妖精の夢物語

羽生零

1.可愛こころ

 七月のはじめごろ。夏休みはまだかとか、期末テストがどうだとか、そういう話で盛り上がるような、そんな季節。

 まだ蝉が鳴き出す前の朝方に、こころはぱっちりと目を開けた。ベッドからするりと抜け出すと、机の上の目覚まし時計のタイマーを止めた。こころはいつも目覚ましが鳴るより早く起きてしまう。けれど、こころはいつも、もう少しだけ眠っていたいと目が覚める直前に思うのだ。

(だって、面白い夢を毎日見られるんだもの!)

 今日もとても面白い夢を見た。一学年先輩の吉備きびさんが夢の中に出てきてサッカーを教えてくれる夢だった。けれどそれは、普通のサッカーじゃない。ボールは七色の光を放っていて、蹴る度に花火のようなきらきらとした光を振りまくのだ。夢中になってボールを蹴り合っているうち、いきなり目が覚めてしまったのだった。

(もっと見たかったなぁ。蹴りかたで光りかたも変わって、赤色に光らせるとまるで本物の火の玉みたいで! コツを掴めたと思ったのに、起きちゃうんだもの。もったいなかったな)

 頭の中に夢の出来事を思い浮かべながら、こころはパジャマを脱いで学校指定のシャツに腕を通す。こころはいつも着替えてから、顔を洗ったり、朝ご飯を食べたりする。その方が慌てて支度しなくて済むからだ。けれど、理由はそれだけじゃなかった。もう一つのちょっとした理由があった。

「……よし」

 シャツとスカートを着て、リボンタイを付け、それから髪をくしでとかすと、縦に長い鏡でチェックをする。寝癖やボタンのかけ違いも無い。それを見ると、こころは学校指定の手提げ鞄を持って廊下に出た。こころの部屋は二階の、階段を上ってすぐのところにあった。階段の下からは微かに、じゅうじゅういう音が聞こえ、香ばしい良い匂いも漂ってきていた。きっとベーコンを焼いてる匂いだ。けれどこころは、すぐ下には降りなかった。回れ右をして自分の部屋の隣にあるドアの前に立つ。ノックをすると、返事は無かったものの、すぐにドアが開いた。

「わっ。優利ゆうり

 驚いて、思わずこころは声を上げていた。ドアの向こうには眠そうな目をして、まだパジャマを着たままの優利がいた。

「姉ちゃん。……おはよ」

「おはよう。起きてたんだ」

「ん」

 こころの言葉にとても短い返事をすると、優利はドアを閉めた。優利はこころの双子の弟だ。けれど、双子だというのに、顔以外はあまり似ていない。こころは早起きなのに、優利は中々朝起きられないのも似てないポイントの一つだった。

(でも最近、早起きしてる日が多くなったなぁ)

 よしよし、良いことだとこころは一人で頷いた。いつも起きてくるのが遅いから、学校がある日は毎日起こしに来ているけど、一人で起きられるのが一番良い。

 ……けれど、少しだけ、何となくすっきりしない。今年に入ってから、優利は急に早起きする日が多くなった。しかも起きた後、顔色が悪いようにも見える。いつも元気に動き回ってる、そんな感じではないけれど、早く起きた日は特にダルそうにしているのだ。

(寝不足なのかな……それとも嫌な夢を見たのかな? 後で聞いてみよっと)

 こころは階段を降りていった。キッチンでは、こころの母がベーコンエッグとトーストを焼いてくれていた。こころは食器棚から三人分のお皿とお箸を出して、テーブルの上に並べていく。こころと優利、そして母のぶんだった。父は出張で、もう何ヶ月も帰ってきていない。食器を三人分出さなくなったのにもいまは慣れてしまったけれど、初めのうちは、いつも四人分を出しては収めることをこころは繰り返していたものだった。

 お皿にこんがり焼かれたベーコンエッグとトーストが乗っけられ、コップには麦茶が注がれた。全部の支度が調うころになって、優利も上から降りてきた。

「優利、大丈夫?」

「んー……なにが?」

「……しんどくない?」

 探るようにこころは言う。優利からの答えは「別に」の一言。冷たい感じがする言葉にこころは顔をくもらせて椅子に座る。最近、ちょっとだけ優利は冷たい。冷たいというか、素っ気ない。かといって、怒ってるようでもない。ただなんとなく、距離を置かれてるように感じているだけ。

(……嫌われちゃったのかな)

 そう思うけれど、それも何だか違う気がする。こころはモヤモヤとした気持ちのまま、朝ご飯を食べて家を出た。そんな姉の気持ちを知ってか知らずか、家から出て、学校に着くまで、優利はやっぱり無口で素っ気なかった。


 教室の前でこころは優利と別れた。教室に入るとあちこちから「おはよう」の声が飛んでくる。あいさつを返しながらこころは自分の席に座る。座ってすぐ、空いていた隣の席に女子生徒が勢いよく座った。

「おはよ、こころちゃん!」

「おはよう、ほたるちゃん」

「いやー、今日も朝から暑いねぇ」

 走ってきたのだろう、額の汗をハンカチで拭っている。蛍はサッカー部で、毎朝早起きをして、走り込みをしてから学校に来ている。こころが通う掘洲ほるす中学校のサッカー部は部員が少なくて、蛍は男子の中に混じってサッカーをしていた。ただ、背も高くて足も速い蛍は、一年生なのに男子顔負けで、地元の女子サッカークラブでもエースだった。

「こころちゃん、今日も弟クンといっしょに来たの?」

「うん」

「えーっ。こころちゃん、たまにはあたしたちと行かない?」

 そう言ったのは、前の席に座って他の生徒と話していた女子生徒、美海みうだった。髪を短く切りつめている蛍とは対照的に、伸ばした髪を、大きな青いガラスビーズがついたヘアゴムでくくってポニーテールにしる。

「いっつも弟といっしょだとつまんなくない?」

「弟クンもセットでいいじゃん」

「あの子がいたら何となく話しにくいでしょ」

「何で? 男の子だから? 気にしなくても良いと思うけどなー、うちは」

 こころの代わりに蛍が答える。こころは、何とも言えずに黙って笑う。弟と登校することは嫌じゃない。むしろ別々の登校になるのを考えると、ちょっとだけ不安になる。自分は友だちといっしょに学校に行けるかもしれない。想像すると楽しそうだけれど、でも……。

(優利……いっしょに登校してくれる友だち、いないよね……)

 優利はいつもひとりでいる。学校にいるときはもちろん、家に友だちを連れてきたり、友だちの家に行ったりすることもない。自分が優利から離れたら、優利がひとりぼっちになってしまう気がして、こころは友だちといっしょに行くと、自分からはどうしても言い出せなかった。

「――――でさあ、こころちゃんはどう?」

「えっ……?」

 考え込んでいたこころは途中から話を聞いていなくて、口ごもってしまう。すると蛍が、

「まだ中学始まってすぐじゃん? 好きな子とかできないって」

「すぐって言ってももう夏休みだもん、いっしょに夏休み中どっかいけるよー」

「え、あ……えっと……」

 いつの間にか、好きな男の子がいるかという話になっていたらしい。話の流れが分かっても、こころは困ってしまう。そういうことを考えたことは、いままで一度も無かった。少し迷ってこころは、

「ごめん、わたし、そういうのよく分からなくて」

 そう答えた。えーっ、とまた声が上げる。しかも、上がった声は美海一人だけのものじゃなかった。話している間にも教室にはクラスメートが登校してきて、こころの周りの席もどんどん埋まってきていた。

「こころちゃんかわいいのにぃ」

「弟くんと毎日いっしょだと、男子も声かけにくいよー」

「ねー」

「あっ。でも吉備センパイよく図書室来てるよね?」

「へえ、ミカさんが?」

 こころの隣で下敷きをうちわ代わりにしていた蛍が反応する。すると蛍に対して、女子の一人がむっとした様子で、

「ちょっと蛍さん? 先輩のこと、どうして下の名前で言うの?」

「どうしてもなにも、ミカさんがそう言えってさ。先輩って言われるの嫌いなんだって」

「そーなんだ、じゃああたしも先輩のことミカさんって呼んじゃおうかなぁ」

「てか、サッカー部の先輩がなんで図書室に?」

「いや別にサッカー部も図書室ぐらい行くでしょ。あたしは行かないけど」

 蛍はきっぱり言い切る。読書のためとか休み時間を潰すためとか、あるいは国語の授業とか宿題のために来ると言うこともない。本当に蛍はほとんど図書室に来ないことをこころはよく知っていた。逆に吉備は毎日のように図書室に来ている。サッカー部、というか運動部としてはあまりいないタイプだった。

「でもいいなあ、蛍ちゃん。部活で毎日先輩と会えるんでしょ? わたしもサッカー部入ろっかなー」

「あっ、わたしもわたしも!」

「入部してくれんのはありがたいけどさー、やるなら真剣にやってよ」

 話題の矛先は蛍に向かっていた。蛍が適当に答えているうちにチャイムが鳴り、先生が入ってくる。こころの周りにいた女子生徒は先生に促され、それぞれ席に着いていった。

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