第三章 船橋事件

 二〇〇五年十一月十日木曜日、千葉県船橋市。政令指定都市以外の街では日本最大の人口を誇り、千葉市より東京都に近い関係上、東京のベッドタウンとして機能している街でもある。この船橋市の一角に、陸上自衛隊習志野駐屯地が存在する。習志野という名前がついているがその敷地は隣接する習志野市にはなく、その大半が船橋市に位置している。

 事件はこの船橋市の習志野駐屯地近くにある住宅地で発生した。午後九時頃、習志野駐屯地所属の自衛官・大北実治おおきたさねはる二等陸尉は駐屯地での勤務を終え、自宅マンションへの帰路へついていたところだった。基本的に自衛官は駐屯地内の隊舎で生活する事になるが、結婚した場合は駐屯地外での居住が認められる。大北もその一人で、すでに妻と子供もいる身だった。

 駐屯地から自宅マンションまでは徒歩で二十分程度の距離である。大北は駐屯地近くのコンビニで簡単な夜食を買うと、すっかり暗くなって人通りも少なくなった住宅街の道路を自宅向かって歩いていた。色々と物騒ではあるが、自衛官である大北にとっては何かあっても対処できるだけの自信はあった。

「すっかり遅くなったな……急ぐか」

 早く帰って妻や娘の顔を見たい。そう思って足を速めようとした大北だったが……その足が急にある場所の前で止まった。

「ん?」

 そこは、自宅マンション近くにある小さな児童公園だった。かつて大北の娘も小学生だった頃によく遊びに来ていた場所であり、住宅地の中でも住民の憩いの場所になっていた。が、夜も更けたこの時間では、街灯こそあるもののどことなく不気味な雰囲気を醸し出している。

 もちろん、百戦錬磨の大北にとってその程度の事は特に問題にならない。が、今大北が足を止めたのは、街灯でうっすらと照らされた児童公園の敷地内に、何か得体のしれないものの影があるように見えたからだ。ここからでは暗くてよく見えないが、それを見た瞬間、大北はなぜか嫌な予感がした。この感触にはどことなく覚えがあった。そう、今から数年前、神戸や新潟で起こった地震の救助活動で現地入りをし、そこで崩落した住居に押しつぶされた遺体を発見した際に感じたあの嫌な感じと似ているような……。

 大北はグッと息を飲むと、意を決して公園内に足を踏み入れる。改めて公園内を確認すると、街灯から少し外れた場所……砂場の辺りに何かが転がっているのが見える。大北の心臓の心拍数が増える。尋常でない何かがそこにあった。大北は咄嗟に周囲を警戒しながら、ゆっくりとその物体の方へと近づいていく。

「おい……誰かいるのか?」

 そう声をかけながら徐々に距離を詰め、ついにその物体の正体がしっかり判別できる位置まで近づいたところで……大北は思わず手に持っていたコンビニの袋を地面に落としてしまっていた。

「こ、これは……」

 大北はその場で絶句してしまった。だが、視線は目の前に転がる物体から離れようとしなかった。

 砂場に転がっている物体……それは、近隣の高校の生徒が来ているセーラー服に身を包んだ一人の少女の変わり果てた姿だったのである。仰向けに転がって漆黒の空を見上げるその目は虚ろで、どう見ても生きているようには見えない。何より、胸に突き刺さったナイフが、彼女が死んでいる事を明白に物語る決定的な証拠となっていた。

 だが、さすがに大北はここで取り乱すような事はしなかった。何より、死体を見るのは初めてではない。大北は一度息を大きく吸い込んで気持ちを落ち着かせると、携帯電話を取り出して迷うことなく一一〇番通報をした。

「警察ですか? 自分は習志野駐屯地所属の大北といいます。実は……」


 それから三十分後、住宅街の真ん中にあるこの児童公園は駆けつけた警察官によって完全に封鎖されてしまっていた。何事が起こったのかと周囲の住民たちが深夜にもかかわらず野次馬根性を発揮しているが、警察にとってはそれどころの話ではなかった。

 遺体を見た瞬間、初動で駆け付けた船橋署の刑事たちの表情は変わった。胸に突き刺さったナイフに切り取られた髪の毛。状況は明らかに現在連続して発生している女性殺害事件の特徴と一致していた。前の犯行から一ヶ月が経過し、県警全体が次の犯行を警戒している中での事件である。情報は即座に捜査本部へ伝達され、土井たちが事件現場に急行したのは遺体発見の約一時間後の事であった。

「畜生! やりやがった!」

 駆けつけるパトカーを運転しながら中司が悪態をつく。土井は助手席で黙ったまま正面を見つめているが、次なる犯行を防げなかった事にその表情には無念さが現れている。

 住宅街の入口でパトカーを止め、ほとんど駆け足で現場となった児童公園に急ぐ。挨拶もそこそこにブルーシートで覆われた現場に入ると、目の前に恨めしそうな表情で虚空を睨んだままこと切れている少女の遺体が飛び込んできた。

「今度は未成年か……」

 土井は悔しそうにそう呟くと、軽く頭を振ってすでに検視作業をしている検視官に歩み寄った。

「どうだ?」

「同一犯だろうな。切り取られた髪の毛にナイフの種類。すべてが前の二件と一致している。死ぬ前に全身を暴行されている点も一緒だ」

 断定口調で言われ、土井は険しい表情を浮かべた。

「木更津、幕張ときて、今度は船橋。犯人の動向が全く読めない」

「全くだ」

「身元はわかったのか?」

 その問いには近くで作業していた船橋署の刑事が答えた。

「この制服はこの近くにある県立坂松高校のものです。それと、近くに落ちていた学生鞄から学生証を発見。名前は戸内由香とうちゆか。坂松高校の二年生で、現在十七歳です」

「住所は?」

「このすぐ近くです。帰宅途中に襲われたとみるのが妥当かと」

 女子大生、銀行のOLと続き、今度の被害者は女子高生である。被害者の身分は完全にバラバラであった。

「遺体を発見したのは自衛官という事だな?」

「習志野駐屯地の大北実治という自衛官です。今、近くで話を聞いていますが、さすがに落ち着いたものですよ」

「一応聞くが、そいつが犯人である可能性は?」

「基地に確認しましたが、彼が駐屯地を出たのは遺体発見のわずか十五分前です。これは十五分かそこらでできる犯行ではないでしょう。その可能性は除外してもいいと思います」

 その答えに土井は小さく頷いた。元より、今までの傾向から発見者が犯人である可能性は低いと考えている。

「親に連絡はしたのか?」

「先程連絡しました。まもなく来る頃かと思います」

 そう言った矢先だった。ビニールシートの向こうが少し騒がしくなった。土井たちが外に出ると、そこで錯乱気味にシートの中に入ろうとしている女性がいた。

「嘘よ! 由香が死んだなんて、そんなの嘘よぉ!」

「奥さん、落ち着いてください!」

「あああああぁぁぁぁぁっ!」

 刑事に押しとどめられ、女性がその場で泣き崩れる。その後ろから疲れた様子の男性が、本人も体を小刻みに震わせながらも女性の肩に手を置いて慰める。それが被害者の両親であるのは明白だった。土井と中司はそっと近づき、まだ落ち着いている方の男性に声をかける。

「由香さんの御両親ですか?」

「あなたは?」

「この事件を担当しています土井です」

「中司です」

「……戸内典由とうちのりよしです。船橋市役所の職員をしています。こっちは家内の香帆かほ。それで、娘が殺されたというのは本当なのですか? 何かの間違いじゃないんですか?」

 遺族への遺体の確認。残酷な話だが、避けて通る事は出来ない。

「遺体と発見された学生証の写真は一致しています。一応、ご確認いただきたいのですが、よろしいでしょうか。何でしたら、ご主人だけでも構いません」

「……私が見ます。家内を見てやってください」

 土井は黙って頷き、香帆を中司に任せて典由を連れて現場に入った。遺体はすでに検視などがすんで担架に乗せられて搬送されようとしているところであり、体には毛布が掛けられ、さらに虚ろな視線を見せていた目も閉じられていた。その顔を見た瞬間、典由はついに我慢できなくなったかのように拳を握りしめ、振り絞るように言った。

「……娘です」

 それは、三件目の被害者が戸内由香だと確定した瞬間だった。典由はしばらく変わり果てた娘の姿を見つめていたが、やがて土井に向き直る。

「娘は……この後どうなるのですか?」

「殺人事件ですので司法解剖に回される事になります。その後、速やかにご自宅の方へ戻される事になるでしょう」

「何で……何で娘が殺されなければならないんだ……」

 典由の言葉に、土井はかける言葉が見つからない。だが、事件解決のためにも心を鬼にして彼らから話を聞かなければならない。

「お話を聞かせてもらっても構いませんか? 無理だというのであれば後日伺いますが」

「いえ、構いません。娘を殺した犯人を捕まえるためなら、何でも協力します」

 土井はひとまず典由を現場から出した。外で待っていた香帆がすがるように典由を見るが、典由が黙って首を振ると再度その場で号泣し始めた。

 さすがにこの周囲に喫茶店のようなものはない。土井は乗ってきたパトカーに典由を案内すると、聴取を開始した。

「手短に済ませます。まず、娘さんの今日の予定を教えてください」

「……いつもの通り、学校に行っていたはずです。あの子はバトミントン部に所属していて、部活の後はこの近くにある学習塾で遅くまで勉強するのが日課でした。ですので、警察から連絡があるまではてっきり塾に行っているものだと思っていたのですが……」

 それなら彼女が帰らないにもかかわらず両親が捜索届けなどを出さなかったのも頷ける。ただ、学習塾の場合、事前連絡なしに授業に出席していなかった場合は塾側から連絡が行くものではないのだろうか。その点を聞くと、典由は疲れたようにこう答えた。

「授業がある日ならそうでしょうが、あの子は授業がなくてもよく自習で塾を利用していましたので。そのような場合は連絡がなくても不思議ではないんです」

 典由の言葉に、土井はひとまず納得した上で次に質問を進める。

「この公園は彼女の通学ルートの近くですか?」

「その通りです。塾もこの公園のすぐそばにあります。だから、学校帰りはいつもここを通っていたはずです」

「最近、娘さんの様子に変わった事はありませんでしたか? どんな些細な事でも構わないのですが……」

「変わった事……そう言えば、最近どこかふさぎ込んでいる事が多かったようにも思いますが……」

 典由の証言は何とも曖昧であった。

「ふさぎ込む理由に何か心当たりは?」

「わかりません。成績が下がったという事もなかったはずですし、私にはなぜだか」

「その辺の事を詳しい人はいますか? 例えば友達とか」

「ええっと……同じマンションに、今も同じ高校に通っている昔からの幼馴染の子がいるはずですが……」

「案内してください」

 数分後、土井はパトカーを降りて典由と共に彼女の自宅マンションへ向かっていた。現場から彼女の自宅マンションまでは徒歩約十分前後。マンションの前に着くと、何人かの住民が騒ぎに気付いて不安そうな顔で管理人に事情を聞いている。典由はそうした住民を無視して中に入ると、エレベーターで六階に向かった。

「ここです」

 典由は「六〇二」と書かれた部屋の前に立つと、インターホンを押した。しばらくして中から一人の女性が姿を見せる。

「あら、戸内さん。どうしたんですか? 何だか外が騒がしいみたいですけど」

「八木原さん、すみませんが、美珠ちゃんいますか? ちょっと、話を聞きたいという人がいて」

 それと同時に控えていた。土井が正面に出て警察手帳を見せる。

「千葉県警の土井です。実は、お子さんにお話を聞きたい事ができまして」

「警察……うちの子が何かしたんですか? さっきから外が騒がしいみたいですけど」

 たちまち母親と思しきその女性の顔が蒼くなる。

「いえ、そうではなくて、ある事件に関して彼女の話が必要になってきまして。今、いますか?」

「え、えぇ。いますけど……。一体何があったんですか?」

 その言葉に土井は典由の方をちらりと見る。典由が蒼い表情ながらも頷くと。土井は彼女に事実を淡々と告げた。

「先程、こちらの戸内さんのお嬢さんの遺体が近隣の児童公園で発見されました。我々は殺害されたとみています」

「え……」

 女性は絶句する。

「殺害って……由香ちゃんが、ですか?」

「我々としては被害者の生前の動向を知りたいと考えています。戸内さんの話では、お嬢さんは被害者の由香さんと仲が良かったという事ですので、事件解決のためにもお話を伺いたいのですが」

「ちょ、ちょっと待ってください」

 そう言うと、女性はいったん引っ込んだ。それからしばらくすると、部屋の奥から被害者と同年代くらいのショートカットの少女が真っ青な表情で飛び出してきた。

「由香が殺されたって、本当なんですか!」

 今にもつかみかからんばかりの勢いの彼女を押しとどめながら、土井は落ち着いた口調で話しかける。

「あなたが八木原美珠やぎはらみたまさんですか?」

「は、はい。それで、さっきの話は……」

「残念ながら、事実です。つい先程、遺体が見つかりました」

「そんな……だって、今日も元気そうにしていたのに……」

 いきなりの話に少女……美珠はその場に崩れ落ちそうになる。

「我々は彼女を殺した犯人を追っています。そのためには、あなたの話が必要なんです。協力してもらえませんか?」

 土井は努めて優しく声をかける。美珠はショックが抜けないようだったが、やがて小さく頷いた。土井はメモの用意をして慎重に質問を開始する。

「先程の話だと、あなたは今日も由香さんと出会っている、という事でいいのですね?」

「は、はい……。私と由香はクラスも部活も一緒ですから」

 土井がチラリと玄関口を見ると、なるほど確かに玄関脇にバトミントンのラケットが立て掛けられている。

「部活が終わったのはいつですか?」

「確か……午後五時半頃だったと思います。今の時期は最終下校時刻が午後六時ですから。それで、部活の後に別れて……それが由香を見た最後です」

 つまり、彼女が最後に目撃されたのは遅くとも午後六時頃だという事になる。が、そこで気になる事が一つあった。

「別れた、というのはどういう事ですか? あなたと由香さんは同じマンションですよね。ならば少なくとも彼女が塾に行くまで帰り道も一緒では?」

 あの児童公園は彼女の通学路で、なおかつ塾はその近くにあるというのが典由の弁である。ならば、児童公園まで帰り道は同じはずだ。わざわざ別れて帰る意味がない。

 それに対し、美珠はこう答えた。

「それが……今日、由香は用事があるって言って一足先に走って帰ってしまったんです。私たちもなぜだかは知りません。理由を聞いても答えてくれなかったし……」

 そこで土井は典由の方を振り返る。

「何か用事があったんですか?」

「いえ、聞いていません。塾も今日は授業がなかったはずですし、自習に行くつもりだったらそんな急ぐ必要もないでしょうし……」

 典由は大きく首を振って答えた。ここにきて、被害者の不可解な行動が明るみに出たのである。

「いいでしょう。それについてはいったん置いておきます。では、ここ数日、由香さんに何か変わった事はありませんでしたか?」

「変わった事、ですか?」

「典由さんの話では少しふさぎ込んでいたかもしれないという事でしたが、心当たりは?」

「……もしかして……」

 不意に美珠の表情が真剣なものになった。何か心当たりがあるらしい。

「何かあったんですか?」

「えっと……確か五日くらい前だったと思うんですけど、登校して教室に行ったら由香が深刻そうな顔をしていたんです。何かあったのかって聞いたら、登校中に誰かの視線を感じて気味が悪かったって……」

 その言葉に、土井の顔に緊張が浮かんだ。間違いない。一件目や二件目同様、事件前に被害者が感じた「謎の視線」そのものである。

「彼女はその視線の主を見たんですか?」

「いいえ。視線を感じてすぐに振り返ったけど何も見なかったって言っていました」

「視線はその一回だけですか?」

「それが……」

 そこでなぜか美珠は口をつぐんでしまった。なぜかその表情が硬い。何かを隠しているようにも見える。だが、この情報はぜひ聞いておく必要がある。土井はそう直感した。

「美珠さん、この話は事件の根幹に直結するかもしれません。ぜひ聞かせてください」

「……」

 しばらく無言が続く。土井もあえて催促する事なく、相手が話すのを待った。そのまま数分の時が過ぎる。

 だが、そこで美珠が発した言葉は土井にとっても想定外の物だった。

「見たんです」

「え?」

「私……見たんです。由香をじっと見ていた変な人を」

 その言葉に、土井は思わず衝撃を受けた。

「み、見たんですか! そいつを……視線の主を」

「はい」

 今までその姿を全く表す事なく幻同然の存在だった謎のストーカー。その姿が、三件目の今になって急浮上した瞬間だった。

「状況を説明してください」

「その……由香の話を聞いて、私、最初他のクラスの誰かがつけているんじゃないかって思ったんです。由香、可愛かったし、そういう人がいてもおかしくないかもしれないって。だから、その日の下校の時に、私、そいつの正体を突き止めようと考えたんです」

 美珠は一呼吸置くと話を続けた。

「だから私、由香にはわざと一人で帰ってもらって、その少し後から隠れて誰か見ている人がいないかをチェックしていたんです。これは由香にも内緒にしていました。変に由香を怖がらせたくなかったし、同級生が相手なら私一人でも対処できるって思っていましたから。そしたら……いたんです」

「いた、というのは」

「由香の死角にある路地の裏手から、ジッと由香を見ていた怪しい人が」

 土井の表情が一気に真剣なものになる。

「どんな奴でしたか?」

「わかりません……全身を黒いコートで覆っていて、帽子をかぶった上でマスクとサングラスをしていました。でも、そいつは間違いなく由香を見ていたんです。しかも、由香が移動するごとにうまく死角を移動していって……それを見て、私怖くなったんです。これは本物のストーカーかもしれないって」

「それで、どうなったんですか?」

 美珠が息を飲みながら続ける。

「しばらくつけていたんですけど、何分かして、そいつが急にハッとした感じで私の方を見たんです。それで私……見つかったと思って。逃げようとしたけどその場から動けなくなって……。そしたら、あいつの方がそのまま路地の奥の方へ逃げて行ったんです」

「つまり、相手は君に見つかった事に気付いて逃げたと?」

「はい……」

 美珠は疲れた様子でそう答えた。

「その話を由香さんや先生には?」

「していません。変に怖がらせたくなかったし……。下手に話して事が大事になったら、口封じのためにあいつが私を襲いに来るかもって少し怖かったんです。それに、あいつを見たのは私だけだから、こんな話をしても誰も信じてくれないと思いました。でも、同じ事が何回か起こるようだったら先生に相談するつもりだったんです。だから、今度は証拠をつかむつもりでデジカメを持っていって同じように由香の後をつけました。でも……それっきりでした」

「それっきり?」

「あいつは二度と現れなかったんです。由香に聞いても、あれ以来視線は全く感じていないという事でした。私もそのあと二日くらいは見張っていたんですけど空振りで……結局、私に見つかった事でそいつが諦めたんだと思ったんです。だから私、それっきりこの事はなかった事にしようと思って……」

「美珠……」

 美珠の母親が思わず美珠を抱きしめる。それを見ながら、土井は静かに聞いた。

「その黒服の男が消えたという路地はどこですか?」

 美珠がその場所を土井の出した地図上で刺し絞めたのを最後に、土井は八木原家を辞した。典由と一緒にマンションの外に出ると、ちょうど中司から連絡が入る。

『どうだ、そっちは?』

「重要な証言があった。幻のストーカーの姿をようやくつかんだぞ」

『本当か?』

「これから本格的に捜査に移る。そっちはどうだ?」

『それがな……今、鑑識と一緒に被害者の所持品をチェックしているんだが、バッグから妙な物が出てきてな。何というか、女子高生の鞄に入っていそうにもない物だ』

「何だ?」

『それが、猫缶なんだよ』

 思わぬ言葉に、土井は聞き違いかと思った。

「猫缶って……冗談っていうわけじゃないんだな」

『あぁ、最高級のツナ缶だった。それが鞄の奥に大切そうにしまってあったそうだ。どういう事だと思う?』

 それを聞いて土井は少し考えたが、やがてある考えが頭に浮かび、典由に向けてこう質問していた。

「つかぬ事を聞きますが、このマンションはペット禁止ですか?」

「え、えぇ。それが何か?」

 戸惑う典由に対し、土井は真面目な表情でこう告げた。

「ひょっとしたら、由香さんの謎の行動の意味が分かるかもしれません」


 翌日十一月十一日金曜日の朝八時。第三の事件を受けての緊急捜査会議が捜査本部で行われようとしていた。

「先日船橋市で発生した第三の事件について概要を説明します。昨日午後九時頃、習志野駐屯地から帰宅途中の自衛官・大北実治が、自宅近くの児童公園に倒れている少女を発見し、警察に通報しました。駆けつけた警察官により被害者の死亡が確認され、その遺体の状況などから一連の事件との関連性が強いと判断され、本捜査本部に連絡が回っています。被害者の名前は戸内由香、十七歳。近隣にある県立坂松高校の二年生。現場は学校と彼女の自宅マンションのほぼ中間地点にあり、下校途中に何者かに襲撃されたものと見られています」

 中司の報告に、一課長が険しい表情で頷く。同時に検視官が立ち上がった。

「死亡推定時刻は昨日午後六時から午後七時までの一時間と判断します。死因は今まで同様に心臓へのナイフの一突き。死の直前に全身に暴行を受けている点、髪の毛を切り取られている点も同様です。また、今回被害者は死ぬ前に遺体発見現場である児童公園の砂場近くにあったブランコの鎖で首を絞められていたと考えられます。首に残った索状痕とブランコの鎖が一致しました。この行為で死んだわけではありませんが、間違いなく失神に追い込まれていたはずです」

「相変わらず……ひどいな」

 一課長の言葉がその場にいる捜査員の言葉を代弁していた。被害者を暴行して失神させてからナイフでとどめを刺す。犯行場所こそ違えど、犯人の犯行形態は一致していた。

「なお、遺体は移動した形跡がなく、ブランコを凶器にしている点などから見ても犯行場所はあの児童公園内部であると結論付けます」

 検視官はそう言って腰を下ろした。そこで捜査一課長が突っ込む。

「待て、だとするなら被害者は無理やり児童公園に引きずり込まれたわけではなく、最初から児童公園にいたところを襲われたという事か。いくら通学路の近くにあるとはいえ、女子高生がなぜそんな児童公園に?」

「それについては私が報告します」

 司会役をしていた土井が発言した。

「事件当日、彼女は部活の友人たちに対して『用事がある』と言って一足先に帰り、そこで事件に巻き込まれています。では、なぜ彼女が友人たちより先に帰ったのか。この点に対し、改めて公園を捜索した結果、一つの結論が出ました」

「その結論とは?」

「猫です」

 いきなり真面目にそう言われて、捜査一課長は面食らった。

「猫……だと?」

「公園を捜索したところ、隅にある木の根元に段ボールに入れられた子猫が確認されました。捨て猫だったようです。ここから、彼女が下校途中で会の公園で捨て猫を見つけ、それの世話を秘密裏にしていた可能性が浮上します」

 あの後、土井たちは公園を再捜索して、彼女が世話をしていたと思われる子猫を発見したのである。子猫に外傷らしきものはなく、事件に関係あるかもしれないという事で今は警察が保護している状態だ。

「証拠はあるのか?」

「被害者の鞄の中に猫缶が確認されました。調べた結果、事件前日に彼女の通っていた学習塾近くのスーパーで彼女が数個購入しているのを確認。そのうちの一つと思われる猫缶の空き缶が子猫のいた段ボールの中から見つかっています。調査の結果、彼女の指紋がそこから検出されました」

「しかし、そこまでするんだったら何も秘密にしなくても素直に家に持って帰った方が……」

「彼女の自宅マンションはペット厳禁です。だからこそ秘密に世話をするしかなかったんでしょう。友人に秘密にしてまで」

「優しい子だったという事は間違いなさそうだな」

 その言葉を受けて別の所轄の刑事が立ち上がって報告する。

「彼女の人柄についてですが、校内での評判はかなりいいです。バトミントン部の副部長で、腕もかなりのもの。勉強もかなりできて、特に英語は学年トップクラス。校内で三人しか選ばれないカナダへの交換留学生に選ばれ、自宅の自室からはその時のホームステイ先との手紙のやり取りをしていた様子もうかがえます。社交的で他人への気配りができる性格だったようですね」

「……間違っても、こんなところで殺されていい人間じゃない。犯人を許すわけにはいかないぞ」

 一課長の言葉に、誰もが黙って頷いた。

「課長、実は例の『謎のストーカー』に関して新たな進展が見られました」

 そんな中、土井が真剣な表情で報告する。

「何かわかったのか?」

「実は事件の五日ほど前、被害者は他の二件同様に謎の視線の気配を感じていたようなのです。それで、その話を聞いた友人の一人がこっそり彼女の後をつけて見張っていたところ、それらしき人物が被害者を尾行している光景を目撃したという事です」

「目撃者がいたのか!」

 その場が一気に緊張する。が、土井の報告はそれだけではなかった。

「証言によれば、その人物はその友人が自分を見張っている事に気付いてある路地の奥へと逃げてしまったという事です。そこで、私は問題の路地を実際に見てみたのですが、その路地の奥は別の通りに通じていて、その通りの反対側にコンビニエンスストアがありました。そして、そのコンビニエンスストアには入口から外を映す形で防犯カメラが設置されていたんです。そして、問題の五日前の該当時刻の映像がこれになります」

 そう言うと、土井は用意しておいたプロジェクターにその映像を映し出した。そこには、コンビニの店内からガラス越しに道路の反対側を映す映像が映っていた。土井は指示棒を取り出して映像の中のある一点を指し示す。

「ガラス越しで見にくいでしょうが、ここが問題の路地の出口になります。そのままこの場所を注目しておいてください。

 そのまま映像が進んでいく。刑事たちが固唾をのんでその映像を見つめている中、その瞬間は唐突に訪れた。

「ここです」

 土井が映像を止める。その瞬間、非常に小さくはあったが、映像は今まさに路地から通りに出ようとする一人の人物の姿を映し出していた。その場の誰もが大きくどよめく。

「詳しくは画像解析が必要になってきますが。まだ明るいので大まかな外観はわかります」

 そう言いながら土井はその人物に視線を向ける。八木原美珠の証言通り、体全体を覆うロングコートに黒い帽子。画像が小さくて表情までは読み取れないが、遠目にもサングラスとマスクをしているのがわかる。映像に写るその姿は、どこか不気味でさえあった。

「こいつが……今まで姿を見せて来なかった『謎のストーカー』か」

 一課長が呻くように呟く。

「そして、本事件の第一容疑者でもあります」

 そう言うと、土井は映像を進める。その人物は路地から出た瞬間一瞬辺りを見渡すと、近くに路上駐車してあった黒の乗用車に乗り込んでその場を立ち去ってしまった。時間にして、映像に写っているのは十秒から二十秒程度である。

「この映像はわずか十数秒ですが、それでもこの人物に関してわかる事がいくつかあります。まず、現場を実地調査したところ、この路地の近くにある電柱に貼られている広告までの地面からの高さが約一メートル五十センチでした。そこから推測すると、犯人の身長はおおよそ一メートル六十センチ~一メートル七十センチとなります。もっとも、これは犯人がシークレットブーツ等を履いていなかった場合の話ですが……ひとまずこの数字を目安にしてください」

 土井は自分の言葉に力をこめる。

「第二はもちろん、この人物が車を運転しているという事実です。つまり、この人物には自動車を運転するだけの技術があるという事……運転免許所有者である可能性が高くなります。もちろん無免許運転の可能性もありますが、これから殺人を起こそうとしている人間が無免許運転で捕まるリスクを負うとは考えにくいです。よって、持っていると考えるのが妥当でしょう。また、犯人が乗っている自動車の車種もここからわかります」

「黒い乗用車だな。さすがにこの映像ではナンバーまではわからないが……」

 一課長が悔しそうに呟く。が、土井はここからさらにこう続けた。

「私はこの映像を確認した直後、ある推測を立てました。すなわち、今までの事件においてもこの人物はこの自動車を使って被害者周辺に出没していたのではないかという事です。そこで、以前押収した第一の事件における喫茶店の防犯カメラの再検証を行いました」

「確か、あの映像には事件に関係ありそうなものは何も映っていなかったという事ではなかったのかね?」

「あの時点ではそうでした。何しろヒントがまるでなかったので、そう判断せざるを得なかったのです。しかし、奴がこの黒い車に乗っていた事が判明した今、再度検証してみる価値はあると考えました。その結果がこれです」

 土井はそう言うと映像を切り替えた。そこには、第一の木更津の事件の際に押収された、現場近くの喫茶店の防犯カメラの映像が映っていた。こちらも店内から外を撮影しているが、通りを走る車や通行人の動きはよく見える。

 映像が映し出されて数分後、不意に土井が映像を停止させた。

「ここです。今店の前を通っている車を見てください」

 一見すると見落としかねなかったが、そこには店の前を走り去っていく、先程とよく似た乗用車の姿が映っていた。

「一通り映像をチェックしましたが、この木更津の喫茶店の映像で先程と似た黒い乗用車はこの一台しか映っていません。つまり、奴があの日あの場所にいたとするなら、この乗用車が奴の車である可能性が高いのです」

 そして、この映像には特筆すべきものが映っていた。店の前を通り過ぎていく乗用車。その背後に、ナンバープレートがくっきりと映っていたのである。

「これは……ナンバーが映っているのかね?」

「はい。現在、科捜研が詳細を鑑定中です。もっとも、これだけの犯行を繰り返していると思われる人物ですから、馬鹿正直に自分の車のナンバーを張り付けているかはやや微妙ですが、それでも奴の行動を知る有力な手掛かりになります」

 姿の見えなかった謎のストーカー……その姿が少しずつ明らかになっていき、捜査本部も勢いを盛り返しつつあった。そして、それを受けて捜査一課長は新たな判断を下した。

「……被害者三名がこの謎のストーカーに監視されていた事実を一般に公表しよう」

 その決断に、誰もが息を飲んだ。

「これは一種の賭けだ。存在そのものが曖昧だった今までと違って、存在が明らかになったこの状況なら公開しても問題ない。何より、ここで公開しておかないと新たな犠牲者が出てしまう事が予想される。何はともあれ、次の被害者を出さない事が大切だ」

 今まで曖昧だったストーカーの存在が明確になり、そのストーカーによる犯行の可能性が高まった以上、情報を公開せずに無防備のまま次の犠牲者を出してしまう事は避けねばならない。そんな事になれば、わかっていたのに注意喚起をしなかったとして警察への批判が発生してしまうからだ。とはいえ、あまりに情報を公開し過ぎると住民のパニックや模倣犯を発生させる事にもつながりかねない。

「難しい状況ですね。模倣犯を防ぐためにも、公開する情報は選択しなければなりません」

「ひとまず、『謎のストーカーが約一ヶ月おきに黒い長髪の女性を狙って連続殺人を引き起こしている』事までは公開するつもりだ。これなら住民に対して最低限の警戒を抱かせる事は可能になる。ただし、被害者の髪が切り取られている事や凶器がナイフである事などは模倣犯対策として公開しない。それでどうだ?」

「……妥当な線だと思います」

 土井も頷いた。とにかく、この連続殺人鬼に対して住民に対する注意喚起を行わなければならない。今の捜査本部にはこれが精一杯の状況だった。

「そういうわけだ。今後は被害者周辺の捜査と並行し、この謎のストーカーに対する捜査に重点を置く。各捜査員は今まで以上に奮起して捜査を行うように」

「はっ」

 事件は大きく動き始めていた。


 同日の記者会見で、警察は一連の犯行が謎のストーカーによって引き起こされている可能性を公表した。この情報を受け、マスコミの報道は一気に過熱した。

 姿の見えない連続殺人鬼。黒髪の女性ばかりを狙う謎の連続ストーカー。県内在住の女性は混乱に包まれ、被害に遭わないために髪形を変える女性が県内で急増するなど、一種の社会問題にまで発展していく事となった。

 警察は同時に、被害者がストーカーの存在を認知してから実際の犯行までの日時までが極めて短い事も公表し、少しでも異常を感じたらすぐに警察に通報するように呼び掛けた。この結果、県警に対するストーカーの通報が急増する事になり、捜査員のみならず県警の警察官たちはその対応に追われる事になったが、それでも犯人の手掛かりをつかむ事はできずにいた。頼りの綱のナンバープレートも、調査の結果やはり半年ほど前に成田空港の駐車場で盗まれた盗難車のものだという事が判明し、それ以上の追跡が難しくなっていた。

 やがて、マスコミはこの連続ストーカー殺人鬼の事を、連続殺人鬼を指し示す「シリアルキラー」になぞらえ、誰ともなしにこう呼ぶようになった。


 いわく「シリアルストーカー(連続ストーカー)」と。


 こうして、県警や県民が全力で警戒する異常な状況の中で事件は過ぎていった。二〇〇五年十二月、いよいよ二〇〇五年も終わりになろうかという年末のこの時期、問題の一ヶ月が無情にも経過しようとしていた。

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