第5話 沙織の泣き声

「よぉ、はよ」

「え、あ、おはようございます……っ!」


 私が寝不足気味な顔を洗っていると、夕陽先輩が起きてきた。

 夕陽先輩は寝起きが悪いようで、朝はずっと不機嫌顔をしていることが多い。

 ものすごくこわくて今でも萎縮しちゃうけど、怒っているわけではないみたいだ。

 ……た、多分。


 そういうことにしておいて、夕陽先輩とさりげなく距離を置く。

 こわくて近寄りたくない。

 朝の夕陽先輩は、そこらの不良と同じくらいこわい顔をしているから。


「あー、今日も早いのか?」

「えっ……! あ、はい……一応朝練が……」

「そっか。大変なんだな」

「は、はい……でも、好きで入った部活なのでそこまで苦じゃないと言いますか……」


 ビクビクしながら夕陽先輩と会話する。

 まあ、これはいつものことだから大丈夫だ。

 ……でも、もし夕陽先輩を怒らせたらと思うと身の毛がよだつから、そこは大丈夫じゃないんだけど。

 はやく慣れないと……


「お前ってさ、どうして馬が好きなんだ?」


 夕陽先輩は突然、変なことを聞いてくる。

 いや、変ではないか。

 でも、なんでこのタイミングでそんなことを聞いてきたのだろう。


 どうして……と言われても、好きなものは好きだからとしか答えようがない。

 ずっと前から好きで、昔から動物そのものが好きで、その声を聞くのが当たり前で。


『今日はどんな話を聞かせてくれるの?』

『あなたと出会えてよかったわ』

『さようなら、沙織』


 その言葉を……声を思い出した瞬間、涙が溢れてきてしまった。


「ど、どうしたんだ……!?」


 それにはさすがの夕陽先輩も驚いたようで、眠気が完全に覚めた表情をしている。

 でも、今の私には夕陽先輩に「なんでもないから大丈夫です」と言えるだけの余裕はなかった。

 ボロボロと子どもみたいに泣きじゃくることしかできない。


「うっ……シロぉ……」

「お、おい……ほんとに大丈夫か……?」


 思わず、その名前が口から出てしまった。

 私の初恋の相手と言っても過言ではない。

 シロ――それは正式な名前ではないけれど、私にとっては『シロ』なのだ。


 もちろん人間ではなく、昔通っていた乗馬クラブの中でも特にお気に入りの馬だった。

 優しくて賢くて、昔の私にとって頼れるお姉さん的存在。

 ……だったんだけど、とある事件がきっかけでその乗馬クラブから姿を消した。


 ――私を、守るために。


「うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

「うわっ!?」


 もう子どもみたいにじゃなくて、子どもに戻って大きな泣き声をあげた。

 あの時だってこんなに泣いたかどうかわからない。

 時間が経っても……いや、経ったからこそ、悲しみが膨れ上がってしまうのもなのだなと思った。


 夕陽先輩はどうすることもできないようで、ひたすら私が泣き止むのを待ってくれていた。


「……うっ、ぐすっ……」

「もうおさまったか?」

「はいっ……お騒がせ……しました……っ」


 あれからどれくらい経ったのかわからないけれど、朝練には間に合わないだろうということはわかる。

 ……馬たちに申し訳ない。


「すまん。僕が変なことを聞いたせいだよな。……嫌なこと思い出させちゃったか?」

「い、いえ……! そういうことでは……!」


 泣いてしまったのは、こちらの問題だ。

 それに、嫌なことを思い出したわけではない。

 この記憶は、私にとって大切なもの。

 だから、夕陽先輩は申し訳ない顔をしなくてもいいし、そこまで私のことを気にかけてくれなくても大丈夫だ。


「でももう朝練には間に合わないよな……」

「あー、もう今日は大丈夫です。どのみち、今馬に会うのはつらいというか……」

「やっぱり、なにかあったんだな」


 夕陽先輩の言う通りだけど、まだ他の人にこれを話すだけの心の余裕はない。

 いつか話せたら、気持ちが軽くなるだろうか。

 泣かずに、あれはいい思い出だと言える日は来るだろうか。


「ま、深く干渉する気はないけどさ、自分の気持ちはコントロールできるようにした方がいいぞ」

「気持ちのコントロール……」


 確かにその通りかもしれない。

 今みたいに感情を抑えられなくて暴走しちゃうと、だれかに余計な心配をかけてしまうことになる。

 夕陽先輩と話していると、色々と気付かされてばかりだ。


「ありがとうございます、夕陽せんぱ」

「じゃないと――この世界を滅ぼしてしまうことになりかねんからな……!」

「……はい?」


 夕陽先輩の衝撃の一言に、思わず間の抜けた声を出してしまった。


「僕も日々、怒りの感情だけは常に抑えるようにしているんだ。そうじゃないと、僕の中に眠る超パワーが溢れ出してしまうからな」

「は、はぁ……」


 謎の厨二病スイッチが入ってしまったらしい。

 こうなると、しばらくは止められない。

 夕陽先輩の超パワーの話を聞きながら、これからどうしようかということを必死で考えていた。

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