3.あの日の二人
ひどく冷たい風は頬を撫でるというよりも刺すという表現の方がしっくり来る。すっかり日が落ちるのが早くなった。
最近付き合い始めた
気分の乗らない由宇に彼は真っ直ぐに好きだと伝えてくれる。そんな彼のことをもしかしたら好きになるかもしれない。由宇はそう期待をしながら交際を続けている。
公園でブランコに揺られているであろう奈々子を長く待たせたくなくて、駅に着いたらいつもはすぐに別れる。けれど今日はなかなか帰してくれなかった。それとなく手を繋ぐ以上のことをさせないでいたことを気にしていたらしい。
嫌というわけではないけれど、したいという気持ちも特段なかった。付き合っている以上断る理由もない。
「今日はちょっとしつこくって遅くなっちゃった、ごめんね」
「・・・・・・別に、気にしなくていい。勝手に待ってただけだから」
「結構待ってた?本当にごめんね、家帰ろ」
「平気。そんな気遣うの、ゆうちゃんらしくないよ」
「良いから、今日は家で話そ。久々にお母さんにも顔見せてあげてよ」
家へ寄ることを提案すると寒さで強ばっていた表情が緩み、唇だけは不機嫌そうに尖らせたまま「うん」と奈々子は頷く。
僅かに拗ねたような、意地を張っているような、そんな気配を感じた。感情の起伏を見せることの少ない奈々子。その些細な語気の違いに気づけたのは幼馴染みゆえなのだろう。
明日は土曜日とはいえ、早く帰らせることが奈々子のため。だが、このまま別れるのは
「ちゃんと綺麗にしてるんだね」
「まーね。大掃除終わったばっかってのもあるけど」
先ほどまでの尖った雰囲気が嘘みたいに奈々子は落ち着きなく部屋を見回す。飲み物と由宇の母が用意してくれたおにぎりを取りに席を外していた間もそうしていたのか、折りたたみのテーブルの前に座る奈々子はソワソワした様子だ。よく遊んでいた頃と家具の配置はさして変わらないが、高校生になってから部屋のインテリアに凝るようになった由宇としては興味を持って部屋を見てくれるのは嬉しいことであった。
ベッドを背もたれにしている奈々子の隣に腰を下ろして、由宇は淹れ立ての温かいほうじ茶に口をつける。
「あんまり見られると恥ずかしいよ」
「だって、最後に来たときよりもおしゃれになってるから」
「えー本当に?もっと言ってくれて良いよ」
おどける由宇の肩を叩いて「調子に乗らないの」と言いながらも奈々子は口を押さえて笑っている。年下だけれど憮然としたその態度が奈々子なら嫌ではなかった。
「でもゆうちゃんがどんどん大人になっていって寂しい」
「奈々子だって十分大人っぽくなったと思うけど」
ふざけて由宇が背中につーっと指を滑らせると奈々子の肩が跳ねる。「馬鹿にしてる、ムカつく」と小さく呟く奈々子には、つい先ほどの微かな不機嫌の色が滲んでいた。
「冗談だよ、奈々子何かあった?それとも悩み事でもある?お姉さんが聞いてあげよう」
「・・・・・・」
由宇の言葉はあながち的外れでもなかったのか、 奈々子は口を噤んでしまった。
「無理には聞かないけどね。私は奈々子のこと妹みたいに思ってるし、困ってるときは頼りにしてくれたら良いなぁって思ったりしてるから。それだけはわかっててくれると嬉しい」
「・・・・・・今日、何で遅くなったか聞いてもいい? 」
思いのほか甘やかすような、こんなに優しい声が自分の声帯から出るのかと由宇は我ながら驚いた。遠慮がちに探るような視線を向けてくる奈々子の髪を指で梳かす。正直に話すのは躊躇われるけれど、ここで嘘をつくのはあまりにも不誠実なことに思えた。
それくらい奈々子の視線は真っ直ぐで、由宇は戸惑いすら覚えていた。
「最近、彼氏できたって話したじゃん?それで今日引き留められちゃって」
「その人のこと好きなの? 」
「好きっていうか、うーん。好きになれるかもって思って付き合ってるかな」
潤んだ奈々子の瞳に少し怯みながら由宇は答える。友人にも話さないで考えは言葉にすると浅はかなものに思えた。今日、彼から半ば無理矢理唇を奪われたとき、ぞわりと背筋に嫌な感覚がして。唇にかかる息も、力強い腕にも何一つ気持ちが昂ぶらなかった口づけに、前向きな未来は到底見えなかった。
「手、繋いだの?ハグは?キスもした? 」
「ちょっと、どうしたの?そんな話するの奈々子らしくないよ」
矢継ぎ早に奈々子が質問を重ねることはよくあることだ。だが、いつもならもっと好奇心が強くて思わず出てしまったような、明るい調子のものが多かった。今はむしろ責めるような、そんな口調。由宇ははぐらかすことしかできない。
好きでもない相手と『そういうこと』をする人間だと奈々子に思われたくなかった。
「好きじゃない人と、ゆうちゃんはできるんだ」
「奈々子、本当にどうしたっ――」
俯いてしまった奈々子が絞り出したのは、涙声のような震えた声で。いよいよ様子がおかしい。あやすように由宇が顔を覗き込むと、がっしりと両頬を挟まれる。細い腕のどこからそんな力が出るのか、なんて由宇が思考を巡らせている内に傾けた奈々子の顔が近づき、唇が重ねられていた。
柔らかく水分を含んだ感触。強く力を込めれば突っぱねられるはずなのに、由宇は拒めなかった。ふわりとした唇は強く押しつけられるでもなく、お互いの形がわかる程度に触れている。幼馴染みの暴挙に心臓が早鐘を打っているのか、甘いシャンプーの香りにあてられているのかわからない。たった十秒ほどのそれが永遠にも思えた。
離れた唇が由宇の首筋を吸ったときにようやく体に力が入って、奈々子から距離をとる。これ以上は冗談では済まなくなる。幼馴染みとして一緒に居られなくなる。パニックに陥りかけていたが、その判断はできた。
「ごめん、違うっ・・・・・・ごめん」
「大丈夫、大丈夫だから、冗談なんだよ、ね? 」
助け船のつもりだったが、これまでに見たことのない奈々子の傷ついた表情を目の当たりにして由宇は顔を逸らす。奈々子の白い頬には涙が伝っていた。
由宇の言葉が奈々子を傷つけているのが明らかだった。そんなことは初めてで、今の彼女にどんな言葉をかければ良いのかわからず、由宇はただ奈々子のスカートの裾辺りに視線を落とすことしかできない。
「・・・・・・冗談だったら良かったね。ごめん忘れて、私帰るから」
コートを掴んで立ち上がる奈々子に顔を上げる。奈々子とは付き合いが長い。下手な同級生よりも自分の方が奈々子のことを理解している。飄々としている彼女が困っていることにだって自分が一番に気づいてやれる自信が由宇にはあった。
そんな自信は何かを諦めたような奈々子の表情を前に容易く打ち砕かれていく。由宇は自分から離れていく奈々子を引き留めることができなかった。
そしてその日を境に奈々子が公園に現れることはなくなった。
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