第三話
その豊臣の人々の中で、或いは秀頼本人よりもその関白任官を熱望している人物がいる。いうまでもなく秀頼生母茶々である。秀頼幼年のみぎり、この茶々こそが大坂城の女城主とでもいうべき立場にあった。
後年、その勝ち気な性格が災いして豊臣を滅ぼしたなどといわれなき悪評を
そんな茶々が秀吉並みの権勢を振るって再び日本国中を豊臣の
茶々が関白任官を熱望する所以は
「秀頼が一人前になるまでは自分が豊臣を切り盛りしなければならない」
という義務感から、一日でも早く解放されたかったからに過ぎない。
茶々にとっては、秀頼は秀吉の息子なのだから関白に任官してこそ一人前というだけの話だったのである。
当代より四百年後の世界を生きる我々の視点から見れば、関白任官が一人前の指標などというと、秀頼が茶々から背負わされていた期待がとんでもない重荷のように感じられ、そこにまた鬼の教育ママの如き「茶々悪玉論」の付け入る隙が生じるわけなのであるが、秀頼自身の血筋やその重ねてきた経歴に鑑みれば、それは当時、十分すぎるほど達成可能な目標と考えられていた。
だからこそ茶々はこともなげに言ってのけるのである。
「秀頼殿が一人前になったことを見届けて、
と。
少し後の江戸時代に入ると、身分の高い武家の妻は夫の死を契機に落飾するのが一般的になってゆき、茶々が秀吉死後も落髪しなかったことを以てその軽薄を難じる論調が江戸期に散見されるようになるのだが、それは後世の常識をその時代に無理やり当てはめただけの話なのであって、慶長のころまではまだそういった風習は根付いていなかったようである。その証拠に茶々だけではなく、秀吉の正室
そして落飾つまり出家とは、当時の人々にとって、世俗を離れ人間として一段格上げされることを意味していた。
治長も茶々が落髪を願うその意味をよく理解している。
「その願いは間もなく果たされるでしょう」
治長は根拠もなくいい加減な返事をしたのではない。
というのは、関ヶ原以降長く自領に割拠して対抗の構えを崩していなかった島津が、遂に徳川に屈服したからであった。これは島津という一大名が徳川に屈したというだけでなく、これを以て日本中の諸大名が皆押し並べて徳川の前にひれ伏したことを意味していた。
遂に徳川が武家の棟梁たるに相応しい形式を整えたのである。
そして世上においては
「島津の屈服を以て家康が将軍に任官し、同時に秀頼が関白に昇任する」
というまことしやかな噂話が洛中を中心に流れていたのであった。
いかに豊家が五摂家と並んで関白職に就くことができる家柄とはいえ、さしたる官歴もないまま一足飛びに関白というわけにはさすがにいかなかっただろう。その意味では、擬宝珠の如きこれまでの官歴もまったく無意味だったとまではいえぬ。
一時は秀吉の死によって失われるかに見えた豊臣の権威は間もなく復活するのである。そして豊臣の関白任官は、秀頼、その次の世代、そしてまたその次の世代といった具合に、未来永劫続いていくことだろう。
もしかしたら大坂城が輝いてみえるのは、そこで立ち働く人々の意思によるものなどではないのかもしれない。秀頼の関白任官を目の前にした自分自身の精神的躍動のためにそう見えるのかもしれぬ。
そう思うと
(俺はいま豊臣とひとつになっている。俺という一人の人間は、豊臣家に流れる血の一滴なのだ。豊臣家の喜びは俺にとっての喜びと同じなのだ。だから俺はいま、これほどまでに嬉しいのだ)
という考えが自然と湧き上がる治長である。
豊臣家という組織体と、大野治長という一個人とが不可分のものであるという一体感を、得がたいもののように感じる治長。大坂城の輝きを、そこに起居する人々の意思のように感じたのも、その一体感の為せる業だったのかもしれない。であれば、人々の意思であろうが治長個人の精神的躍動であろうが、それは治長にとってどちらでも良い話であった。
なぜならば大坂城が、そして豊臣家が、燦然と輝く秀頼の未来のために、喜びに満ちあふれている事実に変わりはないということなのだから!
しかし治長は気付いていない。
関ヶ原合戦を契機に豊臣は衰退した、太閤恩顧の大名はみな徳川に靡いたという口さがない噂話も、家康の将軍任官と共に秀頼が関白に任じられるという噂話も、いずれも噂話という点で同種であった。治長は同じ噂話であっても自分が信じたくない噂話は切り捨て、信じたい噂話だけを信じているのである。
治長はまもなくそのことを痛烈に思い知らされることになる。
これこそが、茶々をはじめとする豊臣の人々にとって、この慶長八年正月のまま時間が止まってしまえばどれだけ幸せだったことだろうと思われてならない所以なのである。
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