たまゆらの街で待つ人は

飛野猶

第一話 まさか捨てられるなんて

「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」


 会社の給湯室で、マグカップの上に載せたドリップコーヒーにポットからトポトポと湯を注ぎながら、茜は今日何度目かわからないため息をもらした。


 今朝の朝礼で、同じ課の後輩が結婚を報告をしたのだ。


 後輩はゆるふわっとした髪にフェミニンなオフィスカジュアルが似合う、可愛らしい子。男性からしたら、守ってあげたくなるタイプだろう。

 はっきりモノを言い、なんでも自分でやってしまう茜とは正反対だった。


 その後輩が幸せいっぱいのオーラを漂わせて、花形部署である企画部のエースと結ばれることを報告するのを、茜は唖然とした気持ちで聞いていた。


(だって。だって、だって、私も彼とつきあってたのに!?)


 つまり、二股をかけられていたことになる。いや、彼から会社では付き合っていることを絶対に公言しないでくれといわれたり、結婚の話を匂わせるといつも話をそらされたりと、いま思い返すとそれなりの前兆はあったのだ。

 それを、恋愛に盲目になっていた茜が見て見ぬふりをしてきただけで。


 それにここ一ヶ月ほど連絡がほとんどつかなくなっていた。彼の「繁忙期で連絡する暇がない」という言い訳を信じて待っていたのに、まさかこんなことになるだなんて思ってもいなかった。


 きっと彼にとって茜のことは本命が駄目だったときのキープか、もしくは遊びだったのだろう。


「おめでとう」「お幸せに」の声が飛ぶ職場を逃げ出して、誰もいないところで思い切り声をあげて泣きたかった。


 でも、染みついた社会人としての常識はこんなときでも体面を繕ってしまう。

 茜は、他のみんなと一緒に後輩に拍手を送り、無理矢理笑顔をつくって、「おめでとう」の言葉を贈ったのだ。


 そのあとすぐにトイレへ駆け込んで彼にSNSを送ったけれど、何時間経っても既読にすらならなかった。電話を掛けてもすぐに切れしまう。これは、ブロックされたに違いない。


 そんな不誠実なやつを好きになっていた自分に対してまで腹がたって、この行き場のないモヤモヤを盛大なため息に変えて吐き出していたのだ。


「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、っちゃ、あつっ!」


 うっかりお湯を入れすぎて、コーヒーがマグカップからあふれ出てしまった。

 こぼれ出たコーヒーを布巾で拭きながら、茜はがっくりと肩を落とす。


 こんな日は、まっすぐ家に帰って大好きな海外ドラマのシリーズの続きを見よう。

 そう思ってその日は残業はせずに仕事が終わるとすぐに家に帰って、タブレットで動画配信サービスのアプリを開いた。さあ、現実を忘れて堪能するぞ!と意気込んだものの、どれだけ探しても大好きだった海外ドラマのタイトルが見当たらない。


「え、あれ……どうして……?」


 お知らせのところに、配給元の事情によりその海外ドラマの配信サービスが終了したという記載をみつけたのは、そのすぐあとだった。


 茜はぐったりと自室の床に仰向けで倒れ込む。


 もう何もかも嫌になりそうだ。どっと疲れが全身を襲う。メイクを落とさなきゃ、服も着替えて、それから買ってきたコンビニのお弁当も食べて。

 でも、度重なるショックに打ちのめされて起き上がる気力もわかなかった。


(はぁ……もう泣きたい気分……)


 でも、これだけショックなことが重なったというのに涙なんて出てこない。


 思えば、小さな頃はいまとは正反対で、ちょっとしたことですぐ泣く少女だった茜。

 あの頃は、嫌なことがあっても泣けばすっきりして、すぐに気持ちを切り替えられたのに。


(それにあのころは、おじいちゃんがいたからなぁ)


 子どもの頃。学校で嫌なことがあって泣いて帰るたびに、「おや、どうした、どうした?」と祖父はその大きくあたたかな手で茜の小さな頭を包み込むように撫でてくれた。


 そして「じいちゃんに涙の訳をきかせておくれ」とダイニングテーブルに大好きなおやつを用意してくれて、茜のつたない涙混じりの話を「うんうん。それは困ったね」と優しく頷きながら聞いてくれたっけ。


 ショックなことが続くあまり、ついそんな昔の思い出を引っ張り出して心を慰めていた。


 母は茜が物心つく前に父と離婚し、茜を連れて田舎の祖父の家に身を寄せていた。

 仕事で帰りの遅い母の代わりに茜の面倒をみてくれたのは、教師を退職して家にいた祖父だったのだ。


 あの頃の茜にとって祖父は一番身近な存在であり、ずっとその生活が続くのだと信じていた。


 しかし、祖父との懐かしい思い出は茜に甘く穏やかな気持ちを思いださせてくれる反面、胸の奥に今も残る苦い記憶をじくじくと呼び覚ます。

その痛みは普段は影をひそめているけれど、こうやって何かあるとすぐに痛み出すのだ。


 あんなに大好きだった祖父に、あんな酷いことをした自分は絶対に幸せになんてなれないんだと呪縛のように茜の心を叩きのめすのだった。

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