餓鬼

彼岸花

 二つのビルに挟まれた薄黒い路地裏にて、一人の女が、絶望に染まった瞳で爽やかな夏の青空を見つめていた。

 若い女だ。年齢は二十代前半。笑えばさぞや可愛らしかったであろう、綺麗な顔立ちをしているが……今は目許の化粧が溶けて滲むぐらい涙を流し、誰にも届かなかった悲鳴を上げたであろう口は恐怖に引き攣った状態で固まっていた。苦痛の余り強く噛んだ時があったのか、唇には固まった血がたっぷりとこびり付いている。

 豊満で魅惑的な身体はコンクリートの地面(前日に降った雨で湿っているが、夏場の暑さもあってか今では大分乾き気味だ)の上で仰向けに横たわり、四肢は大の字に広げられていた。ただしその四肢は、人体ならば通常曲がらない方を向いていたが。地面には大量の血が広がり、女の身体を浸すぐらい大きな水溜りを作っている。水溜りを作る血はすっかり黒ずみ、錆びた鉄と腐敗した生モノの臭いを漂わせていた。

 そして女の腹は裂かれ、内臓が四方八方に引き摺り出されている。

 カラスにでも啄まれたのだろうか。内臓らしき肉片があちこちに飛び散っている。七月下旬の暑さもあってか、既に鼻を突くような悪臭を発し始めていた。大きなハエも飛び回り、新鮮な死肉に卵を産もうとしている。一月、いや、ニ週間も置いておけば、女性の身体は骨を残して自然に還るだろう。大自然の前では、人間も他の動物も変わらないのだ。

 無論、『人間社会』はそれを良しとしないが。動物の死骸はゴミとしてすぐに片付けるとしても、人間の遺体はそうしない。死んだのは誰なのか、何故死んだのか……それらを調べ、然るべき対応を行う必要がある。

 ましてや殺人事件が疑われるなら、尚更だ。


「……こりゃあ酷ぇな」


 女性の『遺体』を前にして、ぽつりと、加藤優成は己の心情を独りごちた。

 優成は警視庁に務める警察官であり、殺人などの事件を捜査する、所謂刑事だ。出世にあまり興味がないのもあって階級は高くないが、今年で四十半ばになる歳まで地道に積み上げてきた功績のお陰か、警視庁内ではそれなりに名が知られている。厳つい顔立ちやガッチリとした体躯もあり、部下には「おやっさん」という呼び方が定着していた。正確には先に出世した若い上司からも時折そう言われるのだが、そちらはちょっと複雑な気持ちになる。

 ともあれそれだけの功績を、つまりは刑事事件を解決してきた彼は、遺体を見た回数もそれなりに多い。時には悲惨な死に方をした、目を覆いたくなるような状態の人々も幾度となく見てきた。

 だが、ここまでの惨状は流石に経験がない。

 遺体が発見された此処は、幾つものビルが建ち並ぶ都市部である。東京のビル街……と言えば都会のように思えるが、実際には駅前だけが栄えている半端な地だ。ビルの中にあるのも会社よりも飲み屋とキャバクラの方が多い。ちなみに被害者の女性も、財布などの所持品からこの地域にあるキャバクラ店の従業員だと判明している。

 お陰で朝帰りのサラリーマンや飲み屋の店員などで、真夜中や明朝の人通りはそこそこ多い。明朝五時に酔っ払った中年男が偶々この路地裏を通ったのも、ある意味では必然と言えるかも知れない。仮に誰も通らずとも、夏場である今なら三日もすれば誰かが発見しただろう……漂う腐敗臭によって。


「ひ……ひぅっ……」


 尤もそんな腐乱死体を目にしたから、優成の横で顔を引き攣らせている若い女刑事など、引き攣る暇もなく胃の中身をぶち撒けていたかも知れないが。


「おい、夏目。あまり無理するんじゃない。ヤバそうなら外に出ろ」


「い、いえ! ダイジョブっす! こ、こ、これぐらい、なんて事、ないっす!」


 優成に退出を促された女刑事――――夏目神楽は、顔を青くしながらそう答える。

 神楽は今年入庁したばかりの新人刑事だ。十代を思わせる童顔な顔立ちをしているが、身長百七十超えの身体は鍛え上げられた逞しいもの。刑事となる前には婦女暴行犯二人組(どちらもそこそこ筋肉質な人物)を一人で無力化、逮捕に協力した事もあるという。その強さと容姿に惹かれる女性警察官、それと男性警察官は少なくないらしい。つまり男女どちらにもモテるという事だ。

 彼女は今優成の部下という形で、経験を積んでいる。とはいえまだまだド新人。これまで見てきた遺体は精々撲殺や刺殺体程度で、『中身』の見えるものは未経験だった。此度の遺体は状態が酷いと聞いていたので、優成としては今回連れてくる気はなかったが……神楽の方から現場捜査を志願。結果、こうして遺体を前にして、激しく動揺している。

 お前語尾に「っす」なんて付けるキャラじゃねぇだろ、と思いながら優成はため息を吐く。


「テメェを気遣ってんじゃない。現場げんじょうをゲロ塗れにしてみろ、証拠品多数でお前を犯人に仕立て上げてやるからな」


「あ、はい。すみません、大丈夫です。吐き気はそこまでしてませんので……念のため朝飯抜いてきましたし、これでも駄目そうなら早めに退きます」


 優成に脅され、少し冷静さを取り戻したようだ。普段通りの口調を取り戻した後、神楽は遺体から顔を背けながら深呼吸。やや顔を青くしつつも、情けなさの抜けた、引き締まった表情を浮かべる。

 落ち着いた上でそう言うのなら、優成としては無理に追い払うつもりはない。優成は視線を神楽から遺体へと戻す。


「なら良い。まずは現場の保存が最優先だ……しっかし、本当に酷えなこりゃ」


「おやっさんでも見た事ないぐらいですか?」


「ああ。つーかお前は、ここまで損壊した遺体があり触れてると思うのか?」


「いや、思いませんけど。でもおやっさんベテランですし」


「ベテランっつーのは、お前ら新人よりちょっと色々知ってるだけだ。滅多に起きない事は普通に知らん」


 新人刑事の発言にツッコミを入れつつ、やれやれと優成は肩を竦める。

 確かにベテラン刑事である優成は、これまで様々な遺体を見てきた。発見されず何日も夏場に放置された腐乱死体、海を数日間漂っていてぶよぶよに膨れ上がった水死体、包丁で何十回も顔を刺されてぐちゃぐちゃにされた死体……どの遺体も、一般人が見たら吐くだけでは済まないだろう。優成は不本意ながら凄惨な遺体には見慣れており、故にこのパターンに当て嵌まらない惨殺遺体でも、多少は冷静に見ていられる。

 しかしここまで酷い状態のものは優成としても初めてだ。正直目を背けたくなる。


「(だからって見ない訳にもいかないけどな。こう言うのも難だが、遺体が一番の証拠品だ)」


 ふぅ、と小さく息を吐いて気持ちを落ち着かせてから、優成は目の前の遺体を見る。

 まずは顔から。表情こそ恐怖と絶望に染まっているが、殴られた痕跡などは特に見られない。口を手で塞いだような形跡(涎でベトベトになっている等)もなかった。首にも絞められた痕跡はない。

 明確な暴行の形跡は、手足と腹の怪我だけだ。しかしどちらも奇妙の一言に尽きる。

 まず手足。第一印象であり得ない方に曲がっていると優成は感じたが、その感覚の正体は肘だ。その部分の皮が、百八十度曲がっている。関節が外れているのか、骨が砕かれているのかは分からないが……青痣が付いていた事から、なんらかの大きな力により無理やり曲げられたようだ。

 そして一番目を引く、腹。

 はらわたがぶち撒けられている。ついついその事実だけに目が行きがちだが、優成が注目したのはその裂かれた腹の断面。

 ぐちゃぐちゃに潰れているのだ。例えば、ナイフで人の腹を切り裂いたとして……医師のようなプロでなくても、それなりには綺麗に切れるだろう。ノコギリのようなものを使えば断面は汚くなるだろうが、それだって真っ直ぐには切れる筈だ。

 しかし被害者の腹の断面は、見たところかなり凸凹が酷い。おまけに真っ直ぐ切られた様子もない有り様である。

 これはまるで、力尽くで引き裂いたかのような……


「お、おやっさん。ちょっと質問なのですけど……これ、本当に『殺人事件』なんですかね?」


 考え込んでいた優成に、神楽が根本的な問いを投げ掛けてくる。

 馬鹿野郎、どう考えても殺人事件だろうが――――と言いたいところだが、神楽の疑問も尤もだ。人間の腹を引き裂くなんて、いくら本気でやったからといって早々出来るものではあるまい。それに肘の部分で手足を捻じ曲げるなんて、どんな馬鹿力でやれば良いのか。

 加えて、ぶち撒けられた腸が、ちょっとばかり気もする。

 人間技と考えるよりも、凶悪な獣の仕業……例えばクマなどの猛獣によるものだと考える方が納得出来る。その場合この殺人は事件ではなく、野生動物に襲われたという『事故』だ。警察も詳細を調べるが、最終的には猟友会に駆除を依頼する事となるだろう。

 だが。


「流石に此処でクマはないだろ。近くに雑木林はあったと思うが、小学生が冒険する程度の小さなもんだ。いるのは精々ハクビシンぐらいだな」


「成程、つまりハクビシンが犯人……で、ハクビシンってなんです?」


「……タヌキみてぇな動物だ。人間を食い殺すような生き物じゃねぇ」


「じゃあ違いますね。うーん、でもこれ人間の仕業と言うにはあまりにも……無惨と言いますか」


 神楽の言い分を否定した手前、優成としては野生動物説に賛同し辛い。だが、新人の意見は至極尤もなものだ。とても人間の仕業とは思えない。残虐性という主観的な話ではなく、物理的な意味で。

 とはいえ所詮は印象の話である。腕を捻じ曲げた云々も、例えば格闘術のようなものを使えば簡単に出来るかも知れない。腹を引き裂くのだって、ナイフで先に傷を付けておけば、恐らく優成の力でも真似出来るだろう。やってる事は異常そのものだが、異常性は人間でない事の証明とはならない。

 結局のところ、全て推測なのだ。警察は推測で動いてはならない。物証を集め、証言を集め、真実を確定させて捜査していく。

 大事なのは確かなもの。

 ならば今すべきは、その確かなものを集めている者達に事実が何かを尋ねる事だ。


「……後藤。どうだ、このヤマ。事件か、事故か」


 優成は遺体の傍にいる人物に声を掛ける。

 その人物は青い服を着た、中年の女性だった。やや恰幅が良くて、ふっくらとした顔は人当たりが良さそうな印象を受ける。白衣を着れば食堂のおばちゃんと間違われそうな人相だ。

 しかし彼女の眼差しは、腸をぶち撒けた遺体を一心に見つめている。手に持ったプラスチック製のボード、そのボードの上にある紙に色々な情報を書き込んでいた。

 後藤律子。鑑識官だ。優成とは同い年であり、事件の際には顔を合わせる事も少なくない。顔こそ人当たりが良いが、その性格は犯人を決して許さない、蛇のような執着心を持った正義感の強い人物である。

 その彼女の瞳が怒りに震えている。だから答えは訊くまでもないのだが……先の質問は、詳しい話をするための前振りのようなものだ。


「事件よ」


 返ってきたのは予想通りの答え。そして律子がそう断じたからには、相応の証拠があるのだと優成は思う。


「根拠は?」


「遺体に指で圧迫したり、爪を突き立てたと思われる痕跡が無数にあるわ。獣じゃなくて、人間に取り押さえられたのは確か。あと付近から指紋も取れた。人気なんてないし、目撃者も現場は殆ど触ってないらしいから、恐らく犯人のものね」


「……成程」


「それと、ゲソ痕もあった……いえ、足跡と言う方が確かかしら」


 律子はそう言うと、ある方を指差す。

 示された場所を見ると、確かに、そこには『足跡』があった。血痕で出来たものだ。殺害後に犯人は血溜まりを踏み、そのまま歩いたのだろう。舗装された地面は昨日の雨で湿っていたが、血の粘り気のお陰か足跡は比較的くっきりと残っているーーーー

 そこまで観察したところで、優成は一気に血の気が引いた。

 この足跡は、靴跡ではない。

 。何故なら指の形が、微かにだが見られるのだから。つまり犯人は遺体から流れた血溜まりを、裸足で踏んだという事。

 ぞわぞわと、背筋が凍るような感覚を優成は覚える。

 普通、屋外を裸足で出歩く人間なんて子供ぐらいだ。その子供だって、血溜まりを踏み付けて歩き回るなんて事は、血溜まりの意味すら分からないような幼子以外はしないだろう。だが、此処にいた『人物』はそれをやっている。

 長い刑事人生の中で、異常な犯人というものには何度か出会った事がある。こういうのも難だが、頭のおかしい輩というのは常人には理解出来ない理屈で事を起こす。その行動理由を理解しようとするだけ無駄というものだ。

 しかしそれを差し引いても――――この足跡は異常だ。何故裸足で殺人現場を歩いたのか、全く意味が分からない。

 そして、その歩みが向かう先には何があるのか。

 不謹慎ながら『好奇心』を覚えた優成は、足跡が向かう先を目で追う。空が明るくなったとはいえ、路地裏故に此処は薄暗く、あまり遠くまで見通せないが……足跡の方も長くは続いておらず、辿り着いた『目的地』はその場から見えた。


「マンホール……?」


 思わず呟いた通り、そこにあったのはマンホールだ。それも蓋が外れた状態の。

 まさか、と思った。だが足跡はそのマンホールで途切れている。『証拠』があるのに可能性を否定するなんて事は、警察官としてやってはならない行為だ。


「……跳び込んだのか、この下に」


「ええ、ほぼ確実に。マンホール内には下水に通じる梯子もあるけど、そこからも指紋が検出されたわ」


「うへぇ、下水に逃げたんですか……ん? あれ? でも昨日って確か大雨でしたよね? 雨は夜中には上がったみたいですけど……」


 首を傾げた神楽が言うように、昨日はかなりの大雨だった。観測史上何番目、というほどの規模ではないが、かなりの降水量だったのは違いない。

 なら、そうした雨水が流れ込む下水道はどんな状態か?


「その通りよ。私も覗き込んで確認したけど、未だかなりの水量が流れていた。大人でも簡単に流されるわね。勿論、事件があった時間はもっと激しかったでしょうけど」


「つまり、中に逃げ込んだ奴は……」


「ほぼ確実に流されてるわ。例え水泳の競技者だとしても、問答無用で」


 律子の言葉に、優成は思わず息を呑む。その飲み込んだ息を出すように、小さくため息を吐く。


「容疑者死亡、って言いたいが、死体が出なけりゃ宣言なんて出来ねぇ。しかし下水に飛び込んで、何処に流れたかも分からん死体を探すなんてまず無理。こりゃ面倒だ。遺族も、浮かばれないな」


「ええ、本当に。逮捕して牢屋に入れれば被害者遺族が救われるなんて思わないけど、このままだと……」


「しっかし、犯人はなんで下水に飛び込んだんですかね? 大雨なんだから、自殺行為たって分かりそうなもんですけど」


「さて、どうかしら。事件時は雨が止んでいて、いけるって思ったのかも知れない。殺しをした後の興奮状態じゃ、おかしな判断をしても不思議じゃないわ。それとも目的を果たして自害したのかも……いずれにせよ、生きている可能性は低そうね」


 律子の語るように、飛び込んだ輩が生きているとは思えない。そしてその遺体が発見される事も、あまり期待出来ない。

 それに疑問も残る。マンホールの蓋というのは金属製で、かなり重い。それは簡単には外れないようにするための工夫であり、また盗難を防ぐための仕組みでもある。今では技術革新により軽量化も進んでいるが、それでもかなり重たいものだ。どんなに力があろうと素手ではまず無理であり、専用の道具が必要となる。

 何故犯人はマンホールを空ける道具なんて持っていたのか? こんな異常な殺し方をしている輩の事だから、常識的な考えをしても仕方ないだろうが……

 なんにせよ迷宮入りしそうなこの件に、優成は今から気が重くなる。

 ――――そう、不安になっていたのは迷宮入りするかどうか。

 何故なら、生きてる筈がないのだから。洪水が如く流れる下水道の中を、人間が泳いでいける訳がない。それはこの『事件』の犯人がどんな異常者だろうと関係ない事。

 事件は解決しなければならない。だが、この事件は終わったのだ。

 そう思いたかっただけだと、自覚もせぬままに。

 だからこそが新たな事件を起こすなんて、優成は微塵も考えていなかった。

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