第32話
「じゃ、そろそろ次へ行こうか」
木内は残っているビールを干して立ち上がった。「河岸を変えるのか」と聞いても終始下品に目元を下げるばかりで答えようとしない。紅頬した姿は気色が悪く、貧相な
「いいから来なよ。金は出すってんだから」
柔和な表情ではあったがその声は荒々しく獣の鳴き声のように聞こえた。見た目も言動も悪く、人間性も軽薄な奴と僕はどうして酒を飲んでいるのだろうかと遅い後悔に襲われるも、もはや後には引けず、腕を引っ張る木内の歩行に任せるままに歓楽街の奥へと呑まれていく。街灯が一つ、また一つと消えていき、代わりに妖艶な光が点いたり消えたりする区画へ辿り着いた。先までとは違う、よく分からない臭い(香水、芳香剤、吐瀉物が混在したような臭いだろうか)が漂い、背徳の恐れを抱かせる場所だった。
「あんた、女はまだだろ。ここで済ませちまいなよ。前の詫びだ」
木内は緩んだ口元で囁く。
その内容を徐々に理解した僕は必死で奴の腕を振り払おうとしたが、がっしりと掴まれた右手は抜けず、手首から肘にかけてが縄跳びのように空回りするだけであった。
「いいから。悪いようにはしないよ」
なされるがままに、小さな建物へと連れ去られていく。心音が高鳴り、恐ろしく、鳥肌が立ち……
……いや、白状しよう。僕はこの時、逃げようとする振りをするだけで内心期待をしていた。女の肌に、髪に、秘部に、初めて触れられると思うと、どれだけ理知を振り絞ろうとも抗えなかった。
確かに木内の手は力強かった。しかし、解けない拘束ではない。なんとかすれば抜け出せただろうし、走れば部屋まで戻れたように思う。
だが、僕はそうしなかった。
これまで夢見た女の身体を前に、そうできなかった。胸の高鳴りは、恐怖もあったが、半分は欲情によるものだった。
木内を言い訳にし、「これは事故だ」と心中で弁明を繰り返す。他でもない僕自身に対し、ひたすらに、ひたすらに。
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