血は冷たく流れ
白川津 中々
第1話
街を歩くと、どうにも駄目になるのだった。
いつ頃からか朧げだが、確か高校を卒業して、しばらくした後そうなってしまったような気がする。景気が悪く、中々勤め先が見つからず、藁にも縋る思いで門を叩いた食品工場に拾われた僕は薄給重労のうえ飛び交う罵倒や卑猥な言葉に終始晒されていた。清掃もままならない薄汚い作業場は肥溜めといって差し支えなく、そこで働く人間は蠅か壁蝨か蛆虫だった。それは無論、僕も例外ではなく。
入った当初、僕はまだ人間だった。怒鳴られれば傷付き、下卑た言葉には眉を顰め、汚れの絶えない機材や材料を使って食べ物を加工していく事に罪悪感を覚えていた。それは確かである。しかし、そんな良心や良識はいつしか消え失せ、まず最初に虚無が訪れた。劣悪が日常となると人でなしの行いに道義的な疑問が浮かばなくなり、認識が「そういうもの」だという風に固定される。軽蔑や非難の感情こそあるものの、滅多な事では悲嘆もせず、下品な極まりない会話も平気になっていった。
それ自体は不思議ではない。誰もが清廉潔白でいられるわけもなく、程度の差はあれ人は押し並べて汚れていく者である。僕もまた、その例に漏れなかっただけに過ぎない。ただ、僕の場合そうした穢れに侵食され、精神が蝕まれてしまったのだった。
誰かが言った、僕に向けられた罵詈雑言。気にも留めていなかった言葉だったが、しかし、すれ違う通行人に同じ暴言を吐いている事に気がついた。
人間の屑。死んでしまえ。
名前も知らない、本当に誰かも分からない人だった。
非常に恥ずべき事だった。治癒するよう努めなければならない精神的疾患を、僕は患っていた。
その卑劣な罪を認識した時、僕はもう普通ではなく、地の底で光の当たらない生き方をしなければならない存在になってしまったのだと自覚した。もし真っ当な人間であれば誰もが改めようとするだろう。あるいは、自死を選ぶか……
だが、僕はその唾棄すべき濁悪を受け入れ、無差別に道行く人を侮蔑していったのだった。いや、無差別にというのは違う。取り分け幸せそうな、上澄みに住むような人間を狙っていた事を白状しよう。僕は豊かで富める人々に対して胸の内に燻る惰弱な精神性を殺意に転換していた。あの、憂いのない、本当に優しい笑顔が、憎くて憎くて、堪らなかった。
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