第五話

 且元を総奉行として、豊臣家が各所の寺社修築造営に乗り出すのはこのころのことである。力量を示すために戦勝を重ねるという方法をとることが出来なかった豊臣は、寺社修築造営という公共事業を主催することによって、合戦に代えたのである。

 これは、同じころ徳川家によって行われていた天下普請に範をとったものと思われる。将軍の名の下に命じられた天下普請と江戸への参勤は、軍人である諸大名を平和的に動員するという意味において画期的であった。

 豊臣家には諸大名を動員する権力はなかったが、将軍家ではないのだからそれはむしろ当然のことであった。言い方を換えれば、豊臣が公共事業で動員できなかったのは武士だけで、他の階層はその限りではなかったということである。事実、豊臣がこのころに行った寺社修築造営においては、全国の木材産地に豊臣の手が及び、商工業者が動員されたことが覗われる。これは豊臣家以外の諸大名では行い得ない事業であった。

 豊臣と徳川の水面下でのつばぜり合いはこの間も飽くことなく続けられている。

 全国諸大名は押し並べて江戸に人質を差し出し、或いは参勤するなかで、豊臣だけは徳川の主筋にあたる既得権益を前面に押し出して、人質を差し出しもせず、秀頼が江戸に参勤することもなかった。慶長九年(一六〇四)には秀吉七回忌の豊国社臨時祭を主催し、多数の町衆を動員している。

 翻って関東方は、翌年二月に秀忠が十六万もの大軍を引率して入京しているが、これなど大坂方に対する露骨な軍事的圧力以外のなにものでもない。秀忠は上洛を果たしたこのタイミングで内裏の修築を実施しており、同時に家康は秀忠の将軍任官を朝廷に奏請している。

 秀忠の将軍推挙自体は、既に前年までに朝廷との間で調整がついていたはずであり、あとは秀忠が将軍たるに相応しい手柄を挙げるだけであった。内裏の修築はその象徴的行為だったと考えられる。朝廷への馳走こそが、室町期よりこのころまで連綿として続く官途推挙の条件だったのである。

 同年四月、秀忠の将軍任官と内大臣任官。

 家康が将軍辞官とともに右大臣を辞したことにより、秀頼は再度同職に任官し、官位の上では二代将軍秀忠より上位に立ちはしたが、やはり関白任官は果たされなかった。さながら内大臣と右大臣を行ったり来たりする「塩漬け人事」の様相を呈しており、このころの徳川家が秀頼の扱いに苦慮していた様子が手に取るように見えて興味深い。

 秀頼は二年前の慶長八年には秀忠の娘千姫と結婚しており、秀忠は義理の息子にあたる秀頼に対して

「自身の将軍任官を祝賀するために上洛せよ」

 と命じているが、これは豊臣家が拒絶している。

 一説によると、秀頼に危害が加えられることを危惧した茶々が

「強いて上洛せよというなら秀頼を殺して自分も死ぬ」

 と狂騒したためとも伝わる(『当代記』)が、このころまでに秀頼の関白任官が果たされるか確約されておれば、茶々は豊臣の家政に口を出すこともなかっただろうから、こうまで強硬なことは言わなかっただろう。こんなエピソードひとつとってみても、茶々が損な役割を背負わされていたことが読み取れようというものである。

 秀頼の上洛拒否から一年後、関東方は朝廷に対し、徳川からの推挙がない叙任を禁じる措置を執った。朝廷は関東方にも大坂方にも与しない謂わば第三局であり、自らの権益の防衛或いは拡大のためには、徳川を牽制する目的で豊臣に叙任権を行使しかねない危険性が確かにあった。そしてそれこそが豊臣家の付け入る隙だったのだが、徳川は強引にその手を封じてしまったのであった。

「徳川に臣従さえ誓えば関白任官を奏請してやらなくもない」

 という家康の声が聞こえてきそうな措置である。

 そして秀頼の関白任官への道を事実上閉ざしたともいえるこの措置は、豊臣の方針をある方向に一本化させることになる。

「出来るだけ長く大坂城を維持すること」

 である。

 このころの豊臣は疑心暗鬼に陥っていた。

 前述のとおり徳川は、豊臣が明確に臣従することを望んでいた。

 秀頼を塩漬けにしたのは

「次に進みたくば臣従せよ」

 という暗示である。

 このメッセージは豊臣に伝わっていただろうが、やはりそこは暗示に過ぎないから、臣従したとして本当に関白任官が果たされるのかどうかは豊臣から見れば不確定要素ということになる。これではそう簡単に頭を下げられるものではない。

 秀頼は慶長十二年(一六〇七)には右大臣を自ら辞しているが、これなど徳川に向けた

「いい加減、次に進ませてくれ」

 というメッセージだった可能性がある。時に秀頼生年しょうねん十五の年であり、名実ともに成人に達したといってよかった。

「さあいよいよ秀頼の関白任官を妨げる理由はなくなりましたよ。右大臣も辞したことだし、大人になった秀頼を無官のままにしておいて良いんですか」  

 というわけである。

 しかし依然臣従を誓わず大坂城から出もしない秀頼は、右大臣をなげうってまで発したメッセージをあっさり徳川に無視されてしまう。

 翌年には左大臣に任じられた可能性の高い宣旨もあるにはあるが、確定的な見解ではない。徳川に潰された「幻の任官」だったかもしれず、それにもし任官していたとしても、左大臣では塩漬け状態と変わらない。

 豊臣家が最後にすがったのは、亡き太閤秀吉が死後もなお愛息を護ろうとして入れた巨郭大坂城であった。豊臣家が大坂城の維持にこだわったのは、秀頼の任関白が絶望視される状況下、この巨城が、比喩でもなんでもなく、文字どおりの「最後の砦」になったからであった。

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