第112話 始まりの二刀流(前編)
強大な暴力の雨に、ムサシは久しぶりに死を感じていた。
不思議なもので死ぬと思うと、決まって走馬灯のように記憶が思い起こされる。
けれど、そういう時に限って思い出すのは嫌な記憶だった。
楽しいことを思い出そうとしても大抵はそういうもんで、不意に思い出した黒歴史に意味もなく声を上げたくなる。
だからだろうか。ムサシが思い出したのは……――
・・・・・・・
・・・・・
・・・
僕の生まれた宮本家は、あの歴史上の偉人である宮本武蔵の子孫にあたる家系で、その繋がりもあってか『宮本剣道場』という道場を開いていた。
だからといって実際に"二天一流"を学ぶわけではなく、普通に剣道を教えていた。
一家は宮本武蔵の子孫であることを誇りに思っており、父は息子である僕に立派になってほしいという願いを込めて、最強の侍の名である『武蔵』を僕に名付けた。
これが僕――ムサシ・ミヤモトが生まれたときのことだった。
・・・
7年後、僕は何の因果か、剣の才能が目覚め始めた。
同世代に敵は無く、中学生にも引けを取らぬほどだ。
そんな僕を父と母、そして姉さんはとても褒めてくれた。
子供の頃は単純で、褒められると調子に乗ってもっとやってやろうなんて思うのだ。
朝昼晩、時間も忘れて剣の練習に励み、いつしか僕の才能は完全に開花する寸前であった。
しかし、悲劇というのはいつだって突然に起こる。
・・・
『残念ですが……』
それはあまりにも突然であった。
元気だった母が、今は病院のベットの上で冷たくなっている。
心臓発作だった。
最初は父も姉も僕も、これは夢なのではないかと錯覚していた。
だが、医師のその一言が僕たちを現実へと引き戻す。
優しい母は、この世を去ったのだ、と。
動かない母に僕は抱き着き泣き叫んだ。姉もその場で力なく膝をつくと両手で顔を覆い涙を流した。
悲しみに包まれる中で、父だけが涙も流さずに立ち竦んでいた。
今思えばこの時からだ。
父が狂いだしたのは――
・・・
『武蔵、稽古を始めるぞ』
母が亡くなると、父は道場を閉じた。
そして、僕を徹底的に鍛え上げようとしたのだ。
当時の僕は才能に溢れた少年であったが、父だって相当な腕の持ち主。
子供が大人に勝つのは難しく、僕は何度も負けた。
息を切らし這いつくばると、父は僕の腹に蹴りを入れた。
『早く立て!』
何度も何度も腹を蹴り上げられ、僕は思わず嘔吐してしまう。
そんなのもお構いなしに父は練習用の竹刀を振るった。
汗と吐瀉物、そして血で床は汚れていた。
稽古は終わったが、僕は一人道場で倒れていた。
心配になって見に来た姉に、父は床を掃除しておけと一言だけ告げると、そのまま家の中へと入っていく。
姉は僕を見て駆け寄ると、すぐに手当てをしてくれた。
姉は言った。
『父さんは何かに没頭して忘れたいのよ。きっとね』
だからこれも、もう少ししたら収まるから、もう少しだけ耐えよう、と。
姉は、傷だらけの顔で僕にそう言った。
『……うん。頑張るよ』
姉が理不尽に耐えているなら、僕も耐える。
僕は優しい姉を最後の励みとして、父の暴力に耐えることを決めた。
・・・
母が亡くなってから5年の月日が経ち、僕は12歳になった。
相変わらず父は横暴であった。
稽古の時間は日に日に増えていき、学校にも碌に通えていない。
唯一良かったと言えるとすれば、僕の剣の腕が上がったことくらいで、50回に一度くらいなら剣を当てられるようになった。
強くなった実感があった。
いつか、父よりも強くなれば姉への暴力も止まる。もう一度優しい父に戻ってくれる。
このときは、そう信じていた。
だが、現実は非情であった。
・・・
ある日、僕はいつものように道場へと足を運んだ。
いつもと違っていたのは、父が先に来ていたことくらい。
珍しいと思ったが口には出さずにいると、父はおもむろに僕の足元へと何かを投げ落とした。
それは、本物の日本刀だった。
『武蔵……命を懸けろ』
父はそれを最後にただ抜刀した。
僕は意味を理解しないまま足元の刀を手に持つ。
始めて見る真剣に、僕は手が震えそうになる。
理解が追い付かず、訳も分かぬまま僕も抜刀すると、父は容赦なく斬り込んできた。
『うわっ!?』
とっさに刀で刃を受け止める。が、父の腕力に押され僕は情けなく倒れる。
父はさらに刺突を繰り出すと、僕の頬の皮を一枚斬った。
流れる血の熱さに、ようやく僕のは認識する。父は本気で、僕を殺そうとしているのだと。
そして本気の殺意を前にして、12歳の僕ができるのは一つだ。
『う、あぁあぁぁああああ゛ぁあ゛あ゛!!』
一目散に背中を向けて逃げ出した。
早く逃げなければ殺される。そう思って必死に駆け出した。
だが、そう上手くいくわけがない。
『敵を前にして逃げるなぁッッ!』
所詮は子供の走力。すぐに追いつかれると、父は僕の背中を上から下へと斬り下ろす。
背中の痛みと、死への恐怖が僕を包んだ。
痛くて怖くて、ただ泣くことしか出来なかった。
『男が泣きよって――』
そんな僕に対し父は、ごみを見るような目で睨んだ。
『恥を知れぃ!』
父はもう一度刀を振り下ろした。
これから僕にできることは死を受け入れることだけであり、全てを諦めた僕は静かに目を閉じた。
『――大丈夫?』
けれど、僕の耳に優しいあの人の声が届いた。
『……姉さん?』
瞼を開けると、姉は僕の無事を確認して安心したように笑った。
僕を抱きしめる形でいる姉に、僕も安心して姉を抱きしめた。
だが背中に手をまわした時、僕の血の気は引いた。
姉の背は真っ赤に濡れていて、僕の手も同じ色に染まっていたのである。
僕はすぐに理解できた。
姉が、僕を庇ったのだと。
自分も痛いだろうに、姉はそれでも僕が無事であることを喜んでいた。
泣きそうになる僕だったが、すぐに現実へと引き戻されてしまう。
『女が……男の勝負に首を突っ込みやがって……っ!』
怒髪天に達した父は、怒りのままに刀を構える。
その後の光景は容易に予測できた。
『ね、姉さん! 逃げ――』
『武蔵――』
振り下ろされた刀と同時に、姉は笑顔で言葉を投げかけた。
『お父さんを、許してあげて――』
その言葉が最期であった。
父の刃が肉と骨を断つ音が響くと、少し遅れて最愛の姉の首が、僕の腕の中へと落ちてきた。
その瞬間、僕の中で、何かが弾けた。
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