一番奥の部屋で、この部屋に来ようと思わない限り、人がやってくる事はない。

「……誰かいるのか?」

 土井が呼び掛ける。そのまま何とも言えない沈黙がしばらくしたが、やがて玄関のドアが小さく開き、誰かが中に入ってきた。

 入ってきたのは背の高い女性だった。どちらかといえば美人の部類に属するだろうが、その顔立ちを見た時点で彼女が日本人でない事はわかった。おそらく東洋系……中国、韓国、台湾系だろうか。

 向こうも中に人がいるのを見て驚いているようだった。明らかに警戒した表情を浮かべている。

「失礼、あなたは一体?」

 土井はそう言ってから、彼女に言葉が通じているのか不安になった。が、これに対する彼女の答えは意外なものだった。

「あなたたちこそ誰なんですか? ここは鮎奈の部屋のはずです」

 完璧なイントネーションの日本語だった。土井は戸惑いながらも警察手帳を見せる。

「警察です。鮎奈さんの事件を捜査しています。それで……あなたは?」

 その答えに相手はホッとした様子を見せた後、改めてこう名乗りを上げた。

「私は王美麗おうみれいといいます。台北大学の大学院生です」

 その自己紹介に、榊原たちは顔を見合わせる。台北大学という事は、おそらく彼女は台湾の人間なのだろう。そんな彼女がなぜわざわざこんなところにいるのかがわからなかった。 

「あの、失礼ですがあなたは鮎奈さんとどのような関係ですか?」

 それに対する美麗の答えに、三人は呆気にとられる事になった。

「鮎奈は……私の従姉妹です。私、鮎奈のお参りに来たんです」


 十分後、三人はアパートを出てこの前の喫茶店で美麗と対峙していた。店主は迷惑そうな表情をしていたが、そこはプロらしく何も言わずにコーヒーを出してくれた。

「しかし、台湾に従姉妹がいたとは……県警はこの事は?」

 橋本の問いに、土井は首を振った。

「いえ、彼女の両親は二人とも日本人です。しかも、双方ともに兄弟姉妹はいないはずです」

「だそうですが、本当のところはどうなんですか?」

 榊原の静かな問いに、美麗はこう答えた。

「鮎奈の母は私の伯母……私の母の姉です。叔母は神戸の大学に留学した後、そこで日本の大学生と知り合って結婚して日本に帰化しました。そこで鮎奈を生んだんです。その後は神戸の中華街の近くで、二人で中華料理店をやっていたという事ですけど……十一年前の神戸の地震で、叔母は家の下敷きになって死んだそうです」

 榊原の頭に、先程の写真が浮かぶ。あれは鮎奈の実際の母親の葬儀の写真だったのだ。

「地震の後、鮎奈のお父さんは店を辞めて別の食品会社で働き始めました。そこで同僚の人と再婚したと聞いています」

「つまり、今神戸にいる彼女の両親は、実の父親と再婚した女性という事ですか」

「はい」

 土井の確認に、美麗は小さく頷いた。

「叔母が死んだ後も、私たちの家と鮎奈たちの家のつながりはありました。鮎奈のお父さんが再婚した時も、みんなでささやかに祝福したくらいです。それに……私が数年前に神戸の大学に留学した時には、鮎奈の家に下宿させてもらっていました」

「あなたが日本に留学を?」

「はい。私、大学では日本文学を専攻しています。将来は大学で教えたいと思っています」

 どうりで日本語がうまいわけである。榊原は続けて質問をする。

「最後に彼女と出会ったのはいつですか?」

「半年くらい前……八月に私の母方の祖父が亡くなりました。その時に家族で葬儀に来てくれたんです。あの時、鮎奈は私にもっと元気を出すように言ってくれたのに……まさかこんな事になるなんて……」

 そう言うと、美麗は俯いて涙を流した。

「その時、彼女に何か変わった様子はありましたか? 何か悩んでいる様子だったとか」

「……いえ、特になかったと思います。むしろ、私を励ましてくれたくらいです。その時の写真も持っています」

 美麗はそう言って力なく首を振りながら、一枚の写真を差し出した。そこには黒い喪服を着て美麗と一緒に写っている井浦鮎奈の姿があった。二人の近くに同じく喪服を着た別の男女も写っているが、これはおそらく鮎奈の両親だろう。

 榊原は写真を返すと別の質問をぶつけた。

「どうして今になってここに?」

「私……すぐにでも来たかったんです。でも、台湾だと場所があまりにも遠すぎて、しかもその時抜けられない学会の発表があって……やっと時間を見つけられたのが今日だったんです。それで……」

「そうでしたか」

 榊原が黙ると、今度は土井が頭を下げた。

「申し訳ありませんが、一応連絡先を教えて頂けますか? 何かあった時に連絡するかもしれませんので」

「は、はい」

 美麗は携帯電話の番号を告げる。土井はそれを丁寧に書き取り、そのまま頭を下げた。

「ありがとうございます。貴重なお時間を頂いて申し訳ありません」

「いえ、構いません。その代り、何かわかったら……ぜひ、知らせてほしいです」

「これからどうされるつもりですか?」

「あの部屋でお参りして……このまま神戸の家に行ってみようかと思っています。それでは、失礼します」

 そう言うと、美麗は小さく頭を下げて喫茶店から出て行った。後には三人だけが残される。

「思わぬところで被害者の痕跡を見つけられましたね」

「えぇ……正直びっくりしました。まさか被害者が台湾の人とのハーフだったとは」

 と、そこへ土井の携帯電話に連絡が入った。土井はそれに出ると、何度か頷いていたが、やがてそれを切った。

「本部からです。指示通りテレビ局の映像を調べた結果、いくつかの空撮カメラに問題のコインパーキングが映っていました。ナンバーも何台かはわかるみたいで、これからそれの捜査に移るそうです」

「そっちは彼らに任せておいても大丈夫でしょう。では、次の現場に行くとしましょうか」

 榊原の言葉を合図に、三人は立ち上がったのだった。


 第二の犯行は幕張だが、位置的な関係で先に木更津近隣の第四の現場・市原に向かう事になった。現場となった「ブルーハイツ三号棟」の近くにパトカーを停め、榊原たちはアパートの前に立つ。ここでも榊原は最初にアパート周辺の状況を確認した。

「この辺で車を停めるとすれば……あぁ、あそこに駐車場があるな」

 榊原はそう言って、アパートから二〇〇メートルほど南にあるスーパーマーケットの駐車場を見やった。

「あそこに停められたら、追跡しようがないな……この事件に関しては目立った目撃証言等はなかったんですよね?」

 榊原の問いに、土井は頷く。

「市原の一件は千葉で起こった四件の中で最も証言的な証拠が少ない事件です。車も含めた目撃証言は皆無で、そもそも被害者本人も自身がストーカーされていたというような発言を生前に一切していません。よほど奴のストーカー行為がうまかったのか、あるいはストーカー行為なしでいきなり襲ったのか……」

「被害者の旦那の証言は結局どうなったんですか?」

「一応事件から二週間ほどして虚脱状態は脱出できたんですが、その後も曖昧な証言ばかりで……今は仕事を休職して、同じ市原市内にある実家で静養しているそうです」

「なら、ここを調べた後で改めて話を聞きに行くとしましょうか」

 榊原はそう言うと、そのまま現場となった部屋へ入っていった。部屋の内部は事件当時のまま保存されている。

「ここでは犯人のものと思しき血痕が見つかっているとか?」

「そうです。この事件の被害者は相当抵抗したようでして、犯人が包丁で切り付けられたと思しき痕跡が残っていました。事件後、犯人は包丁を洗って流し場に放り込み、流れた血も拭いてはいますが、その一部が床の隙間に残って鑑識に回収されています」

「血液型はO型だそうですね」

「そうです」

「ふむ……」

 榊原はそう言いながら少し考えると、室内を物色し始める。室内はかなり荒らされているが、その一角にコルクボードがかけられていて、そこに何枚か夫婦の写真も写っている。被害者が勤務先の小学校で撮ったと思しきスキー教室の集合写真や、夫が勤務先で所属している野球チームの試合の際に撮影したと思われる集合写真。さらには、シドニーのオペラハウスをバックに撮影された夫婦の幸せそうな写真や、一緒に千葉マリンスタジアムへ野球の試合を見に行ったときに撮影されたらしい記念写真など、その各々の写真は新婚の二人の幸せをつぶさに写していた。そして、そうした写真の中央にウエディングドレスを着た被害者を中心とする結婚式の時の写真があり、その幸せそうな二人の表情が今となっては見る者に何ともつらさを訴えかける物になってしまっている。

「なるほど、おしどり夫婦というのは間違いなさそうだな」

 そう言いながら、榊原の視線は近くの棚の上に移る。そこには何かのトロフィーが飾られており、目を凝らすと「市原草野球トーナメント優勝 コスモス石油野球部」の文字が見える。それだけではなく、その横には何かの瓶が置かれていて、その中に黒っぽい土が入れられている。その土の正体は、瓶に貼られているラベルが指し示していた。

『甲子園の土』

「被害者の夫は元高校球児ですか」

「えぇ。強豪・習志野中央高校の野球部出身で、ポジションは一塁手。記録上は夏の甲子園で準決勝まで行ったとなっています」

「習志野中央、ねぇ」

 土井の答えに榊原はそう呟くと首を捻った。

「確か、第三の事件は習志野で起こっていたはずだな」

「あぁ。だが、第三の被害者・戸内由香の通っていた高校は習志野中央じゃなくて坂松高校だ」

 橋本が答えるが、榊原は首を振る。

「だが、同じ習志野である以上、高校そのものの距離は近いんじゃないか? それが気になってな」

 榊原の問いに、地元県警の土井が答える。

「確かに、坂松高校は習志野中央高校とは距離的に一キロメートルも離れていないとは思いますが……」

「もう一つ。習志野中央高校は強豪校で、しかも彼が所属していた学年は夏の甲子園で準決勝まで進んでいる。それだけの戦績なら、プロになった同級生もいるんじゃないか? 例えば千葉ロッテマリーンズとか」

 その指摘に、橋本と土井は顔を見合わせた。

「どうでしょうか? 調べてみないと……」

「それが何か事件に関係あるのか?」

 橋本の問いに、榊原は肩をすくめる。

「さぁな。ただ、今まで判明していなかった事実であるのは確かだ。それに、本当にそんな人間がいるなら、ちょっと気になる事も出てくる」

「と言うと?」

「彼の同級生にロッテ選手がいるなら、彼が千葉マリンスタジアムへ試合を見に行っていた事に矛盾はなくなる。そして、千葉マリンスタジアムは第二の幕張事件の現場近くだ。その一致がどうもね」

 そう言いながら、榊原はコルクボードの写真をもう一度軽く見やると、そのまま入口に向かい始めた。

「ここはもう結構。では、旦那の話を聞きに行きましょうか」

 榊原の言葉に、二人も軽く頷いて後に続いた。


 被害者の夫・高畑広明の実家は問題のアパートから車で十分くらいの所だった。高畑は自室の布団で無精髭を生やしたまま寝ており、まだ事件のショックからは脱し切れていないようだった。実際、精神科医が何日かに一回往診に来ているようで、この日も布団の傍でその精神科医が厳しい表情をしていた。

「質問は五分だけにしてください。それ以上は患者の精神的に負担ですから」

 そう言われてしまえば頷かざるを得ない。橋本は最初から榊原に質問を一任するようにしたようで、榊原が代表して布団の横で高畑に質問する事になった。

「初めまして。この事件を調べています榊原です」

「……」

 高畑は無言のまま榊原の方へゆっくり視線を向ける。それを見て榊原は質問を開始する。

「時間もないので、サクサクいきましょう。早速ですが、事件当日の事を聞かせてください。あなたが奥さんを最後に見たのはいつですか?」

 榊原の問いに、高畑はどこか虚ろな視線のままでゆっくりとした口調でポツポツと答える。

「あの日は……朝の八時頃に二人一緒に部屋を出て……アパートの前で別れて……あれが妻を見た最後で……」

「その後あなたは仕事に行ったという事ですね?」

「そう……」

「いいでしょう。お辛いでしょうからこの話はここで終わりにします。では、それ以前……つまり事件発生当日までに何かあなたの周囲で変わった事はありませんでしたか? もしくは、何か奥さんから聞いていた事は?」

「……特にない、と思う……妻からも何も……」

「確かですか? これは重要な事なのでよく思い出してほしいのですが」

「……ない」

 高畑の答えは単純だった。だが、榊原はそれで落胆する事もなく次へ進む。

「あの部屋の近くにスーパーがありますね。そこに見覚えのない車が停まっていた、という事は?」

「……買い物は……妻がやっていた……俺は……知らない……」

「なるほど……いいでしょう。では次です。あなたの友人にプロ野球選手はいますか? 具体的にはロッテの選手ですが」

 その言葉に、高畑はかすかに不思議そうな表情を浮かべる。

「……なぜ……そんな……事を……?」

「いますか? 習志野中央高校の同級生だと思うんですが」

「……井竹小太郎いたけこたろう……ロッテのピッチャー……」

 その言葉に、後ろで土井が息を飲む。榊原の推測通りだった。

「井竹さん、ですね。あなたは彼の試合を見に幕張のスタジアムに行った事がありますか?」

「……結婚前の……デートで……一度だけ……」

「部屋に飾ってあった写真はその時の?」

「……そう……」

 そこで高畑は疲れたように布団に横になってしまった。そこで精神科医が黙って首を振る。時間らしい。

「……わかりました。質問は以上です。ありがとうございます」

 榊原は目を閉じた高畑に深々と頭を下げたのだった。


「井竹、という選手の事は知っていますか? 私は野球の事は詳しくないので何とも言えないのですが」

 パトカーで移動しながら榊原が土井に尋ねる。

「いやぁ、私もロッテファンですけど、知りませんね。多分、二軍中心のピッチャーじゃないかと思いますが」

「いずれにせよ、これで第四の事件と第二の事件がわずかながらつながった事になる」

 橋本はそう興奮気味に言うが、当の榊原は冷めたものだった。

「どうだろうな。それがつながるかどうかは、これから幕張に行ってからの捜査にかかっている」

「お前が言い始めた事だぞ」

「私はあくまで事実を指摘したに過ぎない。事件に関係あるかどうかはまだわからない」

 あくまで榊原は慎重姿勢を崩さない。そうこうしているうちに、パトカーは第二の事件の現場である幕張に到着していた。さすがにこの時期にスタジアムで試合は行われていない。パトカーは現場となった千葉マリンスタジアム近くの幕張海浜公園の前で停まった。

「ここが第二の事件の現場です」

 すでに事件から数ヶ月が経過し、今となっては事件の様子を示すものは何も残っていない。さすがに第一、第四の事件のように現場が室内ではなく屋外なので、今さら新たな証拠をここで探すのは困難だった。

「まぁ、その辺は予想の範囲内ですが、とにかく現場を一度見ておきたかったもので」

 榊原はそう言いながら砂浜をゆっくりと海の方へと歩いていく。そして、地図を見ながら被害者が倒れていた辺りで立ち止まった。まだ日は沈んでいないので、事件当日と違って周囲の状況がよくわかる状態である。

「犯人はこの砂浜で被害者を暴行し、最後は海水に彼女の顔を押し付けて失神させた後に刺殺、でしたね」

「そうです。残念ながら目撃証言はありませんが……」

「彼女は恋人の真下健二との待ち合わせのためにここに来ていた。事件当夜、あのスタジアムではプレーオフシーズンのロッテvs西武の試合が行われていて、真下はその仕事に忙殺されていたと主張している。ただし、現場までの距離が近いからアリバイが成立しているかといえば微妙になる」

 土井と橋本がそれぞれ答える。

「一応聞くが、その試合に井竹という投手は?」

 榊原の問いに、橋本は首を振った。

「あの試合は私もテレビで見ていたが、そんな選手はいなかったはずだ」

「だろうな。そもそも、高畑広明の話だと、あの夫婦がここに試合を見に来たのは結婚前の時点だ。おそらく、井竹という投手が登板した日になる。それがいつかわかればいいんだが」

 と、榊原はそのまま現場に背を向けた。

「ここはもういい。その真下という男に話を聞きに行こう」

 三人はそのまま近くにある千葉マリンスタジアムへと移動した。シーズンオフの現在、スタジアムはほとんど仕事がない状況のようで、受付で頼むとすぐに真下が出てきた。真下は土井に気付くと頭を下げる。

「あぁ、刑事さん。その節はどうも。何だか大変な事になっているみたいですけど、捜査の方は……どうなっていますか? 佐代里を殺した犯人の見当はついているんですか?」

「現在、鋭意捜査中です」

 土井としてはそう答えるしかない。

「そうですか……。早く、見つかればいいんですけどね……。ところで、今日は何か?」

「いえ、また話を聞きたい事ができたんですよ」

 土井がそう言うと、橋本と榊原が前に出た。

「警視庁の橋本です。こちらは榊原。実は、あなたにお聞きしたい事がありまして」

「はぁ」

 ひとまず近場のベンチへと移動する。質問は榊原が請け負った。

「井竹小太郎、ですか?」

「そうです。スタジアムの関係者ならご存知かと」

「え、えぇ。確かにそんな名前の選手はいます。確か去年の八月頃に一度一軍で投げて、その後故障して二軍落ちしていたはずです」

「つまり、昨年度における一軍での登板はその一回だけだと?」

「そうです」

「詳しい日付はわかりますか?」

「ええっと……すみません、さすがに覚えていませんね。調べればすぐにわかりますが」

 真下はそう言って頭を下げた。もっとも、この場合すぐに答えられない方が普通ではある。

「調べてもらっても?」

「は、はぁ……」

 何が何だかわからないようではあったが、真下は携帯で事務所に連絡してくれた。結果はすぐに出る。

「去年の八月二十七日の試合ですね」

 八月という事は、第一の事件が起こるよりも前である。この日が高畑夫妻……正確には高畑と伊奈子のカップルがスタジアムで試合を観戦した日だとみて間違いないだろう。

「ちなみに、その日あなたや殺された佐代里さんは何を?」

「僕たち、ですか? ええっと……あの頃は確か、佐代里は仕事で海外出張中だったと思いますよ。ニューヨークだったかな」

「海外……という事は、彼女は日本にいなかった?」

「そうなりますね。というか、僕もそれどころじゃなかったですし」

「というと?」

 そこで真下は頭をかいた。

「それがその……僕、この時盲腸になっていまして。ちょうど病院に入院していたんですよ。だから、仕事もずっと休んでいて……」

 榊原たちは顔を見合わせた。それでは高畑夫妻がスタジアムに来たとき真下やその恋人の佐代里はスタジアムにいなかった事になり、第二と第四の事件はつながらない事になってしまう。

「これは……野球場だけに空振りか?」

「かもしれんな」

 榊原は短くそう答えた。とはいえ、さらに質問は続く。

「参考までにお聞きしますが、一月九日のアリバイはどうなっていますか? これは全員に聞いている質問ですが」

 榊原はそう言って、第五の事件の日付を提示する。真下は今までの四件においてアリバイがなく、それゆえにO型である事も手伝って疑いの域を脱しきれていなかったはずだった。ここで第五の事件のアリバイもなかったとなればさらに疑いは強まっていたのだが、これに関する真下の答えも芳しいものではなかった。

「確か、その日は山形の実家に帰っていました。佐代里も死んで、これからの事も相談しないといけませんでしたし……」

「そうですか」

 ここへきて真下にもアリバイが出てきたのである。もっとも、五件もの事件が起こっている以上、一般人なら一件くらいアリバイがあってもおかしくない話である。

「今一度、佐代里さんがどんな人だったのかお聞かせ願えませんか?」

「……恋人だった僕が言うのもなんですけど、明るくて元気で、まるで太陽みたいな人でした。自分のやりたい仕事をできて、何というか輝いていて……本当に、僕みたいな人間には不釣り合いなほどで……」

 そこで真下はうつむいてしまった。

「何であの時、あんなつまらない喧嘩をしてしまったのか……正直、今でも悔やんでも悔やみきれない気持ちでいっぱいです。僕は彼女に頼りっきりで……彼女に対して何もできませんでした。それだけに、犯人には怒りしか感じません」

 そう言って、真下は榊原を見据える。

「だから、一刻も早く犯人を逮捕してください。僕には、それしか言えません。お願いします」

「……もちろんです」

 榊原は真剣な表情で答えた。

「これ以上、奴を野放しにしておくつもりはありませんよ。それは、間違いなくお約束します」

 その言葉を、橋本や土井も真剣な表情で聞いていたのだった。


「真下はシロだな」

 スタジアムを出たところで、榊原ははっきりと言った。橋本も頷く。

「あぁ、アリバイがある以上、そう考えざるを得ないだろうな」

「となってくると、今までの真下の証言もすべて正しいという事になってくる。何にせよ、これで容疑者が一人減ったな」

 すでに時刻は夕刻になりつつあり、当たりも薄暗くなっている。パトカーに着いたところで、橋本は榊原に尋ねた。

「これからどうする?」

「さすがに今日はこれ以上無理だな。ひとまず残りは明日に回そう」

「捜査本部に泊まるか?」

「そこまで甘える事はできんよ。県警近くのビジネスホテルでも探す事にする。ひとまず、明日の朝九時頃から残りの二ヶ所を回る事にしよう」

「わかった。じゃあ、後でホテルを教えてくれ。明日の朝、迎えに行く」

「すまんな。それじゃあ、ひとまずこれで」

 そう言うと、榊原はそのままどこぞへと去っていった。後には橋本と土井だけが残される。

「相変わらず食えんな。……それで、土井警部。どうだった、榊原の感想は?」

「さぁ……まだ何とも言えませんね」

 土井は慎重にそう言って運転席に滑り込んだ。後部座席に橋本が座り、土井はパトカーをスタートさせる。

「正直言って、彼が何を調べているのか近くで見ていても全くわかりません。この調子で本当に次の事件までに間に合うのでしょうか?」

「それは私にもわからんが……ただ、あいつが何も考えていなかったという事はないはずだ。いつもそうだが、あいつは一見何の目的もなくただ漠然と調べているだけのように見えて、実は頭の中で物凄い勢いで推理を構築している。そして、わけのわからないうちに真相に到達してしまっている。そういう男だ」

「はぁ」

「いずれにせよ、私はすでにあいつにこの事件を賭けている。そして、あいつは最初から見込みのない事件を受けるような事はしない。勝算があるからこそ、事件を受けたはずだ。今はそれを信じるしかない」

「信頼していらっしゃるんですね」

「長年相棒だった男だからな。今も昔も、あいつは全く変わらんよ」

 橋本の静かな言葉を、土井は黙って聞く他なかったのだった。

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