シリアルストーカー

奥田光治

第一章 木更津事件

 その事件……後の世に「シリアルストーカー事件」と呼ばれる事になる凶悪な連続殺人事件が始まったのは、二〇〇五年の秋頃の事だった。


 二〇〇五年九月十二日月曜日、千葉県木更津市。事件の一報が入ったのは、昼を少し過ぎた午後一時頃の事だった。

『と、友達が! 部屋の中で殺されてる!』

 若い女性の悲鳴混じりの絶叫が、千葉市にある千葉県警通信指令センターに響き渡った。応対したオペレーターは緊張した様子を浮かべながらもなるべく相手を落ち着かせるようにして状況を掴もうとする。

「落ち着いてください。すぐに警察が向かいますから、ひとまずあなたの名前と今どこにいるのかを教えてください」

『わ、私は雄琴絵梨おごとえり……と、とにかく早く来て! アユが……アユが部屋の中で……』

「アユというのがあなたの友達の名前ですか?」

『そうよ! 井浦鮎奈いうらあゆな! 部屋の中でアユが血まみれになって倒れているのよ!』

「部屋というのは、その井浦鮎奈さんの自宅ですか? 場所はどこですか?」

『木更津よ! 木更津の「シャンゼリゼ」っていうアパートの二階! 急いで!』

 それが限界だったのか、直後、電話口の向こうから泣き声が木霊した。その瞬間、オペレーターは即座に巡回中のパトカーに指令を送った。

「至急、至急。県警本部から各局。木更津市内のアパート『シャンゼリゼ』にて住人が血まみれで倒れているとの通報あり。通報者は雄琴絵梨と名乗る女性。友人の井浦鮎奈という女性が室内で死んでいるとの事。近隣の巡回車両はすぐに現場に急行し、事実確認の後に現場保存に努めよ」

 と、パトカーの一台から反応があった。

『木更津3(木更津署所属パトカー3号車)から県警本部。現在近隣を巡回中。至急現場に急行する』

「県警本部から木更津3、了解、現場に到着次第現場を封鎖し状況を報告されたし」

『木更津3了解』

 それから数分後、木更津市内のアパート「シャンゼリゼ」の前に木更津署所属のパトカーが滑り込んだ。「シャンゼリゼ」という名前とは裏腹に、問題のアパートは学生向けの安アパートといった風だった。パトカーから降りた二人の警邏警官は軽く頷き合うと、緊張した様子でアパートの中へ突入してく。

 現場はすぐに見つかった。アパート二階の一番奥。そこにある開けっ放しのドアの前で蹲って泣きじゃくっている女性の姿が見えたのだ。警官二人が駆け付けると、女性は虚ろな表情で二人を見上げた。

「雄琴絵梨さんですか?」

 警官の問いに、女性……絵梨は緩慢な動作で頷く。それを確認すると、警官の一人が部屋の中に飛び込んでいく。

 だが、その足がすぐに止まった。

「せ、先輩!」

 そう呼ばれてもう一人の警官が中を覗き込む。が、その顔がすぐに緊張に包まれた。

「これは……」

 そこには想像を超える光景が広がっていた。

 部屋は狭かった。良くも悪くも一般的な学生向けアパートの一室と言った風で、入ってすぐの場所に六畳程度の空間があるだけである。だが、その空間のど真ん中に、仰向けに倒れて天井をカッと睨みつけているこの部屋の主と思しき女性の遺体が大の字に横たわり、敷かれているカーペットを真っ赤に染め上げていた。

 その胸には一本の刃物が突き刺さっており、遠目に見ても生きていないのは明らかである。先輩と呼ばれた警官が放心状態の絵梨に呼びかける。

「一体何があったんだ!」

「……わからない……電話で呼ばれてここに来たらドアが開いていて、中に入ったらあんな状況で……アユが……アユが……」

「アユというのは、井浦鮎奈さんですか?」

「そう……大学の同級生……」

 一方、部屋の中に飛び込んだ警察官が蒼い顔をしながらも戻ってきて質問する。

「一応確認しておきますが、あれは井浦鮎奈さんで間違いありませんか?」

「うん……アユよ。間違いない」

 そう言うと、絵梨はそのまま再び泣き始めてしまった。これ以上はこの場で尋問できそうにない。

「おい、本部に連絡してくれ。俺はここで現場保存をしておく」

「わかりました」

 警官の一人はそのままパトカーに戻ると、無線で本部に連絡した。

「木更津3から県警本部。該当現場にて女性の遺体を発見。他殺の可能性がある。至急、増援を求む」

 それから数十分後、駆けつけた大量のパトカーによって、現場のアパートは大混乱に陥った。


 千葉県警刑事部捜査一課の土井悠三郎どいゆうざぶろう警部が現場となったアパートに駆けつけたのは、通報から一時間が経過した頃だった。すでに現場には初動捜査の刑事たちや鑑識が行き来しており、周辺住民たちが興味本位でそれを眺めている。マスコミも集まり始めているようで、空の上からは空撮をしていると思しきマスコミのヘリの姿もちらほら見える。

「ご苦労様です!」

「あぁ、ご苦労様」

 土井は現場封鎖をしている警官にそう挨拶すると、すぐに現場に入った。二階に上がり、一番奥にある部屋へと向かう。そこには部下の中司武雄なかつかさたけお警部補がすでに先着して捜査を始めていたところだった。

「よう」

「来たか。さすがに警部様は重役出勤だな」

 土井の言葉に中司がぶっきらぼうな言葉で反応する。彼は階級上土井の部下ではあるが、実際は土井とは警察学校時代からの同期・同年代の人間であり、昔から気心の知れた間柄であるので基本的には仕事の上でも互いに敬語を使う事なく話す事が多い。その分遠慮のない意見を互いに戦わせることができるという利点があり、経験豊富なこの二人の刑事のコンビは県警内でもある意味有名であった。

「よせ。本部での書類仕事で遅れただけだ。出世するとその分仕事も増える」

 そう苦笑気味に言いながら、土井は手袋をして遺体の傍に近づき軽く合掌し、早速捜査に取り掛かった。

「で、どうだ?」

「ひでぇな。直接の死因は胸への一突き。ほぼ即死だ。だが、その前に首も絞められているし、その上……」

 中司はそう言うと被害者の髪を示した。きれいな黒髪ではあるが、その黒髪が首筋の辺りで乱暴にバッサリ切り取られてしまっている。

「髪を切っているのか」

「あぁ。ちなみに切られた髪は見つかっていない。こいつはいわゆるスーベニアかもしれないな」

 スーベニア……犯罪学的に言うならば、猟奇殺人鬼などが行う犯罪の記念品収集の事である。一般的には被害者の身体の一部や特定の所持品などが対象になる事が多いが、だとすればこの事件は一筋縄ではいかない事が予想された。

「被害者の身元は?」

「井浦鮎奈。千葉中央大学文学部の四年生。これが学生証だ」

 そこに載っている写真には黒い長髪をした彼女の姿が写っていた。やはり髪の毛はかなり切り取られていると判断すべきだろう。

「発見の経緯は?」

「午後一時頃に一一〇番通報。通報者は被害者の友人で同じく千葉中央大学四年生の雄琴絵梨。本人も大分ショックを受けていて、まだ話は聞けていない。その後駆け付けた所轄署の警官が現場を確認した」

「その絵梨という友人が犯人である可能性は?」

 単刀直入な土井の問いに、しかし中司は首を振った。

「ねぇな。この遺体なら返り血はかなりのものだったろうが、さっきチラリと見た限りだとその友人に血が付いている様子は全くなかった。それに、さっき検視官が言っていた話だと、こいつは死後三時間~四時間程度は経過しているとの事だ」

「今は午後二時過ぎ。という事は、死亡推定時刻は今日の午前十時から十一時頃か」

「あぁ。それで、発見者の友人だがどうもその時間にアリバイがあるらしい。詳しくは事情聴取待ちだがな」

「目撃者は?」

「駄目だな。このアパートの住人は大学生が大半で、問題の死亡推定時刻はほとんどが出かけていたようだ。少なくとも、この階の住人は彼女を除いて全員留守だった」

「そうか……」

 土井は改めて部屋を見渡す。部屋はかなり荒れていたが、これは犯人が荒らしたというより被害者の抵抗でこうなったという側面が強いようだ。

「部屋からなくなったものはあるか? 彼女の髪と命を除いて、という意味だが」

「部屋の主が死んでいるから何とも言えないが……少なくとも現金に手を付けた形跡はない。この学生証の入っていた財布の中にあった五万円が手つかずのままだった。というか、金目当てならこんな学生向けの安アパートなんか襲わないだろう」

「性的暴行は?」

「ない。ただし、性的でない暴行はかなりやったらしいな。全身に何ヶ所も死の直前についたと思しきあざが確認された。かなり殴ったり蹴ったりされたようだ」

「髪の事といい、痛めつけることそのものが目的か……」

 と、そこへ初動捜査班の刑事がやってきた。

「第一発見者が、話ができる程度に回復したそうです」

「そうか……ひとまず、そっちの話を聞こうか」

「そうだな」

 二人はそのまま一階に下りてアパートを出た。絵梨がいるのは正面に停まっているパトカーのうちの一台だった。二人が近づくと、後部座席に座っていた絵梨が頭を下げる。

「落ち着きましたか?」

「は……はい……」

 絵梨は弱々しい声で答える。土井は軽く咳払いすると頭を下げた。

「千葉県警捜査一課の土井です。こっちは中司。今回の事件を担当する事になりました。それで、あなたに事情をお伺いしたいのですが、よろしいですか?」

「はぁ……」

 絵梨の答えに土井はいったん周囲を見渡すとこう提案する。

「まぁ、こんなところで話を聞くのもなんですから、場所を変えませんか?」

 絵梨は一瞬驚いたように目を白黒させたが、やがて小さく頷いた。すると、土井はなぜか周囲をキョロキョロと見回す。

「そうですね……じゃあ、あそこにしましょうか」

 土井が指差したのは、アパートのすぐ近くにある喫茶店だった。これには絵梨もどう答えていいのかわからず困惑気味の様子だったが、今さら拒否するわけにもいかず、結局三人でその喫茶店に向かう事になってしまった。

 当然、この状況下でいきなり来店した三人に店主は驚きの表情をしていたが、土井は警察手帳を見せながら「事情聴取にここを使わせてください」と強引に押し切り、その上調子よく三人分の飲物まで頼む始末である。結局、店主は店の入口に「閉店中」の看板を掛ける事になった。

「あの、警察の事情聴取ってこんな感じなんですか?」

 絵梨がおずおずと尋ねると、土井は小さく肩をすくめた。

「まさか。私が勝手にやっているだけです。こっちの方が話しやすいと思いまして」

「はぁ……」

「では……落ち着いたところで、早速ですがいくつか質問をさせてもらいます」

 その言葉に、絵梨の表情も緊張に包まれる。土井は手帳を取り出してメモの用意をすると、いよいよ事件の質問を開始した。

「まず、確認のためにあなたの名前と職業、それに住所を」

「……雄琴絵梨。千葉中央大学文学部四年です。本籍地は静岡の浜松。現住所は千葉市緑区の……」

 そう言いながら彼女は学生証を見せる。彼女や被害者の通っていた千葉中央大学は県庁などが集中する千葉市中央区にある大学である。ゆえに中央区と隣接する緑区に住居を構えているのだろう。

「被害者の井浦さんとはどのようなご関係で?」

「大学の友達です。同じ学部の同じゼミで、仲が良かったんです。出会ったのは入学した直後のオリエンテーションだったんですけど、何というか、気が合って」

「なるほど。ところで、今日はどうしてここへ?」

「えっと、その……アユから家に来てくれないかって電話をもらって」

「いつですか?」

「昨日の夜です。時間はえっと……」

 絵梨はそこで自分の携帯電話の着信履歴を確認する。

「昨日の……午後十時くらいです。明日ちょっと家に来て相談に乗ってほしいと言われました。でも、私は朝から大学の夏季集中講義があったし、その時は『午後からなら行ける』と答えたんです。アユもそれで納得して……だから私、今日の午後一時くらいにあの部屋に行きました。でも、ノックしても返事がなくて、試しにドアノブをひねったら鍵が開いていて……」

「あの遺体を発見した、と」

 絵梨は青ざめた表情で頷いた。

「私、どうしたらいいのかわからなくなって……だって、どう見ても死んでるようにしか見えなかったし、そのまま警察に電話して……後は刑事さんたちも知っている通りです」

「なるほど……ところで、あなたを呼んだ相談事というのは?」

 これに対して、絵梨は少し重々しい口調で告げた。

「実はアユ、少し前から大学に来なくなっていたんです。二週間くらい前からかな」

「その理由を聞いていますか?」

「それが……実はアユ、少し前から誰かに付きまとわれているみたいだったんです」

 その言葉に、土井の表情が険しくなる。

「それは……つまり、ストーカーという事ですか?」

「わかりません。彼女、二週間くらい前に実家の用事で一度帰郷していたんですけど、そこから帰った直後から誰かに付きまとわれているみたいだって怯えるようになったんです。しばらくして大学にも来なくなって、私も電話とかで相談に乗っていたんですけど……」

「警察に訴えなかったんですか?」

「それも考えたみたいですけど、見られている気配だけで別に被害もなかったみたいだし、アユ自身相手の姿を直接見た事はなかったんです。だから、気のせいかもしれないって通報するのをためらってしまって……。こんな事になるんだったら素直に警察に相談しておくんだった……」

 絵梨が少し涙ぐむ。

「すみません……取り乱しちゃって……」

「いえ……。つまり、その相談事というのはその謎の視線に関する事だったと?」

「はい。ただ、何を相談するつもりだったのかはわかりません。それは今日直接会って話すつもりだったみたいですから」

「なるほど」

 そこで土井はいったん手帳を閉じた。

「いいでしょう。ひとまずこれで終わります。もちろん、後ほど警察署で詳しい話をしてもらう事にはなりますが、よろしいですか?」

「はい……」

「では、先にパトカーに戻っていてください。この後も色々聞くとは思いますが、よろしくお願いします」

 丁寧に言われ、絵梨は頭を下げながら喫茶店を後にした。後には刑事二人が残される。

「さて、ひとまず基本的な状況はつかめたが、まだまだ証拠はそろっていない。何か犯人につながる証拠でもあればいいんだが」

「そうだな……」

 中司の言葉に対し、土井はしばらく店内を見回していたが、その視線が急にある一点で止まった。

「例えば、あれなんかどうだろう?」

 土井の言葉に中司が視線の先を見る。そこには、喫茶店の中から道路の方を向いている防犯カメラがあったのだった……。


 翌日早朝、木更津署の大会議室の入口に「木更津女子大生殺害事件」と書かれた張り紙が貼られ、正式にこの事件に対する捜査本部が発足した。捜査陣営は木更津署刑事課の刑事たちに千葉県警本部から派遣された土井たちの捜査班を含めた五十名体制の大規模なものとなっていた。捜査本部長に千葉県警刑事部捜査一課長。副本部長に木更津署の署長が就いている。

 やがて土井が正面に立ち、捜査会議がスタートした。

「えー、ではこれより、『木更津女子大生殺害事件』に関する第一回目の捜査会議を開きます。まず、事件概要を」

 その言葉に、中司が立ち上がって概要を報告する。

「被害者は井浦鮎奈、二十二歳。千葉中央大学文学部日本文学科の四年生です。現場は彼女の自宅アパート『シャンゼリゼ』の自室。昨日、すなわち九月十二日午後一時頃に部屋を訪れた同じ大学の友人、雄琴絵梨が遺体を発見。直後に通報しています。発見当時、部屋の鍵はかかっていなかったとの事です。通報から最寄りをパトロール中だった警察官の到着まで約十~十五分前後となります」

「では次に遺体の所見について検視官から」

 その言葉に検視官が立ち上がる。

「死亡推定時刻は遺体発見当日の午前十時から午前十一時頃までの一時間の間。死因は刃物を心臓突き刺した事による出血性のショック死。ただし、その直前に首を絞められていて、死亡時には意識がなかったと思われます。また、体全体に暴行の痕跡が確認されました。すべてに生活痕が見られたため、これらの暴行は彼女の生前に行われたと考えて問題ないでしょう。さらに、髪の毛が途中から強引に切断された痕跡も見られます。切られた髪の毛に関しては現場からは発見されていません」

「性的暴行は?」

 捜査一課長の問いに検視官は首を振る。

「ありません。性的暴行が目的とは考えにくいとの事です。報告は以上」

「次、現場の遺留品に関して鑑識」

 鑑識が立ち上がって報告する。

「えー、凶器のナイフに関してですが、これは部屋にあったものではなく持ち込まれたもののようです。現場には台所の包丁以外に刃物らしきものは存在せず、その包丁も手付かずの状態でした。現在、ナイフの入手経路をたどっていますが、どうも安物の大量生産品らしく特定は難しいものと思われます。また、被害者の髪を切り取った刃物はこの凶器のナイフと見て間違いないでしょう。刺さったナイフに彼女の髪が数本付着しているのが確認されています。凶器等に指紋はなし。また、部屋全体に関しても被害者及び第一発見者の雄琴絵梨以外の指紋は一切検出されていません。犯人は手袋等を着用して殺害を実行したものと思われます」

「計画的犯行という事か。一応聞くが、その第一発見者が犯人である可能性は?」

 一課長の問いには中司が答えた。

「アリバイを確認しました。死亡推定時刻当時、彼女は千葉市中央区にある千葉中央大学で講義を受けていた事が確定しています。少人数制のゼミ授業で、担当教授も彼女が出席している事を明確に覚えていました。少なくとも午前九時から講義が終了した午後零時まで彼女が千葉市にいたのは確実で、アリバイは完璧です。そこから木更津市の現場に移動して遺体を発見したとすれば、時間の辻褄は合います」

「なるほど……。いや、話を中断して悪かった。続けてくれ」

 そう言われて鑑識が再び報告を開始する。

「現金には手が付けられていません。部屋の机の上に五万円が入った財布が置きっぱなしになっていました。その他なくなったものに関しては部屋に何度か訪れた事がある第一発見者の協力で確認作業をしていますが、何分おぼろげにしか覚えていないようで、すべてを特定するのは困難かと思われます。ただ、部屋を荒らした痕跡は現時点では確認されていません。その他痕跡に関しては現在調査中。鑑識からは以上です」

「次、初動捜査班からの報告」

 今度は所轄の刑事の一人が立ち上がった。

「現場のアパートですが、主な住人は学生で、犯行の時間帯はそのほとんどが外出していたため、目撃情報は期待できません。犯人はかなりうまいタイミングで犯行を行っていると言えるでしょう。アパート周辺も閑静な住宅街で、現在も聞き込みを継続していますが、今のところ有力な目撃情報は上がっていないのが現状です」

 ただし、と刑事は言い添えた。

「現場近くにある喫茶店店内の防犯カメラを押収して現在確認作業中です。この映像から少なくとも事件当日にこの店の前を通った車や人間を特定できます。もっとも店内からガラス越しに見た形での映像になる上、現場そのものではなくあくまで『現場近くを通りかかった車や人物の特定』に過ぎないので、これが事件解決につながるかどうかは未知数です」

「問題の喫茶店の位置は?」

「アパートから二〇〇メートルほど東にずれた場所の道路の反対側です」

「微妙な距離だな……。とはいえ、数少ない手がかりである事は間違いない。引き続き解析を急げ」

「了解」

「他に何かあるか?」

 この一課長の問いに、中司が手を上げて立ち上がった。

「第一発見者から話を聞いたところ、彼女は事件の二週間前、帰省先から戻ってきた直後から何者かの視線を感じるようになっていたという事です。ただし、視線だけでそれ以外に被害はなかった事から警察に通報はしていません。とはいえ被害者にとっては気味が悪かったらしく、彼女はここ数日大学に行けない状態が続いていたという事です。第一発見者が事件当日あの部屋にやってきたのも、それに関する相談だったと言います」

「相談内容は?」

「不明です。部屋で直接話すと言っていたようです。なお、この通話は事件前夜の午後十時頃に行われ、現段階ではこれが被害者の生存が最後に確認された瞬間となります」

「帰省していたと言ったが、彼女の実家は?」

「本籍地は兵庫県神戸市です。雄琴絵梨の話では、実家の用事で帰省すると言って、一週間くらいいなかったと言っています。そして、帰宅して以降に例の視線を感じるようになったとか」

「その視線の主に関して何か情報は?」

「現段階では何も。被害者自身、その姿を見ていないようです」

「見えないストーカー、か」

 一課長がそう呟いた。

「ひとまず、その謎の視線の主について調べてみよう。それと、彼女の交友関係も徹底的に洗え。この手の捜査は時間との勝負だ。全員、気を抜くな!」

「はっ!」

 捜査会議は終わった。数分後、刑事たちはそれぞれの役割を持って捜査本部を飛び出していく。事件そのものは確かに残虐ではあったが、この段階では一般的な殺人事件の捜査と何ら変わるものではなかったのも確かであった。それゆえ、捜査本部も捜査を進めていけば犯人に行きつくはずだと心のどこかで思っていたのである。


 だが、その後この事件の捜査は捜査本部の予想に反して硬直化する事となった。目撃者や手掛かりがあまりにも少ない上に、問題となった謎のストーカーの存在も立証できず、事件は一気に長期化の様相を見せたのである。

 マスコミも最初こそこの痛ましい件の事を取り上げたものの、事件から数日が過ぎると徐々に興味関心がなくなったのか報道熱は沈静化していく事となった。そんな中でも、土井たち捜査陣営は諦める事なく、地道な捜査を継続していた。

 だが……これは嵐の前の静けさに過ぎなかった。その嵐が一気に本格化する事になったのは、井浦鮎奈殺害事件からちょうど一ヶ月が経過した頃だった。

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